第22話 月夜の訪問者
マルゼンダ伯爵家の屋敷に戻ると、メイド長が涙を流しながらカシスタンの元へ駆け寄った。
カシスタンはそっと彼女の肩へ手を置いた。
「よくぞご無事で……」
そこには、地位も立場も超えた温かい信頼が感じられた。
「彼女は、カシスタン様の乳母だったそうですよ」
モズリンがそっと教えてくれた。
ほどなくして、王都からの調査隊が屋敷へ入り、家中は騒然となった。
客間、書庫、執務室。マルゼンダ伯爵夫人の部屋のものは、大半が持ち出された。
何も知らない使用人たちは困惑していたが、伯爵夫人付きの侍女はだけは。重要参考人として王都へ連行された。
混乱がようやく鎮まったのは、空がすっかり闇に沈んだ頃だ。
「ポーラディア領へお戻りにならなくて、本当によかったのでしょうか?」
モズリンが心配そうに声をかけてくる。
オリフタン様との婚約が無くなった以上、私がここに長居する理由はない。
『アリアンディ、あなたが成すべきことを見極めなさい。帰ってくるのは、それからでも遅くはないわ』
教会の前、お母様は私にそう言った。
「明日、伯爵とお話をして、今後のことを決めましょう」
「そうですね」
「今夜はみんな疲れているから、もう休みましょう」
「かしこまりました」
「おやすみなさい」
働き続けていたモズリンを部屋へ返し、私はソファへ身を沈めた。
――さて。私の成すべきこととは、なんなのだろう。
開け放した窓から夜風が吹きこみ、髪がそっと揺れる。
私はゆっくりと身体を起こした。
「あなたに廊下は必要がないのね、カシスタン様」
月光を背に、窓枠に寄りかかっている人影へ声をかけた。
「こんばんは」
「今夜もバルコニーからようこそ。あなたに会いたいと思っていたところです」
私の言葉に、カシスタンは眉をわずかに動かした。
「それは、光栄ですね」
そっと近づいて優雅に一礼する。
薪ストーブの上のポットが音を立て、湯気がふわりと立ち上る。
その香りが、さっきまでの張りつめた空気をゆっくり溶かしていった。
「カシスタン様。今夜は帰しませんよ」
「はは、それはなんとも情熱的な愛の告白ですね」
「誤魔化しないで。聞きたい話が山ほどありますから」
カシスタンは肩をすくめ、素直にソファへ腰を下ろした。
息を整えて、私は口を開いた。
「あなたは……誰なの?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。
「私を――。いえ、愛花を知っているのでしょう?」
「ええ、そうですね」
あっさりと肯定される。
「私の前世の記憶には、政人との辛い日々ばかりで、あなたのことはなにもない。どうして? なぜ私には、あなたの記憶がないの?」
静かな沈黙のあと、カシスタンはゆっくりと語り始めた。
開け放たれた窓の外には、折れそうに細い下弦の月が、静かに浮かんでいた。




