第17話 抱きたい気持ち
宙を舞うというのは、このことか。
カシスタンは私を抱きかかえたまま、バルコニーから飛ぶと、隣の部屋のバルコニーへフワリと着地した。
そのまま勢い衰えることなく、次々とバルコニーの柵の上を滑るように走る。
東棟の2階から物置小屋の屋根を伝い、裏庭を通り抜けて行った。
月夜の冷たい夜風を切る影。
「到着しましたよ」
あっという間に、西端の私の部屋のバルコニーへ舞い降りた。
「怖がらせてすみません。誰にも見られずに助けたかったので、強行手段を取りました」
「さ、さっきも、こうやってバルコニーに来たのですが?」
「ええ、そうです」
カシスタンが軽く息を吐き、私をそっと下した。
「体力と身軽さには自信があるんですよ。でも、戦争が終わって身体が鈍ってますね、少し息が上がりました」
水差しからグラスに水を注ぐと、カシスタンに差し出した。
「こんなに水が美味しいと思ったのは、初めてですよ」
カシスタンが水を飲み干す。
「僕は10歳までこの屋敷で育ちました。この西の部屋は、かつては僕が使用していたのです」
「そうでしたか」
僕らの部屋。
そう言った意味を、ようやく理解した。
「マルゼンダ伯爵夫人は、昔から僕と父上が話すことを、極端に嫌がりました」
「親子なのに?」
「僕はオリフタンとは腹違いの兄弟です。跡継ぎの座が危ぶまれると思ったのでしょう。ですから、僕はこっそりと東棟にいる父上に会いに行きました」
「それが、先ほどのルートですね」
「ええ、そうです」
夕方、突然バルコニーから侵入したことも納得だ。
「少し、昔話に付き合いませんか?」
私たちはソファに並んで座った。少しだけ、間を開けて――。
「母は身体が弱く、僕を生んですぐに亡くなりました」
カシスタンはゆっくりと語りだす。
「その後、屋敷で侍女として勤めていた子爵令嬢、つまり母上が後妻となり、生まれたのがオリフタンです」
「カシスタン様が先に生まれたのなら、伯爵家の長男、つまり跡取りは、カシスタン様ですよね?」
でも、カシスタンはオリフタンを「兄上」と呼ぶ。
「先妻との長男を養子に出すとなれば世間体が悪いので、僕を次男としているのです」
「カシスタン様は、先ほど伯爵に会われたと言いましたね」
マルゼンダ伯爵夫人の驚きようを思い出す。
「もちろんバルコニーから忍び込みました。父上は相変わらずだと笑ってましたよ」
「伯爵は会話ができないほど体調が悪いのでは?」
「いいえ、そんなことはありません」
「でも、明日の式にも参列できないと伺いました。まだ挨拶もできていなくて、心苦しいのです」
「父上も、気にしていました」
カシスタンの話しぶりだと、父と息子の関係は悪くはなさそうだ。
「でも、大丈夫です。きっと会えますよ」
「そうでしょうか」
カシスタンは、伯爵に似ているのだろうか。
その、黒い黒曜石のようは瞳も……。
視線をカシスタンに向ける。
「そんな目で見られたら、自制が保てない」
カシスタンが、私の頬へそっと手を伸ばす。
「本音を言えば、このまま抱いてしまいたい」
「ご冗談を。私はお兄様の妻ですよ」
「明日の結婚式が終われば、ですよね?」
真っすぐな瞳に、私が思わず視線を逸らした。
まだ私とオリフタンは、正式な夫婦ではない。
明日の正午に教会で誓いの儀式をするまでは。
――明日が、来なければいいのに。
「だめですね」
カシスタンは手をギュッと握りしめる。
「今夜は、これで失礼します」
カシスタンは、自分の気持ちを切り替えるよう、わざとらしく手を叩いた。
「オリフタンが来るかもしれません。しっかりと内側の鍵をかけて寝てください。彼はバルコニーからの侵入はしないと思いますが、念のため窓にも鍵は必要ですよ」
そう言って今度はドアから部屋を出ようとした。
私は慌てて背中を追いかける。
だって、まだ私には聞きたいことがあるのに。
「お待ちください、カシスタン様!」
止まれずに勢い余って、カシスタンに抱きつく形になってしまった。
「あ、ごめんなさい」
「アリアンディ……」
私の右手を取ると、手の甲に軽く口づけた。
身体が一瞬で燃えるように熱くなる。きっと顔も真っ赤だろう。
「おやすみなさい、また明日」
何も言えないまま、後ろ姿を見送った。




