エンとリンシン
12.エンとリンシン
エン
ケツに見初められて、この宮殿に入ったのは15歳の時だった。翌年にはカイも生まれ、幸せだった。だが、それもわずかな間だけで、ケツの興味はすぐに薄れ、顔さえ合わさない日が多くなっていった。
宮殿内の不毛な争いに巻き込まれるのも、人付き合いも面倒なので、ケツにお願いして、天に仕える者達の長の立場を得た。長と言っても名誉職であり、特に何もすることはない。だが、暇を持て余すのも嫌なので、祭祀、儀式については勉強し、実際に取り仕切るようにした。
おかげでカイと一緒に過ごす時間は無くなってしまったが、特にカイもそれは必要としていないだろう。カイは、体は弱いが、頭の良い子だった。教えれば何でもすぐに覚えるし、何でも出来た。外への興味が強いのか、異国の文化や言葉、文字もどんどん吸収していった。
いつの日かカイは、カの国始まって以来の神童と呼ばれるようになっていた。だが、その頭の良さで、人を見下すような態度をとることが多かった。乳母や世話人に対しては良いだろうが、母親にまでそんな態度をとる。正直、カイと触れ合うのは苦痛でしかなかった。
それでもわが子は可愛いものだ。ケツには正室の間にも、他の側室の間にも男子がおり、カイは無用な争いに巻き込まれず、穏やかに暮らしていけるように、出来るだけ配慮してやらなければならないと思っていた。
ケツが精神的に不安定になり始めた頃、普段は顔さえ見せないのに、寝所に来て泣きながら怖い、怖いとすがってきた。その時の子がリンシンだ。カイが5つの時だった。
このリンシンもカイに負けず利発な子であったが、兄とは違い、生まれ持って陽の気を放っていた。リンシンが笑えば誰もが心を開き、誰もが言うことを聞かざるを得なくなる。
リンシンはいつも人の輪の中心にいたが、それでいて、謙虚だった。敵を作らず、誰からも信頼される子だった。だから、カイと過ごすよりもリンシンと過ごすことの方が楽だった。リンシンは幼き頃より、天に仕える者達の中で暮らし、手元に置いて育てた。
天に近い存在
ケツの様子はどんどんおかしくなり、酒と女に溺れていった。近いうちに国は亡びるだろう、その時、命運を共にしなければならないだろうか。私は良くても子供たちは生き延びる手段はあるだろうか。そんなことを考えなければならない程、国は乱れていった。
幸い、天に仕える者達には味方が大勢いた。ケツさえ知らない情報も持っていたし、ある程度は、政の方向を修正することも出来た。その集まってくる情報の中に、後半年ほどで、大規模な謀反が起きるとの情報があった。いよいよ覚悟を決めなければならない。
そんな時、いつもの祭祀の中で、その存在と出会った。それは、自分は決してお前たちが崇める天ではないが、天に近い存在だと言った。姿は見えないが、確かにそこに存在する、質量のようなものがはっきりと感じとれた。
天に仕えると言いながら、実際に超自然的な存在を感じたこともなかったし、信じてもいなかった。あくまでも人をより良い方向に導くためだけの、方便であると考え勤めてきた。そこに、いきなりそんな存在が現れても、幻覚を見ているとしか思えなかった。
その存在はこう言った。ここでは無い世界の住人が、世界の平和に貢献したいと強く願い出ている。
そこで、この争いの絶えない荒れた地において、いかに人は愚かで、利己的で、争いが好きで、人が存在する限り、人は平和には過ごせないことを理解し、その争いの歴史を永遠に記録し、人々にその愚かさを知らせる役目を、その者に負わせることにした。
その者はこの世界では異物だ。この世界の物質から干渉は受けない。簡単には死なないように、食事、睡眠、疲労、痛みなど必要のないものは取り除いておく、だが、心は残しておく。その者が迷わず、正しい心を持ったままでいられるように、お前の子供が導くのだ。
お前の子供が、正しくその者を導けるように、お前は準備をしなければならない。期限は半年だ、その間に準備を進めるがいい。
その準備が整った暁には、お前のどんな願いも、望みも一つだけ叶えてやろう。そう告げると、その存在は消えて無くなった。
天に近い存在を名乗る謎のそれは、リンシンを差し出せと言ってきた。あの天性の明るさを、違う世界から来る、平和を望む者の太陽にしろ、道標にしろと要求してきた。リンシンにとっては、このまま、国と共に亡ぶよりは良いかもしれない。
だが、そんな良く分からない存在に、可愛い娘を預けることには抵抗がある。国が亡ぶのもあと半年、娘を獲られてしまうのもあと半年、結論が出そうにない。だが、決断はしなければならない。時間は無かった。
その後も悩んだが、なかなか決断が出来なかった。天に近い存在は、世界の平和を望む者を、人々に争いの無意味さを知らしめるため、永遠の歴史の記録者にすると言った。言葉通りにとらえれば、平和を望む者に、死を与えず、永遠に争いを見続けさせることになる。
そんな惨いことがあるだろうか。もしその役目が自分であったらどうだろうか、とても耐えられそうにない。終わりが見えず、悲惨なものを見せ続けられ、体験させられる。そんな地獄ではまともでいられるはずがない、やはり、自分の命よりも大事な娘に、そんな地獄の道標のような真似はさせられるはずはない。
天に近い存在は、お前の子供と言った。しかし、カイには太陽や道標になる力も器量もない。自分のことしか考えられない、精神的に幼い、知恵だけが良く回る子供なのだ。それでは道標にはなるまい。
しかし、娘を獲られるのが嫌ならば、息子を選択するしかない。準備の時間を考えると限界だった。天に近い存在に、カイを差し出そう、そう決めた。
それから、別の世界から来る者のことを、今後は便宜上、召喚人と呼ぶことにしよう。永遠の歴史の記録者と呼ばれては、その者の精神が耐えられまい。その者には別の目的を与え、前を向き、正しい道を歩んでもらわねばならない。本人が望んだ通り、この世界に召喚された目的は、世界を平和にするため、にしておこうと思う。
この国は、今、危険な状態にある。カイと召喚人を、この国から無事に脱出させねばならない。その為には、無事に脱出させられる協力者が必要だ。カイではあてにはならない。
仕方が無いので、ケツに相談をすることにした。まともな会話が出来れば良いのだが、期待はするまい。もう随分前に、現実世界からは逃げてしまったのだから、この現実がどうなろうと興味はないだろう。それでも相談出来るのはケツしかいなかった。
ケツに時間を取らせ、密会する。ケツには、考えていた言い訳を聞かせる。王家の血を絶やさない為には、カイを国外へ逃亡させること、そして時がきたらこの地に戻り、国を再興させること。それを手助けできる人物をカイに付けて欲しいと訴えた。
ケツは、話しを黙って聞いていた。そして、静かに話しだした。
「お前がわが一族の行く末を気にするわけもなく、まして、カイを救おうなどと、微塵にも思ってはいまい。
だが、お前の意図がどこにあるにせよ、一族の再興はカイに賭けてみよう。カイにはその才がある。ただ、お前が言う通り、カイ一人ではどうにもならないだろう。お前が言った要求を忠実にこなせる者がいる、その男をお前に預ける。その手配をしよう。
しかるべき時が来た時に、お前のもとにその者を遣わす、それまでは待て。」
ケツはそう言って、その場を去ろうと立ち上がった。そして去り際にこう言った。
「エン、お前は確かに、おれが知っている誰よりも聡明だ。しかも、この世のもとは思えぬほどに美しい。だが、その心は氷のように冷たい。
お前の、その息子を息子とも思っていないその態度。それが息子にも伝わり、俺に伝わっていること、気がついているのか。
だから、息子と俺はお前には近づかない。娘はそんなお前の心を溶かそうと、毎日、何があっても笑っているのだ。
今、言ったところで何の意味もなさないが、お前が、俺の心を、息子の心を癒してくれる存在であったなら、事態は違っていたのだろうよ。」
ケツの言いたいことは分からないでもない。確かにケツが破滅の道を歩んだのは、私のせいなのかもしれない。
これで、カイと召喚人を国外に脱出させる手筈は整った。後は時を待つだけだ。天に近い存在が、この手筈で問題ないと判断してくれるのなら、再び、目の前に現れるだろう。
それからしばらくの間は何も起きなかった。召喚人の導き手は、カイでは駄目だったのかもしれない。今更だが、カイに天の教えや人の道を説き、道標の役割が果たせるように教育したいが、私の話しは聞かないだろう。例え、話の場を設けても、話しを聞いても、理解や納得はしてくれないだろう。カイはそういう子供だった。だから苦手だったのだ。
いよいよ、大規模な謀反が5日後に起きると情報がもたらされた。あれから何も起きなかったが、それならそれで仕方があるまい。天に近い存在との約束は諦め、予定通り、カイをこの国から逃がすだけだ。リンシンは最後の時まで、一緒に居てあげよう。
そう思った時だった、天に近い存在が、何の前触れもなく現れた。そして、準備は整った様だな、では、2日後、日没の時間に、歴史の記録者をこの場所に送ろう。お前の子供がその者の道標となり、正しい道へ導け。お前の願いは分かっている。もう一人の子供に危険が迫った時、安全な場所に移してやろう。
前回と同じように一方的に告げると、その存在は掻き消えていた。これで、何とかリンシンの、身の安全は確保出来ただろう。だが、リンシンが行く、安全な場所とはどこなのだ。本当に安全な場所なのだろうか。気にはなるが、もうこれ以上、私には出来ることはない、後は淡々と事を進めるのみだ。
召喚人
やがて、親衛隊のリュウが参上した。この男がカイと召喚人を国外へ連れて行く。リュウにはカイを連れてこの国から逃げ、カイが成長し、時が来たらこの地に戻り、カの国を再興するよう命令をした。リュウは命令には絶対従う男だ。
あの疑り深いケツが信頼し、そばに置いていた唯一の兵士だ。リュウは命令を実行する為に、カイを精神的にも肉体的にも厳しく鍛え、目的を達成できるように教育もするだろう。
だが、結果などどうでもいい。国の再興が失敗に終わったとしても問題はない。興味もない。当面リンシンの身の安全が確保できるのだから。
リュウに急ぎ、脱出の準備をするように言い、十分すぎるほど宝石や金の装飾品などを手渡した。もう持っていても仕方のないものだ。おしくはなかった。
翌日は、カイを呼び、リュウと引き合わせ、西に逃げるように説明をした。方向はどこでも良かったが、以前より西に行きたいと言っていたので、西を指定してあげた。それにも関わらず、こちらが話しをしている途中から、不満が顔に表れている。本当に面倒な子だ。更に、下がれというのに、召喚人のことを質問してきた。私も詳細を知るはずがないのに。
とにかく召喚に立ち会えば、理解は出来ずとも納得は出来るだろう。明日召喚に立ち会うように告げ、今度こそ下がらせた。
それから、リンシンを呼び、リュウに引き合わせる。リンシンにもカイに話したものと同じ内容を伝える。リンシンは笑顔で話しを黙って聞き、わかりました、と一言だけ言った。この兄妹の違いは何なのだろう。
続いてリンシンに、召喚人と話しをして、その人柄、その能力を見極めるように指示を出した。リンシンであれば確実に情報を引き出してくれる。リンシンにかかれば、どんな人間でも心を開くのだから。リンシンには何でも安心して頼みごとが出来る。
いよいよ召喚人が現れる日がやってきた。リュウが脇に控え、カイが見守る中、それは起こった。何もない空間から黒い靄のようなものが現れ、人を、目の前に落としていった。リュウが駆け寄り助けようとしている。
しかし、助ける必要などないのだ。リュウには、単に呼びかけるだけ良いと指示をして、召喚人が目覚めるのを待つ。カイは見当たらない、慌ててハオユーにでも報告に行ったのだろう。本当にまだ子供だ。
やがて、召喚人は目覚めた。しかし、言っている言葉が理解出来ない、どうやら言語が違う様だ。これでは会話は不可能だ。リュウに用意していた部屋に連れて行くよう指示し、後はリンシンに任せることにする。その後リュウが、今晩は進展しそうにありませんと、報告して退出していった。
時間は無い、後2日の内に、召喚人とカイをこの国から脱出させなければならない。とにかくやるしかない。召喚人とカイの脱出が失敗した場合、天に近い存在が、リンシンの無事を撤回するかもしれない。リンシンがこの窮地を脱する為には、何が何でもやりとげなければならない。
翌朝はリンシンが張り切っていた。召喚人と話す、そして知らない世界を知りたいのだと言っていた。動機はどうあれ、召喚人と話し、その人間性が分かればいい。それが分かれば、逃亡時に役に立つはずだ。
カイと顔を合わすのは面倒なので、旅の工程などはリュウと直接やり取りをしてもらうことにした。
夕方になると、リュウが召喚人を連れてやってきた。どうやら話が出来るようになったようだ。天に近い存在から聞いた情報を伝える。ただ、考えていた通り、歴史の記録者として、召喚されたことは伏せる。本人の為もあるが、とにかく、リンシンが安全になるまでは、無事にこの国から離れてもらわなければならない。悩ます必要はない。
召喚人は中々物分かりが悪い。こちらも気を使っているのが分からないのだろうか。見知らぬ世界にきたのだ、この世界の住人の言うことを黙って聞いたら良い。悪いようにするとは言っていないのだから。
あまり話が長くなって、余計な情報を渡すのも得策ではない。早めに切り上げ、続きは明日にしよう。明日には出立してもらう、強硬な態度に出れば嫌とは言うまい。
出発の日の朝を迎えた。今日で全てが変わる。カイは西へ旅立ち、リンシンも安全な場所に移る。そして私は、どんな最期を迎えるだろうか。良い死に方はしまい、亡ぼされる王の側室なのだ。
リンシンの話しでは、召喚人は信用が出来る男のようだ。世界平和を願うのだから、そこは心配していなかった。気になるのはその能力だ。カイが導くこと、道標になることに失敗した場合、召喚人は悪に染まり、人類に危害を加えるだろうか。その能力が人類の脅威になるだろうか。今更心配した所で意味はないが。その能力も、全てとはいかずとも、今日リンシンが明らかにしてくれるだろう。
カイには手紙で召喚人を導くよう伝えようと思い、その内容、母の希望を手紙に書いた。そして、リンシンにカイの荷物に忍ばせるよう指示をした。会話は拒否されるが、手紙なら伝わるだろうか。それとも手紙も会話と同じように、鼻で笑って捨てるのだろうか。
夕刻、リュウが出仕した。早速、召喚人を連れてくるように指示し、連れてこられた召喚人には、予定通り、有無を言わせぬ強硬な態度で、出立を促した。召喚人は最後にリンシンに会いたいと言ったが、それは叶えてやれない、時間がないのだ。
無事に出発したことを確認し、リンシンと共に部屋で過ごす。リンシンは顔を輝かせながら、召喚人の能力を語っていたが、その能力は想像の範囲内であった。それほど心配することはないだろう。
ただ、召喚人は不憫だ。自分が望んだこととはいえ、人ならざる存在となり、死して解放されることもなく、人々が争いをやめるまで、永遠にこの世界の地獄を見、そして記録をつけ、語る。それを使命として与えられたのだ。
そんな召喚人をわが息子は導けるのだろうか。救うことが出来るのだろうか。今更ながらに思う、リンシンであれば彼を救えただろう。だが、私の利己的な考えで、その役目をカイにしてしまった。
リンシンには危険な目に合わず、生きて欲しいとの願いから、出来もしない役目を息子に被せ、哀れな召喚人には、辛い思いをさせる。やはり私は今宵、いい死に方は出来そうにない。そう思って、嬉しそうに話しているリンシンに笑顔を向けた。
リンシン
私は物心ついた時から、母の愛を独占したかった。そして、その努力をしてきた。頭は切れるが不器用な兄は、母が機嫌を損ねることばかりしていた。だから兄と反対の行動をするだけで、母は愛してくれた。
母のために、いつでも笑顔でいられる練習もしたし、誰にでも親切であろうとした。ただ、それは苦ではなかった。どちらかというと向いていたのかも知れない。人の役に立つことは楽しいし、嬉しい。進んで行動に移すことが出来た。
兄は心が優しく、純粋であったが、気持ちを顔に出してしまうところや、人に自分の思いを分らせようとしたり、話の中で人より優位に立ちたい気持ちを出したりと、妹の私が言うのもおかしいが、精神的に幼い部分があった。
それでも兄のことは尊敬しているし、大好きだった。ただ、母の愛は譲れなかった。兄には渡したくなかった。
母は、感情表現が得意ではなかった。幼き頃より、その美しさを武器にするように、育てられたせいか、笑うことも、泣くことも苦手だ。ただ、そのような感情が無いわけではなく、単に表現出来ないのだ。
だから、母が私を、兄を深く、愛してくれていることは良く分かった。その兄にも向けられていた愛を、全部私に向けてくれれば良いと思っていた。。
家族
兄は、いつも優しかった。分からないことは何でも教えてくれ、暇があれば遊んでくれた。西への憧れが強く、いつも密林や砂漠、それから大きな都市の話しをしては、いつか行ってみたいと話していた。そんな憧れのせいか、西で使われている言語や文字、文化にも詳しかった。
旅をしてきた商人達から、土産話の他に装飾品などをもらい、私にくれることもあった。それらの装飾品は、とても繊細な細工がされており、奇麗なものばかりだった。その異文化に触れると、ここよりも発展した都市や、着飾った人々が想像できた。機会があれば私も西に行ってみたい、旅をしたいと思った。
だが、兄は体が弱かった。ちょっとしたことで風邪をひき、寝込んでしまう。そんな兄が密林や砂漠を越えて旅など出来るようには思えなかった。すぐ風邪をひくせいか、外にも出たがらず、運動も得意ではなかった。まして武術などは全く出来なかった。
兄は、一生この王宮の中で、憧れの西にも行けず、過ごすのだろう。幸い、王位継承争いに巻き込まれることはなさそうだ。そういう意味では、外に出られずとも、衣食住に困ることなく、暮らしていけることは兄にとって幸せだと思う。
兄には遊び相手として、兄より3つ年上のハオユーがつけられていた。ハオユーは運動が得意で、特に馬を扱わせたら、国の中でも三本の指に入るといわれるほど、馬術が得意だった。武術の腕も相当あるらしい。兄の世話をしていない時は、いつも体を動かし、鍛錬に余念がなかった。
そしてハオユーはとても優しい男だった。いつも兄のことを一番に考え、行動し、兄の希望はとにかく叶えようとしていた。このハオユーのおかげで、兄は精神的に成長する機会を奪われたのだと思う。私にとっては、とてもありがたいことだ。
父とは、ほとんど顔を会すことはないが、母がいない時を見計らって、たまに会いに来てくれた。兄と同じで父も母が苦手だった。父はとても優しく、可愛がってくれる。
世間では、苦悩のあまりおかしくなったと言われているが、そうではない。心が正常であるが故に、自分の限界まで悩み苦しみ、そして何も決断出来ず、逃げてしまう。単に頭が悪いだけなのだ。
使命
そんな家族に可愛がられ、私は何の不自由もなく育った。私もこのまま、王宮の中で朽ちていくのだろう。母が私を愛してくれている内は、縁談の話しも断ってくれる。そんな安寧の日々は突然終わりを告げた。
母からこの国が、数日以内に終わると聞かされた。国の状態は良くないとは思っていたが、事態はかなり深刻だった。母は死を覚悟している、であれば、私も母と一緒に死のうと思う。母と一緒に天に還れれば特に不満はない。
だが、その前に母から仕事を授かった。異世界からくる、歴史の記録者の人柄と、その能力を見極めることだ。歴史の記録者のことを召喚人と呼ぶそうだ。その人物は世界を平和にしたいと願った者らしい。そうであれば、人格には問題はないだろう。
人の心を開かせるのは得意だ、それは異世界から来た人間でも同じだろう。何の心配もなかった。ただ、召喚人は、食べることも、眠ることも、人に直接触れることも出来ない、疲労も感じず、不老の存在だと言う。そんな天の使いの能力を確かめろと言うが、どんな能力なのかも想像できず、不安は残った。
兄は西に行けるらしい。護衛に、あのリュウが付く。リュウにも会ったが、有能な男なのは見ればわかった。兄は肉体的にも精神的にも成長しなければ、無事に西への旅を続けることは出来ないだろう。あの、リュウに鍛えられ、それに耐えられるのだろうか。残念ながら無理な気がした。
では、私であったらどうか、それも無理だろう。体を動かすことは得意でも、女の私では体力に難がある。でも、行ってみたい気はした、知らない文化、知らない民族、知らない国を見て回りたいと思った。
召喚人が現れた、と連絡を受け、早速会いに行ってみた。不思議な仮面を着け、不思議な衣服を身に着けている。知らない言葉を話してはいるが、見た目は普通の人と変わりがなかった。強いて言うなら背が高いだけだ。
言葉が通じないので、身振り手振りで意思の伝達に挑戦してみる。何となくではあるが、こちらの言いたいことは分かってくれている気がする。そんな身振り手振りでも、その人柄の良さが分かる。相手のことを一番に考える性格が見えてくる。予想通り、人格については、全く問題がなさそうだ。
その後もしばらく身振り手振りで頑張ったが、成果は上がらなかった。同席していたリュウが、続きは明日にしましょう、と言ったのでその日は終わることにした。
その晩、母から召喚人の衣服を回収するように、と言われた。別な世界から召喚人と共に来たその衣服は、召喚人に干渉できるこの世界で唯一の物で、その衣服を使えば、召喚人は縊死出来る可能性があるという。
心配は無いかもしれないが、念のため厳重に保管するという。
翌朝は、新しい衣服を持って召喚人のもとを訪れた。早速着替えさせ、着ていた衣服は全て、母のもとに持って行く。確かに母の言う通り、手で直接触れることは出来ない、持つことは出来るが、手と衣服の間には薄い空間が存在する。持っているようで、感触が無い、不思議な感じだった。
この不思議な感触は召喚人の体でも同じなのだろう。この世界の住人とは、お互いにふれることが出来ない。腕を掴んだり、体を抱きしめたりすることは出来るだろう、でも実際は触れていないのだ。お互いの体温を感じることは出来ないのだ。それを思うと、何だかとても悲しい気持ちになった。
部屋に戻ると、召喚人は部屋に置いてある物を指さし、なんと言うのか教えてくれと言っている、ような、気がする。召喚人が指さした、食器やら何やら、手当たり次第に、ゆっくりとそしてはっきりとした言葉で答えて行く。部屋の中にある物は全て終わったので、外に出て、動物や植物も同じように召喚人に教えていった。
午後になると、会話を試みるようになり、ぎこちないが、何となく会話も成立してきた。物語を聞かせようと、天の話しや、この国の成り立ちなどを聞かせる。召喚人は一生懸命に話しを聞いてくれて、とても好感が持てた。
召喚人は心を開いてくれていることが分かる。知らない世界に飛ばされ、不安な中、優しく、そして根気よく、笑いながら話しをしてくれる少女に、心を開かない訳がない。人は単純なものなのだ。
召喚人に名前を聞かれたが、名前はないと言った。明日には天に還る身だ、名前を憶えてもらう必要もない。この優しく無邪気な、永遠に生き続ける哀れな男の記憶に、いつまでも残り続けるのは気が引けた。だから名前を教えなかった。
リュウに召喚人と簡単な会話が出来るようになったことを告げ、母のもとに召喚人を連れて行かせた。そのあと、母には直接今日の話しを聞かせた。人格は問題ないこと、ただ、能力は全くわからないと。
明日、残り一日。能力のことは直接本人に聞いてみようと思う。ただ、あの様子からすると、自分自身でも何も理解はしていないのだと思う。明日は無駄な一日を過ごすことになるかもしれない。でも、召喚人との会話はとても楽しい、人生最後の一日を、楽しく過ごせるのであれば、本当にありがたい。
翌朝も早い時間に召喚人を訪ねた。睡眠を必要としないなら問題はないだろう。少しの時間も無駄にはしたくは無かった。召喚人は、実験するので、衣服と火をおこす道具、それから丈夫な縄を用意して欲しいと言った。
衣服も返して欲しいと言われたが、残念だがそれは出来ない。今晩にはこの国を出てもらう。洗濯し明日の朝には返しますので、と言って誤魔化した。
召喚人が希望した物の準備が整った。河に行きたいと言うので、街の北側にある、大きな河に案内する。河に向かう途中、通り過ぎる街並みを珍しそうに眺め、まるで子供のように質問してくる。それが何だか楽しく、嬉しかった。
河原についてからも、召喚人は無邪気に遊んでいる様にしか見えない姿だった。走ったり、飛んだり、水に潜ったり、火に飛び込んだり。とても可笑しかった。後先考えずに行動しているところも、無邪気な子供にしか見えなかった。
だが、その能力は人のものではなかった。獣のように早く走り、自分の身長以上に高く飛ぶ、水には長い間潜っていられ、火でも火傷を負わなかった。人を超えた存在であることが十分に認識できた。
一通り実験が終わってからは、会話を楽しんだ。ここに来る前にいた世界のことを質問したが、良く分からなかった。ただ、この世界にない物が多く存在することだけは分かった。そして、この世界とは違い、とても便利で快適な暮らしをしているということも。
話しを聞けば聞くほど、どんなに物質的な文明が発達しようとも、争いは無くならないものだと思い知らされた。結局どこに行っても、たとえ違う世界に行っても、人がいる以上、争いが生まれる、それはとても悲しいことだった。
召喚人との会話が何故楽しいのか、わかった気がする。一つは、彼は何も知らない、言葉も分からない、赤ん坊のようなものだ。その赤ん坊に優しく教え、理解してもらう。どうやら私は弟を持った、いや、子供を持ったように感じていたのだろう、そして、それが楽しかったのだと分かった。
それから、未知の世界の話しにも興味が湧いた。兄が西の国に憧れたように、私は、未知の世界、別の世界への憧れを持った。別の世界で、別の人生を歩んでみたい、そう思った。今日で私は天に還る。もし地上に戻ることがあれば、この世界ではなく、別の世界での人生を送ってみたい、そう思った。
日が暮れかかってきた。召喚人は帰ろうと言う。これで彼とは二度と会えないと思うと寂しい。無邪気で、子供のような彼のことを、母親のような気持ちで愛おしく思えた。
王宮に戻り、兄に別れの挨拶をするため、部屋を訪れた。その途中でハオユーとすれ違った。今まで兄の部屋にいたのだろう。そして何も出来ない兄の旅支度を整えてあげたに違いない。この先、ハオユーのいない兄は、自分で何でも出来るようになるだろうか。
兄は落ち着かない様子で部屋にいた。今日見た召喚人の能力を話す。人柄も問題ないので、安心するように伝える。この一人では何も出来ず、精神的に幼い兄に、召喚人の苦悩を癒すことが出来るだろうか。期待は出来ない、出来れば役目を変わりたい、彼を救ってあげたいと、強く思うようになっていた。
だが、もうそんなことは出来ない。頼りない兄にお願いをするしかないのだ。母から預かった手紙を、兄に気付かれないよう、荷物に忍ばせる。すぐに険しい表情をしたリュウが現れた、そして、時間です、と短く言った。
兄は荷物を持ちこの場を去る。どうか、彼のことを救って欲しい、心からそう願って、兄の後ろ姿に頭を下げ続けていた。
部屋に戻りしばらくすると、母がいつもの笑顔で戻ってきた。仕事をやり切り満足したのだろう、いつにも増してその笑顔は明るかった。
もう終わりの時は迫っている、その時が来るまでは、母と笑って過ごそう。私にだけ優しく、私にだけ愛を向けてくれる、美しい母がそばにいる。私の人生はそれだけで充実していたし、幸せだった。
ただ、その最終日に心残りが出来てしまった。彼の行く末を案じ、気持ちは落ち着かない。でも祈ることしか出来ない、彼がこの先、道に迷わず、明るい道を進んでいけるように、心から天に祈ろう。




