第9話 幽霊の再来
地下の隠れ家に、不規則な金属音が響く。
ウルトは作業台で古いライフルのボルトを磨き、シエルはその傍らで、
ウルトから教わった「結び方」で自らのブーツの紐を締め直していた。
右耳の横では、青いガラスの髪留めがハロゲンライトを跳ね返している。
不穏な空気に、微かな緊張が走った。
(――警告。特定周波数によるアクティブ・スキャンを検知)
(――距離800、700……急速に接近)
シエルの網膜に、不可視の電磁波がノイズとして走る。
それは、かつて彼女を縛り、管理していた組織の「猟犬」たちが放つ、特有の走査パターンだった。
右耳のデバイスは引き抜いたはずだ。物理的な追跡(GPS)は不可能なはず――。
「……ウルト」
シエルが静かに名を呼ぶ。
その声のわずかな変化に、ウルトの指が止まった。
「……ああ。気づいてる。ネズミどもが、外のゴミ捨て場を嗅ぎ回ってる音だ。
今日の話がどこかで漏れてたんだ」
ウルトはライフルのボルトを叩き込み、鋭い金属音とともに装填した。
彼はシエルの異能を知っているわけではない。
長年のレジスタンス活動で培われた、生と死の境目に立つ者だけが持つ「勘」が、
地下室の空気がわずかに重くなったことを感じ取っていた。
「シエル。奥の換気口から裏路地へ抜けろ。俺がここで――」
「ダメ。……一人じゃ、勝てない」
シエルは立ち上がり、キャップを深く被り直した。
ウルトの瞳には、組織への憎悪と、目の前の少女を逃がそうとする必死さが滲んでいる。
だがシエルには見えていた。
地上には五人分の死体に十二名の武装兵。
さらに、スラムの住人に紛れた狙撃手が二名、向かいの廃ビルに配置されている。
ウルト一人での生存の可能性は、ほとんど残されていなかった。
「ウルトを失う」という未来を演算し、
そして、その未来を拒むように、思考を閉じた。
鉄扉が、外部からの指向性爆薬によって爆散した。
衝撃波と粉塵が地下室を満たす。
閃光弾の白光が炸裂し、ウルトが叫びながらライフルを構えた。
「シエル、走れ!!」
――だが、シエルは動かなかった。
彼女の脳内では、すでに戦闘プロトコルが自動執行に移行している。
視界はモノクロームに変色し、サーモグラフィで敵を捕捉。
心拍、血流、銃口の向きが赤いラインで結ばれていく。
(――リミッター解除。出力、30%)
粉塵の中を……シエルが跳んだ。
人間には不可能な加速。
ウルトの目には、彼女が影となって消えたように映ったはずだ。
突入してきた先頭の兵士は、自分の首が不自然な角度に曲がるまで、何が起きたのか理解できなかった。
シエルは着地することなく壁を蹴り、二人目の喉笛を指先で切り裂く。
銃声が、狭い地下室に反響する。
室内の視界が開けていく。
ウルトは、自分の知っている「弱々しい少女」が、人間を「モノ」のように解体していく光景を、
言葉を失って見つめていた。
「……シエ……ル……?」
その呼びかけが、加速する彼女の意識に、わずかなブレーキをかける。
シエルは三人目の死体の上に立ち、返り血に染まったパーカーを揺らしながら、振り返った。
その琥珀色の瞳の奥にあったのは、かつての無機質な殺意ではない。
ウルトを傷つけさせないという、獰猛なまでの執着だった。
――数分後
地下室は、元の静寂を取り戻していた。
残されたのは、血の海と、ひしゃげた鉄扉。
そして、ウルト達の足元に転がる、数多の亡骸。
シエルは、ゆっくりと歩み寄る。
右耳の横では、激しい戦闘を経てもなお、青い髪留めが外れることなく、静かに光っていた。
「……ウルト。怪我は、ない?」
血に濡れた手を伸ばしかけ――止めた。
自身の手が、先ほどまで髪留めに触れていた「人間の手」ではなく、
命を奪うための「凶器」に戻っていることを、自覚したからだ。
ウルトはライフルを構えたまま、立ち尽くしていた。
目の前の力は、彼が渇望した、倒すべき組織の「兵器」そのものであり、
同時に、救いたいと願った「少女」という像を、無惨に引き裂くものだった。
「……お前、本当に……何なんだ」
声が震える。
シエルは何も答えず、キャップを深く被り直し、鉛色の瞳を見た。
そこに映っていたのは、コーヒーを共に飲んだ少女への慈しみではない。
人間が制御しえない「未知の捕食者」。
兵士たちが断末魔に叫んだ、あの『戦場の幽霊』への根源的な恐怖だった。
シエルは心臓の奥にある人工ポンプが、不快な音を立てて拍動するのを感じた。
――ああ、私は、まだ壊れていなかったらしい。こんなにも、彼の視線が痛いのだから。
組織は、彼女を認識したかもしれない。
この隠れ家も、ウルトとの日常も、もうおしまい。
シエルは自分の髪に触れる。
青いガラスの冷たさだけが、自分がまだ「シエル」であることを、辛うじて繋ぎ止めていた。




