第8話 青い髪留め
この日も、重い荷物を肩に担いだウルトの数歩後ろを、シエルは変わらず歩いていた。
視界を埋め尽くしていた極彩色の露店、鼻腔を突く刺激的なスパイスの匂い、
そして――自分を呼ぶ「シエル」という、まだ慣れないけれど、こそばゆい新しい音。
それら情報の奔流が、彼女の脳内で静かに火花を散らしていた。
(……シエル)
何度も、心の中で繰り返す。
かつて「No.4」という番号が設定されたとき、それはただの命令に過ぎなかった。
だが、ウルトがくれたこの三文字は、冷え切った回路に微弱な電流が流れ込むような、
まるで冷え切った回路に温かな電流を流し込むような、不思議な余韻を伴っていた。
ふと、ウルトが足を止めた。
市場の出口に近い、一段と薄暗い路地。
戦場には不釣り合いな小道具を並べた、年老いた女性の露店がある。
壁際に置かれた壊れた木箱の上に、
煤けた鏡、色褪せたリボン、出所不明のガラクタたち。
平和な街であれば捨てられるだけの代物が、ここでは「商品」として丁寧に並べられていた。
ウルトは眉間に皺を寄せ、山積みのガラクタから品定めをする。
「……おい、止まれ」
ぶっきらぼうな声に、シエルは足を止める。
ウルトは数枚の汚れた硬貨を老婆に放り投げ、何かを握り込んだまま、振り返らずに歩き出した。
「……ほら。取っとけ」
数歩先を行く背中から、右手が無造作に後ろへ放たれる。
彼女の反射速度が、空を切る小さな物体を正確に捉えた。
手に収まったのは、冷たく、硬い感触のものだった。
「……これは?」
手を開くと、小さな青いガラスの嵌まった髪留めが現れた。
表面には細かい傷がつき、裏側の金属もくすんでいる。
だが、その青色は、曇天の空を反射して、驚くほど鮮やかにシエルの瞳を射抜いた。
「いつまでもボサボサの頭で歩くな。目立ってしょうがねえだろ」
荷物を担ぎ直しながら、ウルトは歩調を緩めない。
「女の子らしい格好でもしとけ。……少しはマシに見える」
シエルは立ち止まり、掌の上の「青」を見つめていた。
組織の拠点で、身体を整えることはあった。
だがそれは、出力を最適化し、殺害効率を上げるための整備にすぎなかった。
自分を「マシに見せる」ために、何かを身につける――
彼女のプログラムには存在しない、圧倒的に無意味で、そして圧倒的に自由な行為だった。
「……これを? 私に?」
「いらねえなら捨ててけ。拾ったようなもんだ」
ウルトの耳の端が、隠しきれずにわずかに赤くなっているのを、シエルの視覚素子は捉えていた。
捨てていけと言いながら、彼は少女がそれを仕舞い込むのを待つように、背中でその気配を窺っている。
シエルは、しばらく返事をしなかった。
硬い舗道の上で、自分の体重がどこに掛かっているのかを、確かめるように立ち尽くす。
この小さな青が、なぜ自分の内部演算を乱しているのか、その理由が見つからなかった。
「……ううん。捨てない」
キャップを脱ぎ、覚えたての不器用な動作で髪をかき上げる。
右耳の傷は、驚異的な再生能力で、薄いピンク色の皮膚に覆われ、癒えつつあった。
そんな右耳の代わりにするかのように、シエルはパチンと、小さな音を立てて青い石を留めた。
「今夜はレジスタンスの集会がある。シエル、お前はどうする? 来るか?」
アパートに戻って、一息ついたタイミングで、ウルトは計画について話し始めた。
彼女を一人残すことも、連れて行くことも、どちらであってもリスクを伴う。
ならばと、シエルに選択させることにした。
「……ついていく」
「よし。他のメンバーにはお前のことを親戚の子だとでも紹介するからな。口裏は合わせろよ」
「わかった」
ウルトは言葉少なに荷物を整理し、いつものようにテーブルで銃の整備を始める。
見慣れた光景のはずなのに、シエルの意識は、右耳の横にあるわずかな重みに引き寄せられていた。
洗面所の鏡の前に立つ。
煤けたパーカーに、不格好な髪。
名前をもらったばかりの、ぎこちない少女の姿。
だが、はっきりと一つだけ鮮明に輝く「青」があった。
(……シエル)
名前と、この髪留め。
その二つが揃った鏡の中の自分を、彼女は初めて「嫌いではない」と感じた。
兵器としての「個体識別」ではない、自分という一人の人間を肯定するための「目印」。
「……ウルト。見て」
シエルが静かに声をかけると、ウルトは作業の手を止め、一度だけ彼女を振り返った。
薄暗いアパートの一室。夕日を反射して、彼女の髪で青いガラスが小さな火花のように輝いている。
「……ああ。……まあ、マシだな」
それだけ言って、彼はすぐに銃身へ視線を戻した。
だが、パーツを磨き始めた手の動きは、先ほどよりも、どこかぎこちなかった。
数時間後、闇に紛れて二人は変電所跡の隠れ家に移動した。
まもなく仲間が集い、会合が始まる。
ウルトは、ボロボロの椅子に座り、瞑想しているのか、目を閉じ、微動だにしない。
一方シエルは、部屋の隅の、水の張ったバケツを覗き込んでいた。
水面に映る自分の顔と、青い髪留め。
水をそっと指で掻き回して、歪んで消えていく自分の影を見つめながら、
揺れてはきらめく青い光を楽しんでいた。
その平穏を裂くかのように、
内耳の奥底で、かすかな、しかし鋭いノイズが走った。
(――広域走査:周波数を感知。距離、1200。接近中……)
シエルは、髪留めに触れていた指を静かに下ろす。
青い石は、まだ穏やかに光っている。この色を、奪わせるわけにはいかない。
「……あいつら、遅いな。何かあったか」
ウルトは拳銃を抜き、弾倉を確認する。
(……来る)
シエルは心の中でつぶやく。
瞳の奥で、これまでの無機質な殺意とは違うものが、静かに立ち上がっていた。




