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第6話 番号では呼べなかった

「買い出しに行くが、そろそろ動けそうなら、一緒に来るか?」


 ウルトが声をかけたのは、その次の日だった。


 逡巡の後、こくりと頷く彼女に、ウルトはお下がりのスウェットを着せ、キャップを被せて目立たないようにさせる。


(ウルトの……匂い)


 彼女のデータベースに蓄積された、ウルトの匂いのパターン。

 なぜだか、それは不快には分類されなかった。


 数日ぶりの外の空気。

 ウルトの広い背中を追ってアパートを出た瞬間、感覚器官は暴力的な情報量に叩き伏せられた。


「……ッ」


 思わず、キャップの庇を深く下げる。


 雨上がりの灰色の空から漏れ出す、わずかな日光。

 室内の照明だけに慣らされていた網膜にとって、それは神経を直接焼くような鋭い光の束だった。


 視界の端で、HUDヘッドアップディスプレイが警告音を鳴らす。


 ――視覚過負荷を確認。自動減光プログラム起動。

 ――周辺ノイズレベル、85デシベル。聴覚フィルタリングを推奨。


 だが、その警告を無視した。


 耳に突き刺さるような商人たちの怒鳴り声。

 錆びた排気筒から吐き出される黒煙。

 道端で焼かれる正体不明の肉から滴る脂が爆ぜる音。


 それらすべてが、彼女にとっては「生きている世界」の証明であり、

 これまで破壊し尽くしてきた世界でもあった。


 スラムの市場――マーケットは、無秩序の結晶のような場所で、

 組織の拠点が、厳密に管理された「死の静寂」だとするならば、

 ここは欲望と生命が泥濘の中でせめぎ合い、熱を放つ「生の戦場」だ。


「おい、ぼうっとするな。はぐれたら最後、二度と会えねえぞ」


 雑踏を切り裂くように、ウルトの声が届く。


 彼は慣れた足取りで人混みを割って進む。

 彼女は慌てて追いつき、ウルトのシャツの裾を指先で掴んだ。


 布地のゴワついた感触。

 わずかに漂う火薬と、安タバコと、コーヒーの匂い。


 それが、この混沌とした世界における、彼女の唯一のアンカーだった。




 ウルトは手際よく買い出しを進めていく。


 露店を回り、時には相手の言葉を冷たく遮りながら、合成燃料の缶や保存の利く乾物を手に入れる。

 彼女は、そのやり取りを「データ」ではなく、一つの「風景」として眺めていた。



 やがて、人通りが途切れた、市場の端の広場に出た。



 ウルトは不意に足を止め、隣に立つ少女を見た。

 キャップの庇の奥、感情を抑え込んだ白い横顔。

 傷ついた右耳を隠すように、ぎこちなく髪を流している。


「……いつまでも、『No.4』ってのもな」


 唐突な言葉に、彼女は顔を上げる。


「……No.4じゃ、ダメなの?」


「ダメじゃねえ」


 ウルトは短く息を吐いた。


「だがそれは、あいつらが管理のためにつけた、ただの記号だ。

 いつまでもそれを大事に抱える必要はねえ。ここは自由だ。名前も、自由にしていい」


 しばらくの沈黙。



「……私には、わからない。つけて」


 委ねるような声だった。


 ウルトは空を見上げる。


 重く垂れ込めた雲の切れ間から、一瞬だけ、現実とは思えないほど鮮やかな「光の柱」が地上へと差し込む。

 それは、泥だらけのスラムの路地を、一瞬だけ神聖な場所へと塗り替えるような光だった。


「……シエル」


 ウルトは、自身の喉の奥に眠っていた古い記憶を吐き出すように、その三文字を口にした。


「空、って意味だ。この街の空はいつも灰色だが、雲の向こうには本当の青があるらしい。

 ……お前には、その方が似合ってる」



 シエル――


 ウルトから発せられた音が彼女の鼓膜を震わせ、脳内の演算回路を通り抜け、胸の最深部へと到達した瞬間。

 網膜に投影されていたHUDのウィンドウが、ノイズと共に消失した。

 

 警告も、損傷率も、戦場記録(ログ)も、今は必要ない。

 視界を覆うノイズが晴れたあとに残ったのは、ウルトの不器用な背中と、初めて目にした、

 偽りではない世界の光だけだった。



(……シエル)


 彼女は、自分の唇でその音をなぞる。

 肺から漏れる吐息に、自分の名前が乗る。それだけで、視界に映る灰色の世界が、少しずつ、

 けれど劇的に色づいていくような錯覚に陥った。


「シエル……私の、名前……」


「嫌なら変えるが」


「ううん……多分、うれしい。シエルって……いい名前」


 彼女の唇から、初めて小さな、本当に小さな笑みがこぼれた。

 それは人工皮膚の伸縮を伴う「表情の模倣」などではない。

 心の奥底で凍りついていた感情が、ウルトの与えた「光」によって溶け出し、溢れ出したものだった。


 ウルトはぶっきらぼうに視線を逸らすと、再び歩き出した。

 だが、その歩幅は先ほどまでよりもわずかに緩やかで、彼女がついてこられるように、

 優しく、そして確実なリズムを刻んでいた。


「……ありがとう、ウルト」


 シエルはシャツの裾を掴む指先に、ほんの少しだけ力を込めた。


 スラムの喧騒も、不快な匂いも、

 今はすべてが「シエル」という一人の少女が体験する、かけがえのない日常の色彩として、

 彼女の意識に、静かに刻まれていった。

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