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第5話 不味いコーヒー

 ウルトがよく使う隠れ家の一つである、古いアパートの一室。

 No.4が落ち着いた様子を見て、深夜のうちに移動し、傷が癒えるまでの拠点とすることに決めた場所だ。


 夜逃げするかのようにたどり着いたこの部屋は、男が一人暮らしをしている痕跡を、

 埃と黴の匂いの下に残していた。

 朝の光が、割れかけた窓ガラスを通して斜めに差し込み、室内の空気中を漂う塵を白く照らしている。


 木の椅子に深く腰掛けたまま、少女は微動だにせず、何もない壁の一点を見つめていた。

 琥珀色の瞳は瞬きを忘れたように乾いていて、そこに映るのは意味を持たないひび割れの影だけだ。


 無造作に切り揃えられた月光のような銀髪が、朝日に透けて、現実離れした美しさを放っている。

 戦場にあった頃は、煙と血に汚れていたそれが、今はただ静かに肩へと落ちている。



 組織を脱走して三日。

 彼女に与えられた「待機」という命令は、兵器としての彼女にとって、最も得意で、

 最も安全な任務だったはずだった。


 しかし、その内側では、処理しきれない情報のノイズが、収束する先を見失ったまま、

 静かに火花を散らしている。



 ――未定義の状況:一般生活

 ――適切な行動ログを検索中……該当なし


 思考が行き止まりに突き当たる感覚は、初めてだった。

 演算は止まらないが、答えが出ない。その事実が、彼女の内部にごく微細な負荷を生んでいた。



 隣室から、床板を軋ませる音がする。

 煤けた黒髪を掻き回しながら、寝癖だらけのウルトが顔を出した。

 まだ完全には目が覚めていないらしく、片方の眼を細めている。


 手には、昨日買ったばかりの安物のシャツとスカート。それに、替えの下着を無造作に重ねた布の塊。



「起きるの早えな……」

 一瞬だけ彼女を見て、すぐに視線を逸らす。



「……おい、いつまでもそのボロボロの戦闘服じゃ目立つ。……着替えろ」


 差し出された布の塊を、少女は両手で受け取った。

 質量は軽く、表面は柔らかい。だが、次の動作が見つからず、そのまま固まってしまう。



「……着替え。……手順を要求します」


「はあ?」

 思わず、間の抜けた声が漏れた。


「……手順もクソもあるか。今のを脱いで、それを着るんだよ」


 呆れたように言い捨てて、ウルトは背を向ける。

 小さなキッチンで、不味そうなコーヒーを淹れ始めた。


 彼女は教えられた通り、慣れない手つきでボタンに指を掛ける。

 衣服とは、彼女にとって装甲であり、識別票だった。

 破損すれば交換される部位の一つでしかなく、自ら外し、選び、身に纏うという行為は、

 一度も経験がない。


 布が肌に触れるたび、擬似神経が情報を拾い上げる。

 冷たい。

 軽い。

 防御力は……無いに等しい。


 数分後、コーヒーの匂いとともに、ウルトが振り返った。


 ボタンを掛け違えたまま、困惑したように小首をかしげる銀髪の少女が立ちつくしていた。

 袖は左右で長さがずれ、スカートの留め具も、半分しか役割を果たしていない。


「……ウルト。駆動系に若干の干渉があり、不安定です」


「ったく……」

 舌打ちをしながら、彼は近づく。


「……貸せ。手伝ってやる」


 毒づく口調とは裏腹に、その手つきは乱暴ではなかった。

 一つずつ、ボタンを外し、正しい位置に留め直した。


 至近距離で伝わる男の体温。煙草と金属と、微かに焦げた豆の匂い。


 擬似神経が、予定になかった熱を検知する。

 それは損傷でも、異常でもない。


 プログラムには存在しない違和感。

 それが、胸部の奥で、ほんの一瞬だけ脈を打った。



 鏡の前に立たされる。


 映るのは、戦場の幽霊ゴーストではない。

 そこにいるのは、どこにでもいそうな、頼りなく、儚げな少女だ。


 自分を見返す視線が、他者のものではなく、自分自身のものだと理解した瞬間、彼女はわずかに目を見開いた。


「この外装では、防弾性能および運動性が極めて低水準です。

 ……なぜ、このような非効率な布を纏うのですか?」

「それが『生活』ってやつだよ、お嬢さん」


 ウルトはそう言って、ようやく相槌のように笑った。



 その日の朝食は、安売りの惣菜パンと、コーヒーとは呼べない、黒く苦い液体だった。


 彼女は機械的な動作でパンを口に運ぶ。

 味覚センサーは糖分と塩分を検知するが、それを「美味しい」という報酬系に繋げる回路は持ち合わせていない


「……ウルト」

「なんだ」

「この黒い液体は、不快指数の高い刺激物です。成分比率が不均衡であり、経口摂取には適さないと判断します」


 じっとカップを見つめて放たれた言葉に、ウルトは思わず吹き出した。


「ハハハッ、よく分かってるじゃねえか。俺の淹れるコーヒーは世界一不味いんだ」


 そして、何でもないことのように言い足す。


「……だが、それを飲んで『不快』だと思えたんなら、お前、少しは元気になってきた証拠だな」

「不快は、性能の向上……?」

「そうだよ。死にかけてたら、自分にとって『嫌だ』とか『好きだ』とか、

 そういう贅沢な悩みすら感じる暇がないからな」


 黙って、もう一度その「毒物」を口に含む。

 苦味が喉の奥に残る。


 だが、ウルトが満足そうにそれを啜る音を聞いていると、センサーの警告は次第に気にならなくなっていた。



 朝食の後、彼女は窓の外を見つめていた。


 錆びついた窓枠の向こうには、汚染された雨に濡れながらも、力強く生きるスラムの人々の営みがあった。

 行き交う影。誰かの叫び声。走り回る子ども。


 先日まで「排除すべきターゲット」でしかなかった人間たちが、今はただの景色としてそこにいる。



「……ウルト。人がたくさんいる……」

「ああ。みんな、毎日必死に生きてんだよ」


 弾丸を詰め直す手を休めることなく、彼は言った。



「お前、本当に何も知らないのな」


 その言葉が、彼女には少しだけ、アンプルの輝きよりも、温かく感じられた。

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