第4話 名前を持たない少女
――予備バッテリー駆動
――セーフモード起動。残量二パーセント
――早急なエネルギー確保の必要あり
意識が、爆音とともに浮上した。
視界が開くと同時に、網膜が情報を処理する。
埃っぽい天井に、カチカチと音を立てるハロゲンライトの残像。
そして――自分の命を繋ぐ、金属製の青いアンプルを手に持つ、見知らぬ男。
(――ターゲット、確認)
思考よりも早く、身体が弾かれた。
右脚の人工筋肉が軋んだ悲鳴を上げ、作業台を蹴って跳躍する。
Model No.4は最短距離で、驚愕に目を見開く男の懐へと潜り込んだ。
指先が、流れるような動作で男の喉元へ伸びる。
そこを突けば、一秒で意識を刈り取り、十秒で絶命させられる。
それは彼女の骨髄にまで刻み込まれた、最適解としての殺人術だった。
――だが。
「……っ」
喉元に触れる寸前、脳裏に戦場の泥濘がフラッシュバックする。
兵士たちの断末魔。自分の指を汚した、熱い血の感触。
それに伴って湧き上がった、はっきりとした嫌悪。
(――やめて。もう、誰も)
殺意の軌道が、彼女自身の意志によって、わずかに逸れた。
男もまた、反射的に腰の銃へ手を伸ばしていたが、引き金までは引かなかった。
彼女の瞳に宿っていたのは、獣のような獰猛さではない。
今にも壊れそうなほどの、むき出しの「拒絶」だったからだ。
「……それを、早く返して」
彼女は喉元に指を置いたまま、かすれた声で告げた。
年は30歳を超えたあたりだろうか。煤けた黒髪に、鉛色の瞳。
やつれて年齢よりも老けた顔つきの奥に、強い執念だけが沈んでいる男だった。
今この瞬間、彼女の指先ひとつで男の命を奪うことは容易だった。
それでも彼女はそうせず、ただ「返せ」と、命の糧を求めた。
「……生きてるかと思えば、いきなりそれか。礼の言い方も知らないらしいな」
男は冷や汗を流しながらも、不敵な笑みを崩さなかった。
ゆっくりと、手にしていたアンプルを彼女の目の前に差し出す。
彼女はそれを奪い取るように掴むと、ようやく喉元から指を離し、
そのまま崩れ落ちるように床へ座り込んだ。
男もまた、大きく息を吐き、腰の銃から手を離した。
敵意がないと悟ると、彼女はすぐさま首元へアンプルの先端を打ち込む。
男は壁に背を預け、震える手でそれを突き刺す少女を、射抜くように見つめていた。
「……そいつがそんなに大事なものなのか。
そんな安っぽい輝きに頼って生きてちゃ、いずれ破滅する。
……組織の連中に、それで飼い慣らされてたのか?」
その言葉には、隠しきれない軽蔑と、わずかな憐憫が混じっていた。
男は、組織が末端の捨て駒を支配するために使う、強力な神経薬か合成ドラッグの類だと想像した。
快楽と引き換えに自我を削り、鎖をかけるための道具だと。
――エネルギー供給完了
――自己修復モードへ移行
――表層部、駆動部、循環系、中枢神経、修復開始
蝋人形のような白い肌に、ほんのりと赤みが戻る。
彼女は空になったアンプルを首元から抜いた。
男の問いには何も答えなかった。
これが薬ではなく、自分という半機械の肉体を繋ぎ止めるための燃料であることを、
説明する言葉を持ち合わせていなかった。
「……わからない。私には、これしかないから」
その声は、ひどく虚ろだった。
男は鼻を鳴らし、床に転がっていた汚れた布を彼女に放り投げる。
「好きにしろ。だが、この隠れ家で野垂れ死ぬのだけは勘弁してくれ。
……俺はウルトだ。組織に昔から借りがある。お前も似たようなもんなんだろ」
ウルトと名乗った男は、目の前の少女が、ろくでもない過去を背負っていることだけは察していた。
ウルトが作業台の隅で、オイルまみれの工具を片付け始める。
彼女はそれを、ぼんやりと眺めていた。
右耳の欠損部は、止血剤と包帯で白く覆われている。
拍動するような感覚はあるが、それ以上に、
内耳から響いていた支配者の声が消えたことで生まれた静寂が、
彼女の神経を奇妙に落ち着かせていた。
「……ウルト」
初めて口にする、他人の名前。
「……で、お前の名前は?」
「……自分が誰かわからない。No.4……それ以外に、何も」
「四番か。……呼びにくいな」
人の名ではなく、工場の製品に刻まれた無機質な識別番号であり、虚無な響きだった。
ウルトは手を止めず、吐き捨てるように言う。
「名乗るほどの中身がないのは、俺も同じだ。……あいつらに全部擦り潰されたってんなら、
これから少しずつ埋めてきゃいい。スラムじゃ、過去なんて誰も気にしねえ」
ぶっきらぼうなその言葉が、彼女の空っぽな胸に、不思議な重みを持って沈んでいく。
地下水道を流れる水音だけが響く静寂の中で、彼女は初めて、
組織からの命令が存在しない「明日」という時間を、ぼんやりと意識し始めていた。




