第3話 彼女は兵器だった
意識の解像度が、一拍ごとに致命的な段階まで落ちていく。
自ら抉り出した右耳の奥から、錆色の血とともに、神経系を繋ぎ止めていた青白い合成液が、
濁った水溜まりへと絶え間なく溢れ出していた。
スラムの路地裏。
廃棄されたドラム缶が墓標のように並ぶ影で、彼女はヘドロの中に横たわり、
雨に打たれながら、浅い呼吸を繰り返す。
視界の端で点滅する警告灯は、もはや意味をなさない。
――個体名『Model No.4』。
――循環系、深刻な圧損。
――中枢制御、維持不可能。
(……冷たい……)
プログラムされた「温度検知」ではなかった。
ずぶ濡れの身体から、確実に熱が奪われ、代わりに、
重い石を積み上げるような静寂が、内部を支配していく。
奪ったアンプルは、ポーチの中で冷たく沈んでいる。
だが、それを自分の首筋に突き立てる力さえ、もう残っていなかった。
遠くで、雨音を切り裂くように大型車両のエンジン音が響く。
組織の追っ手ではないのかもしれない。それでも今の彼女にとっては、
世界に満ちるあらゆる音が、自分を連れ戻しに来る死神の足音のように聞こえた。
見つかれば、待っているのは「解体」か「完全なリセット」だ。
抗うことができず、自分という意識が、再び無機質な情報の海へ溶かされていく。
彼女は、重い瞼を閉じた。
最後に視界に映ったのは、ネオンの光に照らされた汚れた水溜まり。
戦場の幽霊でも兵器でもない、ただ泥にまみれた少女の影が揺れていた。
「……あ……あ……」
声にならない音が、喉の奥からこぼれ落ちる。
その影が、光を失い、完全に闇へと溶けようとした、その時だった。
カチ、と金属同士が触れ合う硬質な音が、雨音を切り裂いた。
「……おい。生きてるか」
低く、ひび割れた男の声。
男は、組織の武器輸送ルートを偵察した帰り道、その「ゴミのような塊」を見つけた。
最初は、見捨てていくつもりだった。
スラムでは、行き倒れの死体など日常の一部にすぎない。
復讐にすべてを捧げた彼の人生に、他人の命を救う余地など残っているはずがなかった。
だが、雨に濡れてなお浮き上がって見えるほどの、白い少女の肌と、
耳から流れ落ちた大量の赤黒い血が、彼の網膜に消えない焼印のように刻みつけられた。
かつて、組織の手にかかり、救えなかった最愛の恋人。
何もできなかった絶望が、目の前の少女の姿に重なる。
「……チッ。あいつら、こんな子供まで……」
男は忌々しげに吐き捨て、ライフルを背中に回すと、彼女の細い肩に手をかけた。
その瞬間、腕に伝わった感触に、思わず息をのむ。
(なんだ……こいつ……?)
華奢な少女を抱えたはずなのに、まるで中身の詰まった重機を持ち上げたような、不自然な重み。
分厚い防弾チョッキを着た成人男性ですら、二の足を踏む密度だった。
だが、今の彼に立ち止まる時間はない。
今にも死にそうな少女を、組織の視線が届かないスラムの深部へ、一刻も早く連れて行くがある。
男はその「異物」を無理やり抱え上げ、歪んだ足取りで、迷路のような闇へと姿を消した。
男の隠れ家は、廃棄された地下鉄の変電所跡を改造した場所にあった。
同じく組織に借りを持つ人間たちが、レジスタンスとなり、スラム各地にこうした隠れ家を張り巡らせている。
錆びた鉄扉が重い音を立てて閉じられ、外界の雨音は遮断された。
埃っぽい空気に、オイルと火薬、そして安酒の匂いが混じって漂う。
男は少女を、穴の空いたボロボロの作業台に横たえた。
旧式のハロゲンライトが、カチカチと不安定な音を立てながら、彼女の凄惨な姿を照らし出す。
雨に濡れ、透けるほどに白い皮膚。
戦闘服を切り裂き、応急処置に入ろうとした男の指先が、再び「違和感」に触れた。
(……防弾チョッキじゃない!)
皮膚のすぐ下に、硬い芯がある。
傷口を覗き込むと、錆色の血の奥で、鈍く光るチタン合金の骨格と、断ち切られた神経素子が、
精密機械のように露出していた。
そして、最も凄惨なのは耳だった。
刃物で切られた痕跡ではない。
中にある「何か」ごと、無理矢理引き抜いたような、肉と軟骨が引き裂かれた跡。
「……一体、何をされてきたんだ、お前は……」
彼の知る『戦場の幽霊』は、兵士を紙屑のように引き裂く、死を恐れぬ鋼の化け物だ。
――少なくとも、こんな姿をしているはずがない。
目の前にいる、青白い肌をして、重傷を負い、意識を失った少女と化け物を結び付けることを、
彼の正義感と、組織への憎悪は、本能的に拒んでいた。
「お前も……あいつらの犠牲者なんだな……」
止血剤で傷口を固め、古い上着をそっと上半身にかけた。
その時だった。
彼女のポーチから、金属製のアンプルが数本、床へと転がり落ち、床で虚しく回転した。
男はそれを拾い上げ、ライトにかざした。
中で、不気味なほど澄んだ青い液体が淡く発光している。
救いの色か。
それとも、魂を縛る鎖の色か。
昏睡する少女の首筋には、その端子を受け入れるための孔が、無機質に口を開けている。
男は知る由もなかった。
その液体が、彼女を再び目覚めさせることを。
「……ドラッグか。それとも、新種の神経安定剤か……組織に薬漬けにでもされたか」
復讐に燃える男は、自分が拾ってしまったものの正体が、想像を遥かに超えていることを、
まだ理解していなかった。




