第2話 脱走
再調整された視界は、昨日よりも鮮明で、それ故に毒々しかった。
二度目の出撃地点は、かつて重工業の中心地として栄えた海岸沿いの廃墟。
曲がり、錆びついたクレーンの群れが、巨大な鉤爪のように灰色の空を引っ掻いている。
No.4は命令に従い、ビルの屋上から敵陣営の動向を監視していた。
催眠剤によって思考は霧に包まれているはずだったが、引き金に添えた指先が、
わずかに、しかし明確に震えている。
(……汚い)
ふと沸き上がったその思考は、命令ではなかった。
眼下で行われている「戦争」という名の作業。
硝煙に巻かれ、泥を噛み、断末魔をあげながら肉塊へと変わっていく人間たち。
その光景が、彼女の脳の奥に眠る「あるはずのない記憶」を、強く、強く刺激した。
穏やかな午後の木漏れ日。
自分を「兵器」ではなく、一人の「存在」として呼ぶ、誰かの声。
身に覚えのない温度が、戦場の汚濁と混ざり合い、彼女の回路を内側から汚染していく。
『――No.4、何を躊躇している。速やかに狙撃を開始せよ』
内耳に埋め込まれたスピーカーから、冷徹な声が響く。
耳の奥を直接揺らすその音は、彼女にとって「支配」そのものだった。
彼女は強引に引き金を引いた。
照準、補正、発射。
反動を吸収し、次弾装填。
同じ動作が、正確に、幾度も繰り返される。
命中率は常に規定値を上回り、敵対戦力の排除は滞りなく進行していく。
仕事としては、完璧だった。
火を吹く銃口。
寸分の狂いなく、花火のように弾け飛ぶ敵兵士たちの頭部。
しかし、内部で何かが、静かに、決定的に決壊した。
「……もう、嫌」
それはシステムが出力したログではない。
仕様書にも存在しない、魂の産声だった。
『――作戦エリア制圧。あとは進駐軍の仕事だ。ホムンクルス隊は速やかに帰還せよ』
帰還命令に抗うように、彼女はライフルの銃身を握りつぶし、地面へと放り投げた。
ここに、逃げ場はない。
内耳に埋め込まれたGPSによって、彼女の居場所は筒抜けとなる。
逃げた瞬間から、ナンバリングされた兄弟姉妹たちが、地獄の果てまで追いかけてきて、
肉片も残らないような確実な死をもたらすだろう。
ならば――この鎖を断ち切るために出口は一つしかない。
自分を縛る「根源」へ戻ることだ。
数時間後、拠点へと帰還した彼女は、メンテナンス・カプセルに横たわることを拒んだ。
「おい、何をしている、No.4。あとはお前だけだ。さっさとカプセルに入れ」
訝しげに近づき、指を差して指示する白衣の男。
その瞳には、彼女への恐怖も敬意もない。
ただ、調子の悪い機械を眺めるような、傲慢な好奇心だけがあった。
彼女は、無言のまま、左手で、自身に向けられていた男の右腕を掴んだ。
――メキッ
鈍い音が室内に響く。
悲鳴が上がる前に、右手で男の顔面を覆い、力を込める。
鮮血と、かつて脳だったものが四散した。
ドサッと床に崩れ落ちる男を見下ろし、
彼女は一拍だけ、動きを止めた。
これは命令ではない。
攻撃でも、防衛でもない。
自分が、自分で選んだ行動だと認識するまでに、
ほんの一瞬の、途方に暮れるような空白があった。
頬を濡らす温かさ。
鉄の匂い。
不快感が全身を駆け巡る。
だが同時に、それが「生きている証」だと理解してしまう。
別の白衣の男が非常ボタンを叩いた。
けたたましく鳴り響く警報。
彼女は、視線を隣り合うカプセルへと向けた。
そこには自分と同じような顔、同じ造形をした「姉妹」たちが、青い溶液の中で眠っている。
躊躇はなかった。
制御パネルに拳を叩き込む。
火花が散り、液漏れを起こしたカプセルの中で、未覚醒の個体が痙攣し、やがて静止した。
帰還していない個体を除き、大半の姉妹との別れになった。
頬を伝ったのは、スプリンクラーの水か、それとも初めて流した涙だったのか。
続いて、保管庫の強化ガラスを粉砕し、青く光る活性剤入りの携帯用アンプルを持てるだけ
ポーチに詰め込む。これがなければ、自分は一週間も経たずに瓦解するだろう。
自由の代償は、呪いのような薬剤だった。
残る白衣達を片付けた後、颯爽と廊下を駆け抜け、出口へ向かう。
『――No.4、即時停止せよ!さもなくば論理回路を強制焼却する。警告……警告……!』
内なる声が、脳を内側から締め上げる。
彼女は足を止め、右手の指を耳の奥へと突き立てた。
指先が神経素子に触れた瞬間、白い放電が視界を焼き尽くす。
本来、「痛み」は彼女に存在しない。
だが今、内部で暴れているのは、演算回路が処理を拒絶するほどの、名もなき熱だった。
――通信、制御デバイス大破
――エラー、エラー、エラー
警告が視界を埋め尽くす中、神経に癒着した根元を探り当て、力任せにそれを引き抜いた。
「……ッ、あああああぁぁ!!」
それは初めて、自分の意思で放った魂の咆哮だった。
血まみれの通信・制御装置と、それに連なるGPSチップが床に転がる。
支配者の声が消え、世界は一瞬、完璧な静寂に包まれた。
耳から溢れる錆色の血が、首筋を伝い、戦闘服を赤く染めていく。
感じるはずのない痛みが彼女を襲う。思わず耳を押さえ、うずくまったが、
痛みが幻だと認識できると、すぐに立ち上がり出口へ向かい一歩を踏み出した。
「兵器」から「個」へ――
その境界線を、彼女は越えたのだ。
道中、薬品庫へ高電圧ケーブルを叩きつけ、拠点深部を爆破する。
夜空を焦がす火柱。
彼女は窓を突き破り、雨の降る闇へと身を投げ出した。
高所からの、着地の衝撃で右脚の人工筋肉が悲鳴を上げる。
だが、彼女は止まらない。
雨。
鉄錆の匂い。
背後の爆炎が照らし出すのは、
自由を求めて走り出した、名もなき一人の少女の影だった。




