第1話 戦場の幽霊
視界の右隅、網膜に直接投影されたHUDが、砂嵐のようなモノクロのノイズを撒き散らしながら警告を繰り返している。
――個体名『Model No.4』。
――内蔵バッテリー、残量一五パーセント。
――有機駆動部、損傷率二二パーセント。冷却およびメンテナンスを推奨。
少女の形をした「それ」は、錆びた鉄骨が剥き出しになった瓦礫の山に背を預けた。
機能が低下し始めた右腕で、迷いなく、重量級の突撃銃を握り直す。
兵士達を一人、また一人と最適解で撃ち抜く。
空からは、鉛と汚染物質を含んだ重い酸性雨が降り注ぎ、白い人工皮膚を静かに腐食させていく。
かつては地方都市の商業施設だった、穴だらけの大地を覆うのは、硝煙と、焦げたゴム、装甲車や戦車が撒き散らした重油が混じり合った、肺を焼くような異臭。
彼女は呼吸を整える。
呼吸という行為を、さほど必要としないが、省略する理由もない。
周囲には、先ほどまで「障害物」として排除していた兵士たちの亡骸が、泥水に浸かって転がっている。
彼らは断末魔の叫びとともに、彼女を、戦場の幽霊と呼んだ。
震える指で引き金を引いた兵士の目に宿っていたのは、人間が理解し得ない「未知の捕食者」への根源的な恐怖だった。
残念ながら、彼女には、恐怖や痛みという概念は実装されていない。
弾丸が肉を抉れば、脳内の演算回路が即座に「損傷率」を算出し、代替の駆動ルートを検索する。
そこには絶望も、高揚もなく、あるのは、入力と出力、その結果だけだ。
「……周囲三〇〇メートル、生命反応の消失を確認」
喉の奥から漏れたのは、感情の起伏を一切含まない、平坦な声だった。
確認。
記録。
次の指示を待つ。
その一連の手順に、遅延はない。
――はずだった
ふと、自分の指先を赤く染めている「液体」に意識が向いた。
彼女の体内を循環する無機質な錆色の合成液とは明確に異なる、不快なほど鮮烈な、生身の熱。
人工皮膚に付着したそれが、雨に流されずに残っていることを、彼女は一瞬だけ不思議に思った。
――付着条件、粘度、表面張力
思考はすぐに分析に回された。
生身の人間の血液を認識し、意識したことで、
神経素子にその熱と不快感が伝わり……
脳の深奥で、消し忘れた残り火のような「ノイズ」が、ほんの一拍、明滅した。
記録には存在しない柔らかな光。
輪郭を持たない温度。
誰かが、自分を呼ぶような、かすかな空気の振動。
(あ……)
意味を結ぶ前に、思考が途切れた。
内耳のレシーバーから、無機質な電子信号が脳へと直接叩き込まれたからだ。
『――No.4、任務完了。直ちに帰還せよ。繰り返す、直ちに帰還せよ』
「……了解。ミッション、コンプリート」
瞳から微かな光が消え、そして、
ノイズは、存在しなかったことにされる。
筋肉を制御する電気信号が、彼女の身体を機械的に突き動かした。
服に付着した、兵士を構成していた肉塊を放り投げ、軍用輸送機が発する低周波の轟音の中へと、吸い込まれるように歩き出す。
――作戦終了
多国籍軍事企業『イージス・ダイナミクス』。
国家の旗を持たず、紛争地域を渡り歩くその企業は、独自のバイオテクノロジーの技術を武器に、戦場そのものを商品として扱っていた。
Model No.4と呼ばれる彼女も、そんな、組織に利益をもたらすための駒の一つに過ぎなかった。
帰還先は、組織が所有するメンテナンス棟。外の世界よりもさらに冷たく、消毒液の匂いに満ちていた。
それぞれのナンバーが刻まれたカプセルに横たわる少女たち。
白衣の男たちは、その一つ一つを視線でなぞり、慣れた手つきで状態を「検品」していく。
彼らにとって、彼女達 ――ホムンクルス――は、守るべき対象ではなく、調整が必要な「高価な備品」でしかなかった。
「No.4、同期率に三・八マイクロ秒の遅延を確認。戦闘中の脳波パルスに、想定外の振幅が出ている」
「こいつ、またか……。神経素子の定着が甘いのか?それとも学習データの蓄積による自己組織化か」
男たちは、モニターと数値だけを見て観察を続ける。
「いずれにしろ、高精度の生体ユニットはこれだから扱いにくい」
顎を無造作に持ち上げられ、網膜スキャンが強制的に実行される。
焼き付くような光の中でも、彼女は瞬き一つしない。
目の前の人間は、体温を持つ「物体」として処理されるだけだ。
「まあいい、活性剤を投与しろ。自己組織化が進まないように、催眠剤の分量は多めにな。次は激戦区だ」
「予備個体はいくらでもあるが……」
男は数値を一瞥し、続けた。
「こいつは、他と比べても相当スコアがいい。安易にスクラップにするには惜しいからな」
白衣の会話には、生命への敬意など微塵もなかった。
語られるのは、効率、コスト、出力だけだ。
傍らのモニターには、彼女の身体をスキャンしたワイヤーフレームが映し出されている。
人間を模した内臓と筋肉、それらを縫い留める無数の電極。
検品が終わると、カプセルのハッチが閉められる。
首筋のポートに、冷たい接続端子が差し込まれた。
シュウ、という排気音と共に、カプセル内に青白い霧が満ち、
修復用の活性剤と意識を沈める催眠剤が血管に流れ込む。
(……やめて)
意識の底、言語化される前の、微かな拒絶。
それは命令ではなく、ログにも残らない。
世界が歪み、遠のく。
照明が、まるで死後の世界を照らす灯火のように、ぼんやりと滲む。
自分という存在は許されない。
ただ、組織が望む「最強の兵器」という役割だけが、呪いのように
プログラムの深層に刻まれていく。
ドクン、ドクンと、
人工心臓が正確なビートを刻む。
それは生命の鼓動ではなく、ただの稼働音だ。
重い瞼が閉じる直前、最後の断片が脳裏に浮かんだ。
それは、どこまでも続く穏やかな光。
抱きしめられるような、形容しがたい温かな記憶。
その正体を思い出す前に、高濃度の薬剤が意識を完全に塗りつぶした。
思考は停止し、感情は抑制され、記憶の断片は不純物として処理される。
――投与完了。メンテナンス正常終了
傷ついた身体は瞬く間に修復され、再び、「戦場の幽霊」へと戻る。
明日もまた、どこかで、誰かを効率的に殺すためだけの。
人間に似せて作られた、美しくも醜い、消耗品として。




