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第18話 シエルの終わり

 地下礼拝堂の静寂の中で、シエルの瞳から、一筋の透明な雫が零れ落ちた。


 ホムンクルスの眼球には、感情を乗せて「涙」を流す機能など備わっていない。

 それはシステム上の深刻なエラーであり、回路のオーバーフローがもたらした、

 あってはならないバグだった。


「シエル……? お前、泣いて……」


 困惑に震えるウルトの声。

 差し伸べられた彼の手は、あまりにも温かい。


 だが、その温もりが、

 かつて「サラ」と呼ばれた女性を愛し、守ろうとしたものだと理解してしまった今、

 それはどんな火炎放射器よりも無慈悲に、シエルの仮初めの心を焼き焦がした。


「……違う。これは、ただの故障」


 掠れた声で、シエルは拒絶する。

 濡れた瞳でウルトを見据えたその表情には、

 恐怖でも混乱でもない――

 自らの手で自分という夢を殺すと決めた者の、凍てつく静けさが宿っていた。


 シエルは、自分の胸元――

 コアが脈打つその場所に、細い指を置いた。


「ウルト。……あなたは、謝る必要なんてない。悪いのは、私という、この存在そのもの」


「何を……言ってるんだ」


「サラは、死んだ。十年前、この街で」


 ウルトの表情が、凍りついたように固まる。


「……あなたの記憶にある彼女は、もう、どこにもいない」


 シエルは続けた。


「私は、彼女から作られた。組織が、高性能な『個体』を作るために、

 彼女の死体――肉体か、あるいは脳の断片か何かを、利用した」


 そう告げながら、彼女はどこか遠くを見る。

 ウルトの表情が、凍りついたように固まる。


「……今のあなたの話で、すべてが繋がった。

 なぜ私が、あなたの淹れるコーヒーの苦さを知っていたのか。

 なぜ、この街の教会の裏に咲く花の名前を、口にできたのか」


 自嘲するように、口角が歪む。


「私の中に、サラの記憶が、ノイズのように混ざっている。

 ……彼女は、あなたを愛していた。

 その感情の残滓だけが、私の中にも、こびり付いている」


「サラ……?

 サラなのか……!」


 ウルトが、弾かれたようにシエルに飛びつこうとした。


 彼の瞳には、狂信的なまでの希望が宿っていた。

 死んだはずの最愛の人が、形を変えて目の前にいる。

 その事実が、彼の十年の絶望を一瞬で塗り潰そうとしていた。


「来ないで!」


 シエルの鋭い一喝が、空気を切り裂く。

 彼女は、伸ばされた手を冷たく振り払った。


「私は、サラじゃない」


 言葉は、はっきりしていた。


「……あなたと幸せな時間を過ごした記憶はある。

 でも、それは、他人の日記を読んでいるようなもの。……そして」


 シエルは一度言葉を切り、震える唇を噛み締めた。



「……シエルも、ここで終わりにする」


 静かな断言。


「あなたに名前をもらって、コーヒーを飲んで、

 ただの女の子として、普通に、穏やかに生きていきたいなんて……

 そんな、都合のいい夢、見ていいはずがなかった」


 彼女の中にあった「シエル」としての淡い希望が、ガラス細工のように音を立てて砕け散った。


「私は、一人の女性の死体と記憶を奪って、

 そこに居座っているだけの泥棒なんだから」


 普通の人になりたかった。

 ウルトの隣で、昨日とは違う今日を、積み重ねたかった。


 その願いさえも、「サラ」を知ってしまった今、死者に対する冒涜でしかないと彼女は断じた。


「サラとしてあなたを愛することも、シエルとしてあなたと生きることも、

 ……私には、許されない」


 シエルの瞳から、光が失われていく。

 感情が切り捨てられ、兵器としての冷徹さが、輪郭を塗り潰していく。


 背を向けようとした、その瞬間。

 最後に残った何かがあふれ、消え入るような音で、声になった。


「……ウルト。

 最後に、ひとつだけ…お願い」


 彼女は跪くウルトの頬に、そっと手を添えた。



「キス、して」


 ウルトは目を見開いた。


 その願いが、サラとしての記憶が引き起こした名残なのか、それとも

 シエルという一人の少女が最後に求めた「生きた証」なのか――

 彼女自身にも、もう分からなかった。


 ただ、二人の唇が重なった瞬間、世界からすべての音が消えた。

 

 それは、十年前の旧市街で交わされるはずだった愛の続きであり、

 同時に、この場所で「シエル」が永遠に失われるための、静かな決別だった。



 キスの余韻が消えぬうちに、シエルの指先が、ウルトの項にある急所へ滑り込む。


「……っ」


 ウルトの身体が崩れ落ちる。

 彼女はそれを、そっと毛布の上に横たえた。


「ごめんなさい、ウルト。……あなたは、生きて。

 今まで、ありがとう」


 もう、彼女は迷わない。


 シエルは立ち上がり、踵を返す。


 一人の女性の死を背負い、一基の兵器「No.4」として――

 組織の中枢を焼き尽くすため、雨の夜へと、駆け出していった。


 彼女が消えた後、地下礼拝堂には、ウルトの規則正しい寝息と、降り続ける雨音だけが残った。


 目覚めたとき、隣にいたはずの「少女」も「幽霊」も、

 もう、どこにもいない。


 彼の指先には、最後に触れたシエルの頬の熱だけが、呪いのように残るだろう。


 教会の外で、雷鳴が轟いた。


 それは、自分を「再利用」した組織の喉元を裂くために、

 彼女が上げた、最初の咆哮のようでもあった。


 彼女の右耳に、あの青い髪留めは、まだ残っているだろうか。


 それとも、その「心」と共に、灰の街のどこかに、置いてきたのだろうか。

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