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第17話 再利用された記憶

 半壊した教会の地下。

 かつては、敬虔な信者たちが祈りを捧げた小さな礼拝堂だったのだろう。

 崩落した天井から落ちる雨水が、錆びついた十字架を濡らし、コンクリートの床で不規則なリズムを刻んでいる。


 ウルトは、意識を失ったシエルを古い毛布で幾重にも包み、壁際に寝かせた。

 彼女の肌は異様な熱を帯び、時折、苦しげに喉を鳴らしている。

 アンプルの影響で、身体が何度も強制的な再起動を繰り返しているようだった。


 ライフルの手入れをしながら、ウルトは時折、彼女の横顔を盗み見る。


 自らの呼吸と雨の音。

 遠くで落ちる瓦礫の音。


 傍で見守るだけで、時間が進んでいく。


 ウルトは、名前を呼ばなかった。いや、呼べなかった。

 起きた後の結末が、「救済」なのか「破滅」なのか、判断がつかなかったからだ。



 ――「私には、できない」。


 絞り出されたその言葉が、胸の奥に棘のように残っている。


(……できない、か)


 それは、彼女が「シエル」として生きようとした瞬間に、真正面から突きつけられた現実だった。


 兵器としての機能不全、組織からの果てしない追跡。

 そして何より、命を繋ぐための「青い液体」なしでは、生きていけない身体。


 彼女は、自分という存在がどれほど脆く、未来を語ることそのものが、

 不誠実になりかねないということを、誰よりも正確に理解してしまっていた。


 ウルトは、銃身を拭く手を止め、静かに息を吐いた。

 雨音に混じって、灰が風に舞う気配がする。


 この街の沈黙が、彼に忘れていた言葉を吐き出させる。


「……俺も、ずっと幽霊を追っていたんだ」


 彼女には届かないと知りながら、低く掠れた声で語り始める。

 それは、誰にも明かさなかった復讐者の独白だった。


「この街で、俺は一番大切な人を失った。名前は、サラ。

 ……お前みたいに、ちょっと気が強くて、

 でも、花の世話が好きな、どこにでもいる普通の女だった。

 ちょうどそこに咲いてる……イベリスだったか、それがいたくお気に入りだった。」


 ウルトの視線は、虚空を彷徨う。十年経っても色褪せない情景が、胸に蘇る。


「仕事から戻れば、食卓を囲んで、週末どこに出かけようか、なんて取り留めのない話をするはずだった。

 ……だが、あの日、俺が戻ったとき、街は炎に包まれていた」


 ライフルを握る指に、力がこもる。


「サラも、その一人だった。……俺が戻るのが、あと三十分、いや、あと十分早ければ。

 その時も、その後も探し続けた。だが、死体すら見つからなかった。あの時、俺が何かできていれば。

 どこかで、生きてさえいてくれれば。……そんな、淡い期待と後悔だけで、俺の十年間は動いてきた」


 眠るシエルの首筋を走る無数の手術痕に、視線が吸い寄せられる。


「組織が、何をしてきたのか。

 俺は、戦いの中で嫌というほど見てきた」


 ウルトは自分の手のひらを見つめる。


「お前を助けたいと思ったのは、最初はあいつへの罪滅ぼしだったのかもしれない。

 ……『次は助ける』。そう自分に言い聞かせなきゃ、立っていられなかった。

 ……でも、シエル。今は違う」


 そっと彼女の頬へ、鉄と油の匂いが染み付いた、無骨な指先を伸ばす。


「でも、今は違う。お前が何者でも、いつか壊れるとしても……

 俺は、謝りたかった。

 お前に、シエルとして、もう一度、コーヒーを飲んでほしかった。……それだけなんだ」



 その頃、シエルの意識は、暗い海の底を沈んでいた。

 冷たい薬液が駆け巡る血管の中で、情報の濁流が渦巻いている。


 アンプルがもたらした過剰なエネルギーが、彼女の脳内に隔離されていた「禁忌の領域」の扉を、

 暴力的にこじ開けようとしていた。


(……誰かが、呼んでいる。……この、声は……)


 地上で響くウルトの声が、彼女の神経系を伝い、一つの「記憶」を呼び覚ますためのトリガーとなる。

 突如として、色彩が脳裏に爆ぜた。

 それは、組織の教本にも、シエルの過去のログにも存在しない、鮮明な情景。


 ――夕暮れの公園。小さな公園のベンチ。

 ――不器用な手つきで、紙コップのコーヒーを差し出す、若き日のウルト。

 ――「甘いよ、ウルト。砂糖入れすぎ」と、笑いながら愚痴をこぼす、自分の声。

 

 シエルの心臓コアが、異常な速さで鼓動を始める。

 オーバーヒートを起こした駆動系が、偽物の悲鳴を上げる。


 ――炎に包まれる、この教会の礼拝堂。

 ――空を埋め尽くす、組織のヘリの爆音。全てを踏み潰す戦車の振動。

 ――引き裂かれる意識の中で、遠ざかる愛しい人の背中を追い、絶望と共に名前を叫ぶ、最期の瞬間。



(いやだ……見たくない……私は……そんなの知らない!

 私は……No.4。……私は、シエル……!)


 抗えば抗うほど、記憶の激流は彼女を飲み込んでいく。

 自分のではないはずの、けれど、あまりにも「自分のもの」として馴染みすぎている幸福と絶望の感触。




 シエルは、弾かれたように身体を起こす。

 毛布が滑り落ち、冷や汗が全身を伝う。荒い呼吸が、地下室の冷え切った空気を震わせた。


「シエル! 気がついたか!」

 ウルトが、心配そうに彼女の顔を覗き込む。


 その瞳には、嘘偽りのない安堵の色が浮かんでいた。

 だが、その顔を見た瞬間、シエルの瞳には、これまでのどんな戦場でも見せたことのない

 激しい恐怖と困惑が走った。


 なぜ、知っている。

 なぜ、懐かしい。

 なぜ、「サラ」という名が、魂を引き裂くのか。

 なぜ、なぜ、なぜ……


 目の前にいる、自分を救い、名前をくれた恩人。

 だが、今のフラッシュバックは、何だ。

 なぜ、自分は彼と過ごしたこともないはずの「十年前の、穏やかな午後」の温度を知っているのか。

 なぜ、彼が口にした「サラ」という名前に、魂が千切れるほどの、引き裂かれるような愛着を抱いてしまうのか。



「……ッ」


 シエルは、自分の喉を掻き切りたい衝動に駆られた。

 いま、ウルトを呼ぼうとした自分の声。その響きが、先ほど脳裏で聞いた「サラ」の声と、

 寸分違わず重なってしまったからだ。



――私は、死者の皮を被った化け物。

――彼が愛した思い出を、機械の身体で汚す存在。


 ウルトが差し出した手は、あの日、サラを助けられなかった後悔に震えている。

 その手を握ることは、彼に「死体」を抱かせることと同じではないか。


 シエルは、震える両手を見つめた。

 


 この皮膚の下にある人工筋肉は、かつて誰かを抱きしめるためのものだったのかもしれない。

 この脳に残された、私以外の誰かの思い出。

 もしその「誰か」が、目の前の男が失った人だったのだとしたら。

 その可能性だけで、息が詰まった。



(……私は……あなたの恋人を、再利用したものなの……?)


 言葉を失ったまま、シエルは目の前の男を直視できずにいた。

 彼が自分を慈しめば慈しむほど、彼が「サラ」への後悔を口にすればするほど。


 シエルの中で、自分が彼にとっての最悪の呪いそのものであるかもしれないという、

 凄惨な疑念が、逃れようのない現実として膨れ上がっていった。



「シエル……?どうした。どこか痛むのか」


 差し出された手が、肩に触れようとする。


「……触ら、ないで!……」


 その声は、雨音に消えそうなほど小さく、けれど決定的な断絶を孕んでいた。

 灰の街の地下室で、二人の運命は、かつてないほど近く、そして残酷なまでに遠くへと、

 引き裂かれようとしていた。



 シエルは、暗い礼拝堂の隅で、

 自分の存在そのものが彼への冒涜であるかのように、小さく、小さく身を縮めた。

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