第16話 再会
北へ向かうほどに、雨は白く煙り、世界から色彩を奪っていった。
かつて「旧市街」と呼ばれたその場所は、十年前の戦火によって時を止めていた。
崩れ落ちた時計塔、ひしゃげた街灯、そして、かつての生活の痕跡を無慈悲に塗り潰した、分厚い灰の層。
シエルは、その静寂の中を、幽霊のように彷徨っていた。
(――警告。駆動系、全機能の40%を喪失。
強制シャットダウンまで、残り……)
視覚素子の端で、数字が絶望的に刻まれていく。
No.6から奪ったアンプルを打ったはずなのに、身体はかつてないほどの熱を帯び、
内側から燃え尽きようとしていた。
なぜここへ来たのか。論理的な答えはない。
ただ、混濁する意識の底で、この灰に埋もれた景色だけが、唯一の「正解」であるかのように、
彼女を呼び寄せていた。
ふと、足が止まる。
半壊した教会の前。
瓦礫の隙間の一画に、白い花が咲いていた。
(……イベリスの花)
瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。
(……誰か。
……私は、ここで、誰かを……)
かつてこの花について誰かと笑い合ったような、あるいは、誰かにこの花を手向けたような、
淡くて切実な――「自分のものではない」はずの記憶。
それが濁流となって、彼女の内側へ押し寄せる。その時だった。
「シエル……ッ!」
誰もいないはずの廃墟で、名前を呼ぶ声がした。
幻聴ではない。
ぬかるんだ泥を跳ね上げ、男が必死に、狂おしいほどの速さで駆け寄ってくる。
ウルトだ。
泥と雨にまみれ、息を切らした彼は、鬼のような形相でシエルを見つめていた。
「どうして……なぜここに!……私は、あなたから……」
「黙れ!……もう、いいんだ」
ウルトの叫びが、廃墟の静寂を切り裂く。
彼はシエルの前で膝をつき、肩で荒く息をしながら、震える手で彼女の肩を掴んだ。
その瞳にあるのは、憎悪ではない。
自分自身の傲慢さに対する、やり場のない後悔だった。
「すまなかった、シエル。
……俺が間違っていた。
お前を、過去の幽霊と重ねて見ていたのは、俺の方だ」
ウルトは内ポケットからアンプルを取り出し、彼女の手に握らせる。
「お前は兵器なんかじゃない。俺が名付けた、一人の少女だ。
……だから、謝らせてくれ。あんな酷い言葉を投げたことを。
守りたいと言いながら、一番傷つけたのは、俺だった」
その謝罪は、雨よりも静かに、シエルの心へ染み入った。
それは彼女が初めて受け取った、
汚れのない「人間としての承認」だった。
その温もりに触れた瞬間、胸の奥で、押し殺してきた感情が、形を成そうとする。
(……生きたい)
シエルは、震える手でウルトの腕を掴み返した。
心臓が熱く脈打つ。
彼がくれた「シエル」という名前が、消えかかった彼女の輪郭を辛うじて繋ぎ止める。
彼と一緒に、あのアパートで、
コーヒーの匂いに包まれて、
平和な朝を迎えたい――
そんな、兵器には許されないはずの願いが、一瞬だけ脳裏をよぎる。
だが次の瞬間、視界の端で赤い警告が点滅し、その夢を無慈悲に切り裂いた。
「……ウルト。私は、生きたい。
……シエルとして」
彼女は、血を吐くような思いで言葉を絞り出す。
だが、続く現実が、声を凍らせた。
追っ手は来る。アンプルがなければ、いつかは動けなくなる。
自分には、誰かを殺す技術以外、何もない。
そして何より――
この身体は、いつまで「私」でいられるのか。
「……でも。私には、できない」
掴んでいたウルトの腕から、力が抜ける。
一緒にいたい。
そう言いたかった。
けれど、それは彼をさらなる地獄へ引きずり込む言葉であり、
明日をも知れぬ「兵器」である自分には、口にする資格のない、不誠実な約束だった。
――警告。未定義のエラー。強制再起動を実行します。
「……ごめん、なさい……」
意識が途切れる寸前、シエルは力の入らない腕で、彼に縋り付いた。
それは「共に歩む」ための抱擁ではなかった。
せめて消える瞬間だけは、この温もりの中にいたいという――
彼女の、精一杯で、
そして最後の、エゴだった。




