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第13話 追う者、去る者

 雨は、世界の輪郭を曖昧にする。


 シエルは、重い足取りで、誘われるかのように、北へと向かっていた。

 組織が最初にターゲットにした、極北の旧市街の跡地。

 今は、近くに、組織の研究所が建ち、市街地を廃棄場として再利用している。


 そこなら、ウルトを追っ手の目から逸らし、自分という「毒」を遠ざけることができる。


 視界が、時折砂嵐のようなノイズで白濁する。


(――警告。右脚部駆動系、トルク不足。視覚センサーの同期エラーが発生中)


 アンプルを打ち込んだ直後の強制再起動は、身体に過酷な負荷を強いていた。


 スラムの喧騒を離れるほど、世界から「色」が失われていく。

 ウルトの淹れる不味いコーヒーの黒や、彼が買ってきたリンゴの赤、

 そして市場で見た鮮やかなスパイスの色彩に溢れていた世界。

 

 今、シエルの瞳に映るのは、鉄錆の茶色と、降り続く雨の灰色、そして自分の傷口から流れる

 濁った錆色のオイルだけだった。


「……寒い」


 不意に漏れた呟き。

 かつてのNo.4にとって、外気温の低下は「熱交換効率の変動」というデータでしかなかった。

 だが、今のシエルにとって、それは震えが止まらないほどの、心細い「感覚」だった。


 雨をしのぐため、街道沿いの打ち捨てられたバスの残骸に這い入った。

 窓ガラスはすべて割れ、座席のスポンジが腐った匂いを放っている。

 座席の隅にうずくまり、震える手で、返り血と泥で汚れた自分のパーカーを見つめた。


 激しい戦闘で、あちこち破けてしまっている。


 シエルは、ウルトが不器用にボタンを留め直してくれた、あの日の記憶を

 壊れたレコードのように何度も再生した。


 ――『ったく。……貸せ、手伝ってやる』



 右手の指先で、千切れかけた布の端を合わせようとした。

 だが、損傷した擬似神経は正確な動作を拒み、指先は空を掻くだけだった。

 何度繰り返しても、一度破れた布は元通りにならず、冷たい風が裂け目から体温を奪っていく。


「……ウルト。……手順が、分かりません」


 暗い車内に、誰にも届かない再要求リクエストが落ちる。

 彼がいないだけで、服を着ることさえ、呼吸をすることさえ、正解が分からなくなる。


 諦めたように手を下ろし、膝を抱えた。

 ふと窓ガラスの破片に、自分の姿が映る。


 水滴の垂れるガラスの向こうにいるのは、かつての「戦場の幽霊」の面影もない、ボロボロの少女だ。

 顔は泥にまみれ、唇は白く乾いている。


 だが、右耳の横にだけ、一点の「青」があった。

 ウルトがくれた、安物のガラスの髪留め。


 血とオイルが固まりかけた指で、そっとそれに触れる。

 No.6のブレードが擦った火花で、表面には小さな傷が刻まれていた。

 その傷が、自分の心に刻まれた「拒絶」の痕のように見えて、胸の奥で不快な拍動が起こる。


「……汚れてる」


 パーカーの裾で必死に青い石を拭った。

 彼からもらったものだけは、綺麗でなければならない。

 自分という化け物の存在が、彼のくれた善意を汚してはならない。


 けれど、拭けば拭くほど、パーカーに染み込んだ他人の血が、青い石を赤黒く曇らせていく。


「……っ、……やめて……」


 嗚咽に近い吐息が漏れる。

 自分の手が「凶器」であることを思い出し、弾かれたように髪留めから手を離した。


 もしウルトが、今の自分を見たら。

 また、あの怯えたような、憎むような瞳で自分を見るのだろうか。



 シエルは、暗い車内の床に、右耳を押し当てるように横たわった。

 そこからは、ウルトが淹れるコーヒーの音も、彼が銃を整備する小気味の良い金属音も聞こえてこない。

 ただ、冷たい雨音だけが、彼女の意識を削り取るように降り続いていた。



 数時間の休息の後、シエルは再び立ち上がった。

 アンプルの熱はすでに消え、全身に鉛のような倦怠感がまとわりついている。


(――現在地より北へ、15000。……移動を、再開します)


 彼女を動かしているのは、もはや生存本能ですらなかった。

 いつか、ウルトが自分を忘れて、平穏な「生活」に戻れる日が来るまで。

 自分という「失敗作」を、世界の果てまで連れて行き、そこで朽ち果てること。


 それが彼への、

 ——そう思い込むための、手続き《プロトコル》。


 シエルは、ぬかるんだ土を踏みしめ、暗い森の奥へと消えていく。


 その時、彼女は気づかなかった。

 はるか遠く、自分が歩んできた足跡の先に。


 雨を切り裂き、狂ったように夜道を駆ける、一つの執念深い光があることを。


 ウルトの持つライトの光が、彼女が落とした「色彩の残骸」を、確実に捉えようとしていた。

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