04 パンを焼いたら、売る。
『蒼い誓いと紅い秘密、その扉の向こうで』
ヒロイン ミレイア・ノクス 光魔法
皇太子 アルト・アズリオン 水魔法
悪役令嬢 ヴェロニカ・ルージュリス 炎魔法
あの世界の影が、少しずつ遠ざかっていく。
ゲームが終わっても、私はこの世界で生きていかなくてはいけないんだもん。
頑張る。
小さく呟いて、手を動かし続けた。
セレネイド王国にきて、何か月かが過ぎていた。
季節がひとつ変わり、風の匂いも少し違っている。
毎日大変だけど、充実していた。
疲れていても、どこか満たされている感覚があった。
食事処のマスターはおおざっぱだけど優しくて、お客さんもいい人ばかりだ。
注文を間違えても笑って許してくれるような、そんな空気の店だった。
なによりやっぱり、まかないが美味しいのがありがたい。
お休みの日、いつものようにパンを焼いて、育った野菜でサンドイッチを作った。
焼き上がったパンを切り、野菜を挟む作業はすでに慣れた手つきになっていた。
いい気候だったから、家の前に椅子を置いて、そこで食べていると、近くの家の人が「何を食べているの?」と声をかけてきた。
風に揺れる洗濯物の向こうから、興味津々といった様子で覗き込んでいる。
この世界に、まだパンはない。
どうしようか悩んだけど、声をかけてくれたその人から、以前、牛乳をわけてもらったことがある。
あのときの小さな親切を思い返して、迷いつつ、正直に教えることにした。
「…パンですよ。よかったら、おひとつどうぞ」
そう言って、サンドイッチを1つ渡した。
すると、美味しい美味しいと喜んでもらえた。
目を輝かせて何度も頷く姿に、こちらまで嬉しくなる。
なんだか、いいことをした気分になった。
ただ、困ったことに。
次の日、サンドイッチをあげた人が、牛乳とパンを交換してほしいと言ってきた。
予想外の申し出に、一瞬固まる。
「きのう、お渡ししたのはサンドイッチというもので。パンはこれなんです」
そう言って、食パンを見せる。
焼き色のついたそれを、困ったように、でも少し誇らしげに見せる。
そして、ここに野菜とマヨネーズというものを挟んで食べるのだと伝えた。
「じゃあ、パンと、そのマヨネーズというのを譲ってくれないか」
真剣な顔で言われて、ますます困った。
正直に言えば、パンとマヨネーズと、コップ1杯の牛乳では、割に合わない。
頭の中で原価計算がぐるぐる回って、ちょっと大きく出てみた。
「牛乳1瓶とだったら、交換しますよ」
そう伝えると、牛乳1瓶。
だいたい1リットルだろうか、それを持ってきてくれた。
思ったよりも大きな瓶を抱えていて、少し驚く。
その次の日には、別の人が牛乳1瓶を持ってくる。
噂が広がるのが早い。
でも、牛乳は十分にあるから「お肉となら交換しますよ」そう伝えると、お肉を持ってきてくれた。
それもなかなか良い部位の肉で、思わず笑ってしまった。
その次の日には、さらに別の人がくる。
朝から昨日と同じように、あるいはそれ以上に、人の気配が途切れずにやって来る。
普通の民家に行列という、異様な景色が見られるようになった。
これは、商売のチャンスなのでは。
そう思って、思い切ってパン屋を始めることにした。
物ではなく、お金とパンを交換してもらおう、ということだ。
今の材料で作れそうなのは、食パン、クロワッサン、ベーグル、クリームパン、というところだろうか。
玄関の周辺を綺麗にして、それっぽい棚を設置した。
この世界にはお店を始めるにあたって、小難しい手続きが必要ないというのがありがたかった。
お食事処のマスターにお店の始め方を聞いて準備をする。
本当に、いいマスターでよかった。
私1人だし、それほど種類は作れないから、自宅をちょっと改装するだけでいいだろう。
あと、マヨネーズも忘れてはいけない。
お野菜がたくさんあるときは、サンドイッチを作るのもいい。
食事処のバイトの日にちを減らしてもらって、週に4日、パン屋さんを始めた。
マスターに頭を下げ、少し申し訳なさを感じながらも事情を説明すると、快く了解してくれた。
ありがたいことに、パン屋はすぐに軌道に乗った。




