10 お別れをして数年、悲劇。
『蒼い誓いと紅い秘密、その扉の向こうで』
ヒロイン ミレイア・ノクス 光魔法
皇太子 アルト・アズリオン 水魔法
悪役令嬢 ヴェロニカ・ルージュリス 炎魔法
皇太子弟 シエル・アズリオン 風魔法
アルト殿下と再び別れてから、3年が過ぎた。
季節が何度か巡り、窓辺の景色も少しずつ変わっていった。
平和につつがなく暮らして…いたかったのだけど。
世の中は大きく変わっていた。
1年前、突然始まった戦争。
噂だろうと思っていたのに、現実となり、生活にも影響を及ぼしていた。
私が住んでいるセレネイド王国が、アルト殿下のいるルミナリス王国に戦争を仕掛けたのだ。
結果、ルミナリス王国が勝利。
私が住んでいるのは市街から離れた郊外も郊外だったから、近くで戦闘があるというような、直接的な被害はなかった。
でも、物価は上がるは、物は入ってこないはで生活は一変していた。
店に並ぶ品の数も減り、いつもの買い物ですら、店を何軒回っても買えないことがあった。
セレネイド王国は、全土をルミナリス王国の支配下にするという条件で降伏したらしい。
逃げてきたのに、結局、ルミナリス王国の住人となってしまった。
災難だったのは、私が住んでいた地域が郊外も郊外だったこと。
この世の果てくらい郊外だったから、ルミナリス王国の支配下になったのを知ったのが、ルミナリス王国の支配下となってからずいぶん経ってからだったのだ。
もし、もっと早くに知っていたら、また逃げることができたのに。
いつものように、ありものでパンを焼いていると、カランカランとベルチャイムが鳴った。
小麦粉をこねる手を止め、振り返ると同時に空気のわずかな揺れを感じて、人が来たことがわかった。
「いらっしゃいませ。今日もね、食パンくらいしかないのよ」
そう言って振り返ると、父と母が立っていた。
見えているのに理解ができず、粉まみれの手のまま呼吸だけが止まる。
焼き立てのパンの匂いと、店のぬくもりの中に、場違いな冷気が混ざり込んだようだった。
驚き過ぎて、何も言えないまま立ち尽くす。
「どうしてここに」という疑問すら声にならず、体も動かない。
カツカツと父が石床に靴音が乾いた音を立てるたびに、空気が緊張で張りつめていくのがわかった。
そのまま距離を詰められ、視界の端に影が落ちたかと思うと、頬を思いきりぶたれた。
衝撃で首が横に弾かれ、髪が遅れてふわりと揺れる。
視界がぐらつき、何が起きたのか一瞬理解できない。
頭がパニックになっていたこともあって、体を支えきれずに、床に崩れ落ちた。
膝が床に当たる感覚すら遅れてやってきて、ようやく現実感が戻ってくる。
頬に残る熱だけがやけにはっきりしていた。
「この、親不孝者が!こんなところで何をしてるんだ!」
怒鳴り声が上から降ってきて、鼓膜を震わせる。
昔から変わらない声色。
私を部下の一人と勘違いしているんじゃないだろうか。
そんなことを考えられるようになって、ようやく頬がジンジンと痛み始める。
残念なことに、これは現実に起きていることらしい。
悪夢だったらよかったのに。
粉のついた指先が震えているのが見える。
ルージュリス家を飛び出してから、何度も悪夢を見た。
父と母に家に連れ戻されて、アルト殿下が暗殺されて、私が処刑される夢。
その夢の中でも、私はいつも無表情だった。
誰かの命令に従うだけの人形のように動いて、殺される。
ギロチン台に首を固定されて、金属の冷たさが肌に触れる。
それがとてもリアルで、恐ろしい。
でも、夢はそこまで。
刑が執行されるところで目が覚める。
刃が落ちる瞬間の絶望と、処刑される私を見る民衆の笑い顔がやけに生々しい夢。
息を吸い込みながら、起きることができて、夢でよかったと、泣きながら起きていた。
でも、今日は、夢ではないみたいだ。
頬の痛みがそれを教えてくれた。
目の前にいるのは、現実の父で、現実の母。
大好きなパンの香りすら薄れていき、空間が切り取られたように冷えている。
私を人として見てくれない、血が繋がっているというだけの人間。
その認識が、昔と変わっていなかったことを突きつけられる。
従者らしき人が私を羽交い絞めにした。
背後から腕が絡め取られ、動こうとしてもびくともしない。
衣服越しに伝わる力の強さに、思わず声が出た。
「何をするんですか?」
声が震える。
自分でもわかるほど、口がうまく動かない。
「何って…帰るに決まっているだろう」
冷たい声が返ってくると同時に、馬車へと押し込まれて、ロクな抵抗もできないままルージュリス家に連れ戻されてしまった。
でも、大丈夫だ。
アルト殿下との婚約は破棄されている。
馬車の揺れの中で必死に呼吸を整えながら、自分に言い聞かせる。
もうあの物語の流れに巻き込まれる理由はないはずだ。
私がアルト殿下を暗殺することも、暗殺する手助けをすることもない。
そう、思っていた。
ある日の夕食までは。
無駄に広い食堂に、無駄に距離をとって、父と母、私がテーブルについている。
天井の高い部屋は声がよく響くはずなのに、この家では誰も会話をしないせいで、その意味を失っているようだった。
長いテーブルの端と端で視線が交わることもなく、皿の音だけがやけに響いていた。
銀のカトラリーが皿に触れるたび、やけに冷たい音が空間を刺す。
特に話すこともないのに、どうして一緒に食事をするのかわからない。
家族というより、同じ建物に偶然住んでいる他人同士のようだった。
料理は豪華なのに、温かさだけがどこにもない。
その沈黙が逆に不気味で、カトラリーを持つ手もぎこちない。
「喜べ、ヴェロニカ。お前に縁談だ。もう、受けてきた」
父が突然、そう言った。
肉を切る手を止めることもなく、まるで天気の話でもするような声だった。




