勇者は再び目覚めた
勇者ヒカルはパチッと目を見開いた。
いつかどこかで見た天井が見える。どうやらベッドに横たわっている。思わず首元を触った。首はなんともない。
悪い夢でも見たのだろうか。
しかし魔王との幾度にもわたる激闘で負った無数の傷の痛み、そしてなにより最後に自分の首に滑り込んできたあの冷たい刃の感触が忘れられない。
大きなガラス窓を通した黎明の光が室内をぼんやりと照らしている。隣から聞こえる寝息に顔を向けてみれば、こちらを向いて目を閉じているのは聖女フレイア。
驚きに身を引いたヒカルはそのまま宙に手を突き、ベッドの下に転げ落ちてしまった。
「ど、どうしたの!?」
床を打つ大きな音で目を覚ましたフレイアが慌てた声をあげ、ベッドの上からのぞき込む。
ヒカルは尻餅をついたまま後ずさり、壁にピッタリと背を付けた。寝間着姿のフレイアを見つめるその目は懐疑に満ちている。
「悪い夢でも見た?」
一方のフレイアはキョトンとしている。
ヒカルには相変わらず今の自分がどういう状況なのか判然としなかったが、ひとつだけわかったこともあった。
ここは王都の宿屋だ。二人がゆったり寝られるような広いベッドに、大きく透き通った立派なガラス窓。上品でしゃれた調度品の置かれた清潔な部屋。これらは王都を旅立ってから後は見なかったものである。窓の外には国王が住むお城も遠く見えた。
であれば、魔王討伐を終えた自分たちは無事に王都に帰還したのであろうか。だがその記憶がまったくないのはどうしたことか。
無言のままのヒカルにフレイアは言った。
「そうナーバスにならないで。あなたは勇者なんだから。堂々としていればいいの。王様だって取って食いやしないわ」
いつか同じようなことを言われた覚えがあった。たしか魔王討伐の旅に出発する前の王様への謁見と壮行パレードの日だ。二年ほど前のことである。
「今日、お城での謁見は十時から。それから会食の後に壮行パレード。大丈夫。昨日も言った通り私がフォローするから。あなたは黙ってニコニコして時々うなずいたり手を振ったりしてればいいのよ」
ますます状況がわからず、ヒカルはおそるおそる彼女の名を呼んだ。
「フレイア?」
フレイアは目を輝かせてベッドの端から体を乗り出す。
「うれしい! ようやく名前で呼んでくれたのね。そうよ。私はフレイア。あなたの聖女なんですから。エスクロークさん、なんて他人行儀はもう駄目よ」
感激の後で見せたいたずらっぽい強気の笑みもまたヒカルのよく知るものだった。
日が伸び続ける五月は外が明るくなるのが早い。起きるにはまだ早すぎるとフレイアが二度寝を決め込んだ後、ヒカルは部屋に備え付けられた姿見を通して自分の姿を見た。薄明の中、いつも通りの自分の顔がいつも通りの体に乗っている。
顔立ちは平凡な日本人のものである。少年と間違われることが多い。短く揃えた髪の毛は少し茶色がかっているが、これは染めているわけではなく色素が少し薄いことによるものだ。同じ理由で瞳もブラウン。
体格はややがっしり目の中肉中背。女性らしい凹凸には乏しいが、かえって動きやすくてよいと思っている。用意してもらった絹の寝巻はどうにも無防備で落ち着かない気がして、旅の衣服として与えられたシャツと長ズボンを着たまま寝ていたことを覚えている。
「僕はまたループしたのか?」
鏡を見ながらひとりつぶやいた。
死んで過去に戻るのは勇者にとっては当たり前のことだった。ただ妙なのは、魔王との決戦直前ではなく、どうやら勇者召喚によって日本から呼び出されて間もない頃まで戻ってしまっている。設定したアンカーポイント以外の時と場所まで戻るのは今までに経験のないことだ。
不意に賢者クライグの嘲笑が脳裏によみがえる。あの声に込められていた感情はたしかに嘲りだ。だが内容は聞き取れなかった。そして剣聖ボルダートの体の重みと、フレイアの感情のない瞳、首筋に走った冷ややかで不吉な感触……
ヒカルは再び首に手をやり、ベッドの上のフレイアを見る。安らかな顔で眠っている同い年の親友。いや、これから親友になるはずの子。
『誰も彼もが君を騙している』
今度は魔王の言葉が思い出された。わけがわからない。もしやこれは魔王の幻術か何かなのだろうか。自分で頬をつねった。痛い。
と、不意に窓を叩く音がした。ここは二階である。
外を見ればカラスがつぶらな瞳をこちらに向けていた。窓の下の小さな手すりにとまっている。ヒカルがしばしそのまま見つめていると、カラスは何か催促するかのようにもう一度くちばしで窓ガラスを強く突き、手すりから飛び降りて姿を消した。
ヒカルは急いで窓際まで行き、外をのぞきこむ。カラスは通りの向こうの路地の方へと滑空し、少し浮き上がって誰かの肩へ止まった。
微笑みとともにこちらを見上げるその誰かの顔を見て、ヒカルは息を呑んだ。
黒く艶やかな髪の毛。黒い瞳。黒いマント。
千年の魔王。
それはたしかに見覚えのある彼女の姿だった。その魔王が笑顔で小さく手招きしている。
ヒカルはわずかに悩んだが、すぐに心は決まった。今のこの状況に答えをくれるのは彼女しかいない。そんな気がしたのだ。
靴を履き、音のしないように部屋のドアをそっと開け、廊下に誰もいないのを確認してから階段を降りる。辺りを気にしながらこっそりと忍び足で宿の外に出た。朝の爽やかで少し冷たい空気が頬に感じられる。弱い太陽が通りの先からこちらを照らしていた。
見れば魔王はこちらを見つけてうれしそうに手をひらひらと振っている。ヒカルが小走りに魔王の前まで行くと、彼女は目に涙を浮かべてひしと抱きついてきた。
そのままの状態で時が止まったかのように静止する。ヒカルにしてみれば戸惑いしかない。だが恐怖はなかった。細い体だ。ちょっといいにおいがする。大人の女性の香りというやつだろうか。
しばらく経って魔王は体を離し、たまった涙を指で拭った。そして言った。
「やっと二人で話せるね、ルーチェ。本当はヒカルって呼んでほしいんだったっけ」
「どうしてその名前を!?」
それほど大きな声ではなかったが、静寂の朝の街には思いのほか響く音量だった。魔王は慌てて声の主を路地裏に引っ張りこむ。
石動聖光。
それが勇者ヒカルの本名。「聖光」と書いて「ルーチェ」と読ませる、いわゆるキラキラネームだ。ルーチェはこの名前が嫌いで友達には「ヒカル」と呼んでもらっていた。もっともそんな友達がいたのも中学の途中までだったけれど。
「けど今は昔の通りにルーチェって呼ぶね。私はあなたのこと、ずっと前から知ってるんだよ」
見つめる魔王の目は新しいうれし涙に潤んでいる。その表情と言葉にルーチェは戸惑った。彼女はこちらをずいぶんと知っている様子だが、こちらは彼女を知らない。
「首、怖かったよね。痛かった?」
「あれくらいは慣れてるよ」
「そう、よかった」
気遣う顔から一転、魔王はにっこりと笑う。親しげにぐいぐい来る態度に戸惑いしかないが、この魔王はやはりあの魔王だ。しかしなぜここに魔王がいる?
「私のことはレイと呼んでね。ルーチェは私が絶対に元の世界に帰してあげるから安心して。私たち二人で力を合わせればなんだってできないことはないんだから」
ルーチェが思わず問い返そうとする口に、レイは人差し指を添えた。
「詳しい話は後。行こう。とりあえず今は逃げなくちゃ。また首を落とされたくはないでしょ?」
色々と疑問は尽きない。しかしルーチェは黙ってこくりとうなずいた。
二人は人気のない早朝の街中を、狭い路地を縫うようにして南門へと向かった。やがて石造りの家々の隙間から王都を囲む城壁がちらちらと見えてくる。カラスはいつの間にやらどこかへ消えていた。
たどり着いた南門は大きく開け放たれていた。城壁は二階建ての建物よりも高い。門前の広場には商隊の荷馬車が列をなしている。どうやら今は順番に通行の手続きをしているようだ。
「まずはあれを利用するよ。そうすればうまく行くんだ」
レイの慣れた口ぶりにルーチェは言われるままうなずく。しかし次の言葉には固まってしまった。
「じゃあ、とりあえず服を脱いでくれるかな?」
やっぱり状況がまったくわからない。
その時、突然町中に警鐘が鳴り響いた。ルーチェが思わず辺りを見回すと、早くも城門が閉まり始めている。
「このままじゃ閉じ込められる! 早く門の外に出ないと!」
危機に挑む前いつもするように、ルーチェは目を閉じてしばし念じた。
アンカーポイント更新。
この時、この場所にアンカーを打ち込んだおなじみの感触がたしかにあった。それはゲームのイベント直前でセーブするのと同じことだ。あとはいくらでもやり直せる。
「待って」とレイが止める声にもかまわずルーチェは路地から飛び出し、南門をめがけて一直線に走り出していた。
そして行く手を阻む衛兵の一人を易々と突き飛ばす。もともと体力には自信がある。勇者となってからはなおさらだ。十人程度群がってきたところで負ける気はしない。
が、しぶとく食い下がって来る兵士たちを押しのけるのにいくらかもたつく。死に戻る前と体を動かす感覚が違う。二年の時間差がもたらした違和感である。もたついているうちに、すっかり周りを囲まれてしまった。門はもう半ばほどまで閉じている。
「相変わらずの猪突猛進だなぁ」
苦笑しながら追いかけてきたレイが軽く念じると、周りの影という影から拳大の石礫が飛び出し兵士たちを打ち据えた。
レイは黒い影にもぐりこみ、混乱した兵士たちの足元に滑り込んだ。影から突き出た白い手がルーチェの手をひったくるように取って南門へと走らせる。幾人かが気づいて後を追う頃には、一人と影は間一髪で門をくぐり抜けている。常人離れしたその足の速さに追いつける者はない。
「先を行く商隊の馬車に追いつくよ。走りながら話を聞いて」
足下の影の中からわずかに顔を出したレイの声にルーチェは黙ってうなずいた。遠ざかっていく彼女が勇者であるとは誰も知らない。ましてやその影の中に、手配されたばかりの魔王が紛れ込んでいるなどとは。




