プロローグ 勇者は死んでしまった
魔王は勇者に呼びかけた。
「これだけは最初に言っておくよ。勇者くん。君はペテンにかかっている。この話は嘘だらけなんだ。とりわけ勇者の物語はね。誰も彼もが君を騙している。私を倒しても元の世界には帰れないよ」
それは凛とした若い女性の声だった。静かな黒い瞳で勇者を見据えている。黒ずくめ。カラスの濡れ羽のように艶やかな黒髪に黒いマントをまとっていた。
呼びかけられた勇者の側には剣聖、聖女、賢者の三名が控えている。この四人パーティがこの国の勇者一行のフォーマットだ。
荒涼たる大魔域の奥地にそびえる薄暗い古城、玉座の間において双方は対峙している。
敵に剣と盾を向けたまま無言の勇者。代わりにその背後で錫杖を構えた聖女が言った。
「聞く耳を持たないで。我々をたぶらかそうという魔王の戯言よ」
聖女というたおやかな呼び名の割には気の強そうな声。
「わかってる。君は僕のために何度も命を捨ててくれた。あれが嘘なわけがない」
顔を前に向けたまま勇者は言った。年の頃は十代後半といった背格好だが、少年のような顔つきと声色。軽装の鎧に身を包んでいる。その瞳に動揺はない。強い光を宿していた。
魔王が呆れた声で言った。
「何回死んでもあなたの力でなかったことにできるんだよ? そんな安い命、何をありがたがってるの」
「黙れ、千年の魔王。無駄話はここまでだ」
勇者が言葉を返した瞬間、剣聖が大きく前に踏み込んだ。一行のうち一人だけ年嵩の中年。そのスマートな称号には似つかわしくない牛のような大男が、体躯に似つかわしくない速度で魔王を間合いに捉える。
刹那、魔王の影の中から射出された六つの黒い刃が圏内に侵入した者を迎撃した。が、剣聖はあらかじめ知っていたかのような動きで素早く横に身をかわし、かわしきれない一つに脇腹を切り裂かれながらも強引に踏み込んだ。
錆の浮いた長剣が魔王の細首を横薙ぎにせんとする。
だがそのなまくらな刃が白い肌に触れる寸前、目標は影に沈み込み姿を消していた。
姿を消した魔王が賢者のすぐ後ろに姿を現した時、炎の魔法が狙いすましたかのようにその場所を焼く。魔王はマントで遮るようにして身を守った。その端正な顔がわずかに歪んだ。
「見たことのねえ技だが、来るとわかってりゃどうってことないぜ。勇者様々だな」
賢者がさかしらに言った。賢者というには若々しく生意気そうな青年だ。目つきの悪い丸眼鏡。いくらか小物っぽい俗な笑みを浮かべている。
魔王は再び影に溶け、今度はやや離れた場所に現れた。口をへの字に曲げている。
間髪入れずに勇者が追い討つ。魔王をまっすぐ見据えて盾を体の前に構えている。どんな攻撃も受け止めて見せると言わんばかりの突貫である。
対する魔王が精霊魔法の呪文を唱えると、床からせり上がった石の壁が勇者の目の前を塞いだ。ところが勇者は盾を持たない方の細腕を振りかぶると、剣ではなく、剣を握る拳でその壁を粉々に砕いた。
「なんて馬鹿力」
魔王はつぶやくと再び影に沈み、さらに離れた場所に浮上した。
勇者は弾んだ声で仲間たちに呼びかけた。
「行ける。少し手が進んだよ」
一度目は初手で剣聖と賢者は死んでいた。二度目も賢者は殺されていた。しかし三度目の今回はいずれも無事。それどころか魔王に反撃まで加えている。
そして聖女の強力な神聖魔法で剣聖の腹の傷は完全に回復していた。上々の滑り出しだ。
このやり直しこそが勇者の特性である。
何度死んでもアンカーポイントとして設定した時と場所に戻ってやり直せる。死に戻りによるループ。異世界からこの世界に召喚された勇者に与えられる女神の恩寵によるものだった。
やり直した記憶はループした勇者だけが持っている。だがその情報を仲間に共有すれば、敵の手の内をどんどん丸裸にできるというわけだ。いかな力量差があろうとも戦いとは一瞬で生死の分かれるもの。徐々に追い詰めれば勝てぬ相手はいない。
どうやらこの魔王は勇者の特性を理解しているらしいが、ループを認識している気配はない。語句は少しずつ違うが、初回から飽きずに同じようなことを呼びかけている。
魔王がため息とともに漏らした。
「まったく、勇者ってやつは。敵に回すと面倒この上ないんだから」
その十数分後、剣聖と賢者は血まみれになって石の床に倒れ伏していた。折れ曲がった錫杖を手に聖女が勇者の前で必死の結界魔法を展開している。血で汚れた法衣はあちこちが破れ、その周りにゆったりと垂らしていた金の髪も今は乱れに乱れている。
勇者も満身創痍の体を剣で支えてなんとか立っているような状態だ。
対する魔王は無傷。
「弱すぎる。さすがにもう少しはいいとこ見せてもらいたいなぁ。こんなんじゃ何回やり直しても到底勝つのは無理だよ。いったん諦めたら?」
勇者は血と汗にまみれた顔に不敵な笑みを浮かべて言った。
「勝てるさ。僕は死にゲーは得意なんだよ」
言うなり奥歯に仕込んだ毒を噛み、勇者は死んだ。
時を置かずして勇者はまたしても玉座の間へと踏み込んだ。そして間もなく四回目の死を迎えた。
やがて五回目の突入。死ぬたびに散々苦痛を味わっているにもかかわらず、勇者の瞳は力を失っていない。
六回、七回。幾度とない死。
だがやり直すたびに手が進む。殺されるたびに手が進む。
楽しい! 楽しい! 楽しい!!
この試行錯誤の喜びの前には多少の痛みなどささいなことだ。
到底勝てない? 僕はそうは思わない。
死ぬことを前提に、観察し、記憶し、思考し、判断し、忍耐力と集中力をもって敵に挑み続ける。たしかに魔王は理不尽に思えるほどの強さだ。だが百回負けようとも最後の一回を勝てばいいのだ。
勇者は幾度惨たらしい死を迎えても心折れずに突貫を続けた。勝利につながる道筋を求めて。
そんな勇者の剣がついに魔王に届いたのは三十七回目のことだった。だが戦いのさなかに命を落とした聖女の死をなかったことにするため、勇者はまたしても自ら命を絶つ。
やがて迎えた四十四回目。
仰向けに倒れた魔王の前に傷だらけの勇者が立っていた。両の手で逆手に握った剣をその腹に突き立てる。魔王は一瞬体を反って硬直した後、脱力してそのまま動かなくなった。
勇者が放心したような笑みを浮かべて仲間たちを振り向く。聖女、剣聖、賢者。今度はいずれも無事。勇者に止めの一撃を促す間に、聖女が仲間たちに回復魔法をかけている。
勇者は遊び疲れた子供のように尻餅をついて前に足を投げ出した。床に手をつき、高い天井を見上げる。これですべてが終わったのだ。深く息をつく。
まず胸をいっぱいに満たしたのは誇らしさと達成感だった。
こんな僕にだってできた。勇者の仕事をやり遂げることができたんだ。
『私を倒しても元の世界には帰れないよ』
不意にそんな魔王の言葉を思い出す。少し吹き出してしまった。もともと帰る気などない。むしろこの異世界こそが自分の居場所だ。聖女とはこれからもずっといっしょに過ごすと約束している。僕たちの冒険はこれからなのだ。
「お疲れ様」
気づけばその聖女がすぐ近くまで来ていた。完全回復した剣聖と賢者も側にいる。
勇者がまぶしげな笑顔で見上げる。聖女は言った。
「……さ、あなたの傷も癒してあげるから……前は平気みたいね。背中を見せてくれる?」
目も合わせずどこか素っ気ない口調だったが、心地良い疲れと喜びに身をゆだねる勇者にそれを気にする余裕はない。
胡坐をかいた勇者が素直に背を向けると、聖女はその肩に触れ、ひとつ、聞き覚えのない呪文を唱えた。その魔法が発動すると同時に剣聖が勇者を乱暴に引き倒し、うつ伏せにひっくり返してのしかかる。後ろ手を取って床に押さえつけた。
「な、なにをするの!?」
戸惑う声をあげる勇者に嘲りで応えたのは賢者である。
「恩寵がないともう何を言ってるのかもわかんねぇな。捕まった猿がわめいてるみてえだ。ともあれお役目ご苦労様。何度も何度も死ぬのはさぞ苦しかったろう? これが正真正銘最後の死だ。あとは安らかに眠るといい」
剣聖は黙したまま、自由な方の手で腰の後ろから小剣を抜いた。
勇者はもがき、かろうじて聖女を見上げる。無の表情。ガラス細工のような温度のない瞳がこちらを見下ろしていた。
勇者の首が落ちる。
時は戻らない。
勇者は死んだ――。
パチパチパチ。
その時、玉座の間に小さな拍手の音が響いた。
「いやはや鮮やかな使い捨てっぷりだねー」
三人が振り返ればそこには勇者が殺したはずの魔王がいた。冷たく見下す笑みを浮かべている。
「バカな! どうして生きてる!」
「よく見てみなよ。偽物さ。変わり身の術とか知らない? 知るわけないか」
うろたえ叫ぶ賢者に魔王は落ち着き払って答えた。倒れていた魔王の体は黒い塵に変わって影に溶けて消えた。
その瞬間。
やおら魔王の影から黒くうねる闇の粒子が触手のように伸び、まず剣聖の上半身を削り取って虚空に消滅させた。次いで賢者の右の足首から先を同じように削ぎ落とす。錫杖で防いだ聖女は跳ね飛ばされて床に転がった。賢者の凄惨な悲鳴が上がった。
魔王は笑みを消して言った。
「ごめん。こんなことする意味全然ないけど、さすがにちょっとムカついちゃって」
それと同時に賢者の左の足首も影に削り取られて消滅する。またしてもつんざくような悲鳴が上がった。
「口は禍の元だよ当代の賢者くん。君はいつだってそんなだね」
冷徹に睥睨する魔王。聖女は絶望に顔を歪めている。賢者は無様に涙を流しながらも這いつくばって逃げ出したが、すぐに闇の触手で腹を貫かれて絶命した。
聖女が完全に抵抗の意思をなくしてへたりこんだのを尻目に、魔王は転がっていた勇者の首を拾い上げ、切なげに抱き締めた。
「つらい思いさせてごめん。でもまたすぐ会えるから」
それから勇者の首を元の位置に戻して瞑目させると、魔王はどこからともなく黒い毒薬の小瓶を取り出した。その中身を一気にあおり、勇者の傍らに倒れる。そして眠るように目を閉じた。




