勇者と魔神の封印
「手本を見せる。よく見ておくのじゃぞ」
フィツはそう言って呪文の詠唱を始めた。自分の背丈より長い杖を振りかざし、ルーチェには意味の取れぬ精霊の言葉を紡ぐ。
身を寄せて固まった四人の周囲には無数の何かが猛スピードで飛び交っている。嵐のように空を覆い、日の光を遮っていた。
ギガント・ドラゴンフライ。人間の腕ほどの長さをした獰猛な巨大トンボである。レイの張った神聖魔法による魔物除けの結界がなければ、あれらはたちまち四人を食らい尽くしてしまっていただろう。
やがていつまで続くのかと思われた詠唱がようやく終わり、結びの一節がフィツの唇から滑り出る。
『ゼント・ガイル・イーラ』
その最後の一言とともに周囲に風の嵐が吹き荒れた。その暴風の中で虫たちは捻じれ、千切れ、ことごとくが地に落ちていく。空を埋め尽くしていた虫たちは瞬く間に地を埋め尽くした。
暴風が止んだ頃には景色すら変わっていた。広範囲に竜巻を起こす風の極大魔法。辺りの草木も巨大トンボと同じ有様となっている。
レイがパチパチパチと拍手するその横で、ルーチェは唖然としていた。
これほどの凄まじい魔法を見るのは初めてだ。大魔域の二年の旅路でクライグの魔法ならいくらも見ていたが、これはとてもその比ではない。
「しかと見たか」
「はい。ありがたく拝見いたしました」
振り返ったフィツにクライグは真剣な顔で一礼した。てっきり予想していた軽薄なお追従もおべんちゃらもない。それはまるで芸事の師匠と弟子のような厳格な雰囲気だった。
地に落ちた巨大トンボの中にはまだピクピクと動いているものもあるが、飛ぶものはもう一体もない。生臭い臭気が辺りにただよっている。
「ランクDクエスト『エフタル湿原の虫禍』クリアーっ。これは後回しにしようと思ってたんだけど、フィツがいてくれて助かった」
レイが笑顔で言ったが、フィツはまだ事が終わったとみなしていない。
「これほどの大発生。何か原因があるじゃろう。根を絶たねばこいつらはまた出てくるぞ」
「さっすがフィツ。まったくその通り。ここからもう少し先に進むよ」
四人はあれからひと月ほど、大きな道や町は避けて南へ進み、時には道なき道を行く道中、今は国の中西部に差し掛かる場所まで来ていた。さほど急がず進んでいるため、目的のオクトラクルムまではまだ遠い。
エフタル湿原への寄り道も「さほど急がず」の一環である。道中すでに二つほどランクEクエストを片付けていて、今日は初めてのランクDクエストに挑んだというわけだった。
一行はレイの導きに従って湿原をさらに奥へと進んだ。
朽ちかけた木道を踏んで歩く。見渡す限りの草の原を夏の花々がまばらに彩り、ところどころに灌木が顔を出している。いくつもの沼が口を開けてさざ波の文様を見せていた。この湿原はいくらか高地にあり、夏空の下を吹き渡る風は爽やかである。
レイが「ごらんよ」と腕を差し伸べ、ルーチェは目を細めてその景色を眺めている。
「師匠、お手を」
落ちた木道の段差でクライグが紳士の振る舞いを見せたが、フィツはその手を無視して飛び降りた。やや軽薄なクライグに戻っている。フィツは師匠の威厳でその軽薄さを寄せつけない。
そうして歩き続けて間もなく。ルーチェは周囲の空気が明らかに変わったのを感じた。草木もやや元気がなく、中には枯れ果ててしまっているものもある。なんとなく覚えのある気配だ。
フィツが言った。
「魔域が広がっておる。原因はこれか」
レイが笑顔で言う。
「さあそろそろお次のクエストの場所だ」
四人は間もなく大岩を組み上げた巨大なほこらのような建物の前にたどり着いた。
ランクEクエスト『ブレクネス遺跡の魔神の封印強化』。
「弱った封印に魔力を注いで万全の状態に戻すだけの簡単なクエストだよ。魔法使いがたくさんいるからランクFと言っていい簡単さかもね。小さな魔域ができているのはここの封印が弱まっているせいなんだ」
この遺跡の地下には、強大な力を持った魔神が封印されている。
その封印の弱まりとともに漏れ出た力が土地を魔域に変え、先ほどのギガント・ドラゴンフライのような魔物を生み出したのだ。
封印が弱まっただけでこの有様だが、さらに言うと魔神はこのままだと約二十年後に復活する。
「復活しても国が滅びるところまではいかないけど、代償はかなり大きい。ここ半月ばかり歩いてきた土地とこれから半月ばかり歩く予定の土地、少なくともそれくらいの地域が魔域に飲み込まれる。海の向こうの大魔域と同じく人は住めなくなるし、あちらこちらに魔物が棲みつくことになる」
「えらいことじゃな。あらかじめ知らんかったらどれほどの災いになっていたことか」
「大変な災いだよ。未来で実際に見てきた私が言うんだから間違いない。書物によると何百年も前から王国の遺跡守がここの封印を守っていたらしいんだけど、それも三十年ほど前に絶えたらしい。絶えた理由はコスト削減といったところかな」
「先人の知恵が守られぬとは。嘆かわしい。この国はほんとうに残念な国じゃのう」
「まあ封印を魔力で満タンにすれば五十年は安泰さ。それまでになんとか伝統を復活させるしかないね」
レイとフィツが言い交わすところにルーチェがふと尋ねた。
「魔域っていったい何なの?」
レイが教えてくれる。
魔域というのは魔神の放つオーラや魔族の使う暗黒魔法で汚染された土地で、動植物の成長が阻害され、人間が住むには適さない土地となる。一方で魔物は力を得て増えやすくなり、たとえばゴブリンのコロニーとの掛け合わせなどは最悪の結果をもたらす。
大魔域と呼ばれる土地を長く旅したにもかかわらず、ルーチェはその何たるかをいま初めて知った。
「魔神はほかの場所にもたまにいてね。放っておくと己の領地を広げるかのように魔域を広げていく。やっかいな相手なんだよ」
ひと通りの説明を聞いたルーチェはしばし考え込み、そして言った。
「魔神って倒せないの?」
その瞳の奥にチラチラと垣間見えるのは新しい課題への期待感だ。
レイは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしたが、こちらの瞳にはやがていたずらっぽい光が宿った。
「……倒してみる?」
すかさずフィツが横槍を入れる。
「待て待て。魔神がそう簡単に倒せるわけなかろう。わしらもむかし命からがら逃げたのを忘れたか」
「ルーチェも勇者だし。試してみるだけなら簡単さ」
軽い調子で言うレイにフィツは黙った。「試してみよう」と言ったレイが、実際に試さず引くことはないと知っている。諦めてぼやいた。
「……魔神は魔法が効きにくいんじゃがのう」
「だーいじょうぶ。フィツの魔法なら抵抗されずに打ち抜けるよ。弱点さえ突けばね。むしろ切り札さ。クライグ君の魔法は効かないと思うから、味方への支援を中心にお願い」
テキパキと言いながら、レイは影の中から一振りの分厚い大剣を取り出してルーチェに渡した。それは淡く青い刀身を持った幅広の巨大な剣である。刀身の長さはルーチェの身長よりも長く、立てて持てばその後ろに完全に身を隠せるほどの幅を兼ね備えている。
「さすがに普通の武器じゃ魔神には歯が立たない。とっておきのこいつを出そう。ドラゴンでも殺せそうなサイズでしょ」
その超重量級の大剣をルーチェが軽々と持ち上げて見とれる間に、レイはさらに鈍い光を帯びたスケイルメイルや赤金のフェイスガードなど、防具も一式目の前に置き、試着を促す。
「ふうむ。いずれも大した魔法の品じゃな」
識別の魔法で品定めしたフィツが軽く唸った。
「いいね。似合ってるよ。これが今のところ私の準備できる最高の装備だ」
防具を身に着け、大剣を手に勇ましい姿となったルーチェを前にレイは目を細める。ルーチェも満足げな顔だ。
「『ブレクネス遺跡の魔神の討伐』とでもしようか。いきなりランクAクエストだ。まあ無理そうなら普通に封印を直せばよし。チャレンジして失うものはなにもないさ」
「わしはお主やルーチェが壊れてしまわないか、少し心配じゃがな。魔神はたいてい人に苦痛を与えることを好む。単純に強大な相手というだけではないぞ」
得意げに言ったレイにフィツは水を差した。止められないと諦めてはいるが、それでも言わずにはおれない。
「私はそう簡単には死なないしー。それにルーチェは何回死んでも全然平気だから」
「何回死んでも……?」
フィツは疑問の声を上げた。これは勇者との旅をよく知る彼女だからこその疑問だ。その横でクライグは疑問以前によくわかってない顔をしている。
それらを前にレイはあくまで軽く言った。
「まあまあ、とりあえず一回、一回だけやってみよ」




