第20話 炎獄のベヒモス——後半戦
「……何の匂いだ——戦場で、何の匂い——」
大地の声が呆然と揺れている。
香辛料の匂いだ。溶岩の硫黄臭を突き破って、スパイシーで甘い香りが広間に広がっていく。
折り畳み鉄板が溶岩の熱を吸って白い煙を上げている。地面が鉄板代わりになる。むしろ好都合だった。
「飯だ」
「今ですか!」
「時間くれって言った。二分だけ貸してくれ」
包丁を握った瞬間、手が止まる。指先の震えが消えていた。体の奥が削れている感覚は変わらない。けれど包丁の柄に触れると、勝手に安定する。
残材を並べた。魔物由来の高カロリー肉150グラム。魔法香辛料のブレンド。濃縮魔素調味料。
(二品。白鳥さんにINT最大。大地にVIT最大。香辛料の比率を変えれば配合は分けられる。火は——溶岩の熱。ちょうどいい)
肉を薄切りにする。包丁が食材に入る抵抗。ジュッ、と脂が鉄板に落ちる音。焼ける肉の匂いが立ち上る。〈錬金術〉の淡い金色の輝きが指先を包んだ。配合の最適化をかけながら、二品を同時に仕上げていく。
「わかりました——大地さん、時間を作ります」
「オレが持つ! 何個作るんだ!」
「二品。白鳥さんにINT最大。大地にVIT最大」
「……この状況で二品」
白鳥さんが詠唱を続けながら壁を作る。大地が正面に立つ。
ベヒモスが——また止まった。
鼻がひくひく動いている。香辛料の匂いに反応している。さっきのエプロンの困惑とは違う。明らかに食欲を刺激された顔だ。
「……なんかベヒモスも食いたそうな顔してる」
「やらない」
短い間。戦場に、笑いが走った。
エプロンの焦げる匂いが鼻に届く。限界が近い。けれど——包丁を置いた手は、震えていなかった。
「——できた。食え」
白鳥さんにINT+50%のおにぎり。大地にVIT+50%の肉塊。最後の食材で作れる、最大バフ。
「……っ、甘い。いつもと全然違う。何だこれ——」
「最後の食材で作れる最大バフだ。効くから待て」
◇◇◇
バフが全身に広がった瞬間。
ベヒモスが変わった。
全身が赤黒く変色する。角だけじゃない。皮膚の一枚一枚が溶岩のように燃え上がる。咆哮。天井から岩片が落ちた。洞窟が崩れ始めている。
フェーズ3。HP20%以下——暴走。
無差別の火炎ブレスが広間を薙いだ。天井に亀裂が走り、岩の塊が落ちてくる。耐熱エプロンの表面が焦げる匂い。熱が倍になっている。空気そのものが赤い。
——その中で、視界が変わった。
〈空間把握〉が発動する。ベヒモスの全体構造が青い輪郭線で流れ込んでくる。
そこに、〈縫錬〉の感覚が重なった。
(あのとき——リザードマンの鱗を縫い込んだとき——素材の構造が見える、と思った。モンスターの体にも、と。——やっぱり見えた)
指先に触れるような感覚。距離があるのに、ベヒモスの炎鎧の「縫い目」がわかる。
継ぎ目の位置。硬さの差。そこだけ、わずかに温度が低い。
左後脚の付け根。右肩甲骨の裏。喉元の鱗が重なる部分——三か所。
「見えた。弱点——鎧の継ぎ目が三か所ある」
「どこだ!」
「左後脚の付け根。右肩甲骨の裏。喉元——白鳥さん、喉元に撃てるか」
「……撃てます。でも普通の氷槍では——」
「〈絶対零度〉なら届く。バフが入ってる。試せ」
白鳥さんの目が変わる。迷いが消えた。
「——試します」
「作戦変更だ。聞け——大地、正面から引きつけてくれ。〈剛体・全身〉全開で」
「オレに任せろ! でも炎ブレスは——」
「俺が止める」
「……信じるぞ!!」
大地が走り出す。VIT+50%バフの乗った体が地面を蹴る。金属光沢が全身を包む。〈剛体・全身〉全開。
「白鳥さん、位置を取れ。大地が引きつけたら白鳥さんの番だ」
「——わかりました」
白鳥さんが横に動く。杖を構える。詠唱の気配が空気を冷やし始めた。
「〈剛体・全身〉——行くぞ、ベヒモス!!!」
大地がベヒモスの正面に立った。全身の金属光沢がフェーズ3の炎を弾く。ベヒモスの首が大地を向いた。口腔が赤く光る。焦げた金属臭がベヒモスの体から立ち上った。
炎ブレスが来る。
「来る——〈属性洗浄〉……!!」
両手を前に突き出した。
(洗い落とす。ただ、それだけだ。これが〈洗濯〉の到達点だ。洗い落とせないものなんて、ない)
炎の流れが俺の掌を通り——消えた。赤い炎が青白く変色して、霧散する。轟音が急に止む。炎が来るはずの場所を、涼しい空気が走り抜けていく。
「……ブレスが消えた?!」
「洗い落とした。——今だ、白鳥さん!」
両手が震えている。指先から感覚が遠のいていく。体の奥が空っぽになった。もうスキルは使えない。五つの派生スキル——料理、掃除、洗濯、裁縫、整理整頓。全部、出し切った。
◇◇◇
ベヒモスの頭部が低くなる。大地に突進しようとして、首が下がった。
喉元の継ぎ目が露出する。
「——千紗、頼む」
「……任せて」
白鳥さんの声が、静かだった。震えていない。
詠唱が始まった。空気が凍る。広間の温度が局所的に急降下して、溶岩の熱が一瞬で圧倒される。肌が粟立つ。
白鳥さんの杖先に光が集まっていく。
(初めて白鳥さんにINTのおにぎりを渡したとき。〈氷槍・三連〉の威力が跳ね上がって、青白い軌跡に金色のバフが混ざり合う。「INT直結の魔法だから恩恵が大きいのか」と思った。——今、その答えが出た。あの光が今、ここに)
バフの金色の光が白鳥さんの杖先で氷の青白さと混ざり合う。極彩色の光が矛の形に収束していく。
「〈絶——対零度〉……!!!」
放たれた。
青と金の矛が喉元の継ぎ目に突き刺さる。無音に近い衝撃。白い亀裂がベヒモスの炎鎧を走る。
——こんなに綺麗だとは、思わなかった。
「継ぎ目が——ひびが入った!」
「大地——今だ!!」
「〈剛体・反撃〉——!!!!!!」
大地の拳が亀裂に叩き込まれる。精度の高い一撃だった。覚醒じゃない。何度も殴って、何度も外して、積み上げてきた特訓の成果が、一点に集まっている。
ベヒモスの炎が一気に消えた。
巨体が傾く。
床に倒れる。溶岩が波打ち、轟音が広間を揺るがす。砂埃が視界を覆った。地鳴りが靴底を通じて全身に伝わる。
——静寂。
溶岩の熱が引いていく。ベヒモスの体から立ち上っていた炎が消え、洞窟の温度が下がり始めた。炎の残臭がない空気——ただの洞窟の匂いが、鼻に届く。
砂埃が収まるのを、三人で立って見ていた。
白鳥さんがゆっくりと膝をつく。大地が壁に寄りかかった。
俺も膝をついた。立てない。腕が震えている。エプロンの裾が焦げて、バフ料理の残り香だけがまだ漂っていた。体の中が空っぽで、でも——笑っている。
「……倒した」
「倒した——!!!!!!」
「……はい。倒しました」
間。
「——お疲れ。飯、何がいい?」
言ってから気づいた。無意識だった。
「は???」
大地の目が見開かれる。
「——っ」
白鳥さんの肩が震えた。
そして——笑った。
「は、はは——っ!!!!!」
声を出して、笑っている。肩を揺らして、目尻に涙を浮かべて。
初めて聞く笑い声だった。明るくて、少し震えていて——綺麗だった。砂埃が舞う洞窟の中で、その声だけが澄んでいる。
「え!! 千紗が笑った!! 声出して笑った!!!」
「……っ、うるさいです……!!!」
白鳥さんが顔を押さえている。耳まで赤い。でも——笑いが止まっていない。
大地が泣いていた。
「お前もう主婦だろ!!!!! エプロン姿でフライパンと包丁とモップと針持ったやつが!!!!!」
「フライパンと針は今回持ってない」
「細けえこと言うな!!!!!!」
(白鳥さんが笑っている。声を出して、笑っている。初めて聞く笑い声だった。ベヒモスを倒したことより、何倍もすごいことな気がした)
大地が泣きながら笑っている。白鳥さんが顔を隠しながら笑っている。
三人とも、うまく立てない。膝をついたまま、壁に寄りかかったまま、顔を押さえたまま。
でも、笑っている。バフ料理の残り香と、砂埃と、涙の混じった空気の中で。
◇◇◇
ベヒモスが消滅した跡に、三つの光が残っていた。
魔石。大型。それと——確定スキルオーブが三つ。
「……スキルオーブ。三つ」
「三つ?! 一個ずつか?!」
「……そうなりますね」
白鳥さんが杖を支えにして立ち上がる。大地が「自分で歩けるか」と手を差し出して、白鳥さんが「自分で歩けます」と断った。
俺はスキルオーブを三つ拾い上げた。手が少し震えている。掌の中で淡い光が明滅した。
ギルドで鑑定すれば何が出るかわかる。C級ボス討伐の実績——はじめてだ。
洞窟を歩いた。崩落は止まっている。ボスが消えて、ダンジョンが安定化したらしい。出口が見えた。光が差し込んで、目を細める。溶岩の熱ではない、ただの風が汗ばんだ顔に当たった。
大地のスマホが鳴った。
「やばい!! みんな心配してる!! 俺が速攻で——」
「また無断で投稿しないでください」
白鳥さんの声が、静かに刺さる。大地が固まった。
「投稿するためじゃないって!! 報告!!」
「……帰りましょう、悠斗さん」
「ああ」
スキルオーブを握り直す。三つ。鑑定したら何が出るかわからない。
(でもなんとなく、わかる気がした。これは俺たちの話の続きだ、って。まだ先がある。俺は——まだ、何も知らない)
「飯、何作るんだ」
「……帰ったら考える」
「ちなみに——さっきの話の続きですけど」
白鳥さんが少し前を歩いていた。背中が見える。耳がまだ赤い。
「……え?」
「……肉じゃが、好きです」
小さな声だった。
間。
「……わかった。作る」
(でも今度は、前とは少し違う——気がした)
Arc 1「影を追う者たち」もクライマックスへ。ここまでお付き合いいただきありがとうございます。
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「霊力ゼロで退魔御三家を追放された俺、物理で妖怪をぶっ飛ばしながら成り上がります」
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