第19話 炎獄のベヒモス——前半戦
(熱い。空気ごと押し返してくる——)
ゲートをくぐった瞬間、顔面を壁が殴った。
壁じゃない。熱だ。空気そのものが灼けている。
目を開けた。広間だった。天井が高い。溶岩の筋が壁を這い、赤い光が空間全体を染めている。空気が揺らぐ。呼吸のたびに喉が焼ける。
正面——いた。
ベヒモス。
岩の塊のような巨体。二本の角が天井に迫る。地面に立っているだけで、足元の岩盤がミシミシと軋んでいる。
データで見た以上にでかい。熱気で輪郭すら揺れている。
大地が一歩前に出た。
「——来い。正面はオレが持つ」
全身が金属光沢に変わる。〈剛体・全身〉。
白鳥さんが杖を構えた。詠唱の気配。静かな声が空気に溶ける。
俺はリュックからおにぎりを二つ取り出した。
「大地」
「おう!」
「白鳥さん」
「……はい」
二人に投げた。剛力おにぎり。STR+25%。
大地が片手でキャッチして、一口で放り込んだ。白鳥さんは杖を持ち替えて、静かに口に運ぶ。
「っんまい!! 出撃前のメシうま!!」
「食うな叫ぶな。来るぞ」
ベヒモスが動いた。
突進。地面が割れた。岩の破片が飛ぶ。大地が正面で受け止める。
ズドン。
衝撃波が広間を揺らした。大地の足が岩盤にめり込む。でも——止まった。
「止めた!! 止めたぞ!!」
「うるさい。止めたなら黙ってろ」
白鳥さんの声が響く。
「——〈氷槍・三連〉」
三本の氷の槍が空中に生まれ、ベヒモスの側腹に突き刺さった。
ギャアアアッ。
ベヒモスが悲鳴を上げた。氷の槍が体内で砕ける音。肉が裂ける湿った音。鉄と焦げた岩の匂いの中に、血の生臭さが混じった。
動きは読める。大地の〈剛体〉で止まる。白鳥さんの魔法が届く。俺は補給と回復に専念すればいい。
「STRじゃなくINTの上がる飯がよかったか?」
白鳥さんに声をかけた。
「今更ですか。……でも、ありがとうございます」
白鳥さんが——笑った。口元が微かに上がっただけだ。でも、確かに笑っていた。
「笑えてきました。行きます——〈氷槍・三連〉!」
二射目が角の付け根に命中した。ベヒモスがよろける。氷が砕けて、冷気が溶岩の匂いを一瞬だけ消した。
ベヒモスが体勢を立て直した。角が赤く光る。
「炎来るっ!」
大地が叫んだ瞬間、ベヒモスの角から炎が噴き出した。扇状に広がる。広間の半分が炎に呑まれる。
大地が正面に立った。〈剛体・全身〉で壁になる。炎が金属化した体を叩く。
——だが、熱は通る。
「〈属性洗浄〉——!」
俺は大地の背中に手を当てた。炎属性を「洗い落とす」。水で火を消すんじゃない。属性そのものを、布から汚れを落とすみたいに剥がす。
大地の体から赤い光が消えた。
「涼しっ。お前ほんと炎の天敵だな!」
「黙って受けてろ」
左から白鳥さんの声。
「——〈氷槍・五連〉」
五本の氷槍が左側面からベヒモスを貫いた。着弾の衝撃でベヒモスがよろけた。膝が崩れる。
効いている。膝が崩れた隙を逃さない。
「大地、鉄壁肉まん」
「今かよ!」
「今だ。VIT+20%。一口でいい」
大地の口に肉まんを押し込んだ。大地が咀嚼しながら盾役を続ける。
「……っんまい。こんな状況でなんでうまいんだ!」
「戦闘中に食レポするな」
白鳥さんが横目で見た。「……順調です。このままいけます——」
ペースが読める。このまま削れる。——そう、思っていた。
ベヒモスが突進の速度を上げた。大地が踏ん張って止める。岩盤がさらに割れた。
俺は前に出た。〈属性洗浄〉を重ねがけする。大地の装甲に蓄積した炎属性を洗い流す。
その瞬間——ベヒモスが止まった。
完全に。
耳が動いた。首が傾いた。巨大な目が俺を見ている。見ている、というより——観察している。
「……大地、止まってるぞ」
「見てる。お前のことを——なんでだ」
「……俺もわからない」
わかった。わかってしまった。
俺は今、エプロンを着ている。耐熱コーティング入りの戦闘用エプロンを。
(……炎の中でエプロン着てる生物、見たことないよな。すまない、ベヒモス)
「エプロン着てるからだろ!! 戦場でエプロンのやつ、見たことないだろそりゃ!!」
大地が叫んだ。
白鳥さんの声が震えた。笑いで。
「ボスに困惑させるの、初めて見ました」
「笑っていい? ちょっと笑っていい?」と大地。
「今だけ笑え。次来るぞ——」
◇◇◇
笑いが消えた。
ベヒモスの唸り声が変わった。低い。腹の底に響く振動。
全身の皮膚が赤く光り始めた。
角だけじゃない。体表の全てが、溶岩のように赤熱していく。
次の瞬間——。
炎の波動。
全方向。同心円状に。衝撃波のような熱が爆発した。
大地の鎧が焼けた。金属が高温で焼き穿たれる。穴が開く。
「なんだこれっ!! 熱い!! 鎧が——!」
白鳥さんが吹き飛んだ。壁に叩きつけられて、杖を落としかけた。
地面が赤くなり始める。足元の岩が軟化して、靴底がじわりと沈む。溶岩だ。地面そのものが溶岩に変わっていく。
硫黄の匂いが鼻を刺した。焦げた金属——大地の鎧だ。
「大地っ、下がれ!」
「地面が! 足元が赤い!」
「〈浄化〉——大地、火傷、どこだ!」
「肩と右腕! でも——でもなんだこれ、想定と全然違う——!」
俺は大地の肩に手を当てた。〈浄化〉を流す。火傷が引いていく。
(1.5倍——やっぱりこれか。九条さんの警告。ゲートを抜けた瞬間の「おかしい圧」。全部これだ。フェーズ2で、こいつは本性を見せた。——想定が甘かった。俺の、全部の想定が)
「……九条さんの言った通りだ。1.5倍、これが」
大地が歯を食いしばった。白鳥さんが壁から離れ、杖を拾い上げた。
まだ立っている。二人とも。
でも——空気が変わった。さっきまでの「戦える」手応えが、嘘みたいに消えていく。
◇◇◇
白鳥さんの〈氷槍〉が空中で半分溶けた。
「氷が——効いてない! 溶けてます、空中で!」
「〈属性洗浄〉、白鳥さんの周囲に!」
俺は白鳥さんの前に出た。〈属性洗浄〉で周囲の熱を洗い流す。冷えた空間が一瞬だけ生まれる。
白鳥さんの目に集中が戻った。
「——ありがとうございます。もう一度」
「大地の鎧、〈縫錬〉で押さえる。動くな!」
大地の胸当てに手を当てた。焼き穿たれた穴に〈縫錬〉を流す。金属の繊維が縫われるように再接合していく。
「でも今動かないと——ぐっ、熱いっ」
「終わった。三秒で離れろ」
大地が飛び退いた。修復した鎧が赤い光を弾く。
〈浄化〉で大地の火傷を治す。〈属性洗浄〉で白鳥さんの周りを冷やす。〈縫錬〉で鎧の穴を塞ぐ。
全部やった。全部やって——頭がじわりと重くなった。視界の端がちらつく。
指先が鈍い。体の奥が削れていく感覚。スキルを使うたびに、何かが確実に減っている。膝に力が入りにくい。
「……悠斗、大丈夫か。さっきからずっと使ってるだろ」
「……問題ない」
「嘘つくな。顔色が白い」
バフ料理の残りを確認した。
おにぎり——ゼロ。肉まん——ゼロ。スープ——空。全部使い切った。
(このペースで続けたら限界が来る。バフ料理は全部出した。次の手は——何だ。何が残っている)
ベヒモスが三度目の炎の波動を解き放つ。
熱が壁のように押し寄せる。エプロンの表面が焦げる匂いがした。
大地が膝をついた。〈剛体〉の金属光沢が薄れている。白鳥さんの詠唱の声が震えている。
「大地、立てるか」
「……立てる。まだ、立てる」
「白鳥さん」
「……あと少しです。でも——まだ、います」
二人の声が、まだ折れていない。
俺は荷物袋を開けた。
食材がある。生の素材。調味料。折り畳み鉄板。包丁。
「何してるんだ、悠斗」
「……最後の飯、作るか」
「は?」
「ここで?!」
大地と白鳥さんの声が重なる。
「ここで。——少しだけ時間くれ」
袋を開けた瞬間——スパイシーで少し金属的な匂いが、溶岩の臭気の中に混じった。
ベヒモスが動きを止めた。
また首を傾げている。鉄板を広げる金属音。包丁の刃が食材に触れる音。エプロンの男が、戦場で料理を始めようとしている。
「あいつ、お前にビビってないか? エプロンに」
「それより時間くれ」
折り畳み鉄板を広げる。包丁を取り出す。
(バフ料理は全部出した。ポーションも尽きかけた。体も——限界を告げている。でも、食材はある。即興バフ料理。事前準備なし。こんな状況で作れるかどうかわからない。——でも、やるしかない。準備は終わった。あとは——料理するだけだ)
クライマックスまでお付き合いいただきありがとうございます。
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