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第18話 炎獄のベヒモス――準備編

 朝の台所に立って、包丁を握った。


 昨夜のことが、まだ頭にある。


 S級冒険者の金色バッジ。削除されたコメント。『あいつの研究が正しかったとすると——』。スマホの暗い画面に映った自分の顔。


 (……あの言葉、どういう意味だったんだ)


 まな板の上にキャベツを置く。包丁を握り直す。指先が少しだけ冷たい。


 考えた。考えて、考えて——。


 駄目だ。今は答えが出なかった。


 S級冒険者が誰なのかもわからない。「あいつの研究」の中身も、見当がつかない。そんなことを並べていても、手が動かなかった。


 よし。


 包丁が動き始めた瞬間、頭の中が切り替わる。いつもそうだ。料理モードに入ると、余計なことが消える。


 今できることをやろう。ベヒモスに挑むための準備を。


 インターフォンが鳴った。


「悠斗! ベヒモス準備するぞ!! 昨日から腹決まってたわ!!」


 声の壁が玄関から突き抜けてきた。大地だ。


「うるさい。朝から声量バグってんだよ」


「バグってねえ! これが平常運転!!」


 ドアの向こうに、もう一人の気配。


「おはようございます。……耐熱素材、ギルドショップの在庫で買えるものは全部持ってきました」


 白鳥さんが手提げ袋を2つ抱えて立っている。重そうだ。


「ありがとう。……その袋、重くない?」


「平気です。重さは気になりません」


 白鳥さんが袋をテーブルに置いた。中から耐熱布、火蜥蜴の鱗、回復ポーション原料の野草が出てくる。


「エプロン素材も入ってますが、用途は伺いますか」


「後で教える」


「……水瀬さんが言うと不安しかないです」


 (わかる。俺も自分で不安だ)


 テーブルの上に材料を並べた。


「まず火炎耐性スープを仕込む。ベヒモスの炎は継続ダメージ型だと思う。火傷の蓄積が怖いから、耐性バフで体への定着率を下げる」


「何人分作るんだ?」


「10人分」


「オレたち3人だぞ?」


「余ったら俺が飲む。作り置きして無駄にするよりいい」


 大地が腕を組んだ。「……お前って絶対に食材を無駄にしないよな」


「無駄にしたら負けだから」


 鍋に水を張る。耐熱リザードの鱗を砕いて、出汁を取った。回復ポーション原料の野草を刻んで加える。火にかけると、鱗の成分が溶け出して、スープが淡い琥珀色に変わっていく。


 白鳥さんが鍋を覗き込んだ。


「……火炎耐性スープ。回復ポーションより優先される理由は何ですか」


「ベヒモスの炎は広範囲に来る。回復ポーションは受けた後の処理で、耐性バフは受ける前の予防。予防が先」


「……なるほど。理にかなっています」


 スープを仕込みながら、剛力おにぎりを6個、鉄壁肉まんを4個並行して作った。手が勝手に動く。塩加減も、具材の配合も、体が覚えている。


 (さて——次だ)


 耐熱布を広げた。〈縫錬〉を起動する。


 指先に繊維の構造が流れ込んできた。糸の密度、素材の強度、どこに力がかかるか。全部が見える。


 だが、見えるだけだ。新しいものを一から作るには、まだ解像度が足りない。


 針を刺した。耐熱布と火蜥蜴の鱗を重ねて、縫い込んでいく。エプロンの形に。


 ——感覚が変わった。


 (……あれ)


 繊維の見え方が、一段細かくなる。さっきまで「素材の構造」だったものが、「どう組み合わせれば何が作れるか」に変わった。


 (〈縫錬〉のレベルが——上がった?)


 手を止めた。


「どうした?」


 大地が顔を上げた。


「〈縫錬〉、レベル上がった」


「は? 今?」


「……縫いながら上がった。小物なら、素材から作れるようになった気がする」


 白鳥さんが手を止めた。


「……戦闘中でなく、制作中に成長する人を初めて見ました」


「褒めてる?」


「……統計的には、そう見えます」


 手を動かし続けた。耐熱エプロンの最後の縫い目を閉じる。


 出来上がったエプロンを広げた。完璧だ。耐熱コーティング入りで、防御力もある。


 白鳥さんが3秒眺めた。


「……それ、エプロンに見えますが」


「エプロンだよ。戦闘用の」


 大地が立ち上がった。声が大きくなる予感がした。


「もう完全にお母さんだろ!! ダンジョンに行くのに作るものがエプロン!!」


「うるさい。耐熱コーティング入りで防御力もある。これが一番合理的なんだよ」


「合理的がお母さん方向に向かいすぎだよ!!」


 白鳥さんが静かに言った。「……水瀬さんの戦力は、エプロンの縫い目で決まるんですね」


「それ、褒めてるのか呆れてるのか」


「……両方です」


 次は大地の胸当てだ。耐熱鱗を裏地に縫い込む。白鳥さんの軽鎧にも耐熱コーティングの布を内側に縫い付ける。


 大地の胸当てを縫い終えたとき——また、感覚が変わった。


 (……Lv.3)


 今度は違う。繊維の組成だけじゃない。素材の全体像が先に「見える」。どんな素材でも、何を作るかを決めれば、完成形から逆算して設計できる。


「悠斗、どうした? また顔が固まってるぞ」


「……〈縫錬〉、また上がった」


「え、2回目!?」


「Lv.3になった。……これで、ちゃんとした装備を新規で作れる」


 白鳥さんが「おめでとうございます」と言った。短く、でも少し柔らかい声で。


「ありがとう」


 大地が「すげえな……お前、ダンジョン行かずに成長してるじゃないか」と呟いた。


「準備も、ダンジョンのうちだよ」


 午後。特訓に切り替えた。


「白鳥さん、その局所冷却——もう少し細く絞れる?」


 白鳥さんが額に手を当てた。集中しているときの仕草だ。


「……試みます」


 部屋の隅にある植木鉢に向かって、白い霧がゆっくり凝縮していく。鉢の表面が薄く白くなった。


「……どうですか」


「いい。ベヒモスの炎鎧の継ぎ目を集中冷却できたら、大地が割れる」


「……割れるんですか、鎧が」


「〈縫錬〉で見た感じ、急激な温度差には弱い構造だった。熱と冷で一気に脆くなる」


 白鳥さんがしばらく黙った。


「……この技、お風呂に入りながら考えました」


「お風呂で?」大地が振り向いた。


「……ベヒモスの炎を冷やすには、どのくらいの温度差が必要かと」


「お風呂でベヒモスのこと考えてたの!?」


「……集中できる場所なので」


 俺は「そっか」とだけ言った。それ以上突っ込む気にならなかった。


 次は大地の番だ。


「〈剛体・反撃〉、感覚掴めそうか?」


「おう! 壁補強したから大丈夫だ!」


「補強って何した」


「段ボール重ねた!」


「段ボールは補強じゃない!!」


 大地が壁に向かって走り込んだ。〈剛体〉で硬化した肩が壁に激突する。


 ドゴン。


 ひびが入った。3cm貫通している。


「……大地。段ボール、意味なかったな」


「なんか分厚くなってたから!!」


 白鳥さんが横で言った。「……猪狩さんは、壁を補強と認識するのが早いですね」


「褒めてくれてる?」


「統計的には、そうとは言い切れません」


「なにそれ!!」


 (あとで壁直さないと。敷金が死ぬ)


「じゃあ、火炎耐性スープ飲んで。効果を体感してほしい」


 大地がスープをゴクゴク飲んだ。


「……あれ。なんか、暑くない。じんわりするな……なんだこれ、いい感じだぞ」


 白鳥さんも一口飲んだ。


「……確かに、体の芯が落ち着く感覚です」


 (耐性バフは体感に出る。これは効いてる)


 夕方、インターフォンが鳴った。


「——九条さん?」


「業務上の情報提供です。入ってもよろしいですか」


 まっすぐな声だ。いつもと変わらない。でも——タブレットを抱えている量が、いつもより多い。


 テーブルにタブレットを置いた九条さんが、画面を3人に見せた。


「ベヒモスの過去討伐記録です。2件。いずれもC級冒険者6名構成。最短討伐時間は2時間17分。最多負傷者数は4名、うち重傷2名」


 沈黙が落ちた。


「……俺ら、3人でそれやろうとしてんの?」


 大地の声が、珍しく静かだ。


「そうです。3人での挑戦は、データ上、推奨できません」


 白鳥さんがデータを見た。表情は変わらない。でも、指先が杖をきゅっと握った。


「……確認しました」


 俺は画面のデータを見た。6人で2時間以上。負傷者4名。


「行く」


 九条さんの視線が動いた。


「……理由を聞いてもいいですか」


「準備したから。5つのスキルを全部使う。〈空間把握〉でダンジョン構造も大体見えてる。勝てる根拠はある」


「〈空間把握〉で、内部構造を把握しているということですか」


「熱量で見づらいところもあるけど、大体は」


 九条さんがメガネを直した。興味深いデータを見たときの仕草だ。


「……このデータと照合してもらえますか」


 タブレットに旧討伐記録から再構成した図面が表示された。確認した。


「……この通路の広さ、少し違う。ここ、隠し部屋があるかもしれない」


 九条さんがタブレットにメモを打ち込んだ。手が速い。


「……わかりました。追加データを共有します」


「ありがとうございます」


「——業務の延長線上ですので」


 少しだけ間があった。


「……九条さん。それ、心配してくれてるってことじゃないですか?」


 大地が言った。


 九条さんはメガネの奥で視線を逸らした。


「……データとして興味深いので」


◇◇◇


 翌朝。ギルド前に3人が集まった。


 リュックが重い。バフ料理6人分。回復ポーション。縫製道具。モップ。全部入っている。


「悠斗」


 大地が言った。


「おにぎり、何個入ってる?」


「剛力が6個、鉄壁が4個。汁物は別に4本」


「完璧だ! よし!!」


「うるさい、まだゲートの前だ」


 白鳥さんが「……猪狩さん、ギルドの前で叫ぶのは控えていただいた方が」と言いかけた。


「もう叫んでる!!」


 小さく笑った。いつもの朝だ。


 ゲートが見えてきた。赤く歪んだ光の向こうに、鉄が焼ける匂いが漂っている。前回よりも——熱い。


「白鳥さん」


「……はい」


「局所冷却、使えそうか」


「——問題ありません」


 それだけ言って、杖を握った。目が据わっている。


 スマホが震えた。


 開いた。九条さんからのメッセージ。


『ベヒモスの熱量データが通常値の1.5倍に上昇しています。モニタリング中に計測値が跳ね上がりました。何かが変化しています。撤退を推奨します』


 (1.5倍——やっぱりか。あの熱量はおかしいと思った)


 大地が横から画面を覗き込んだ。


「……1.5倍か」


 声が静かだ。珍しい。


「……ビビってないってことは?」


 大地がゆっくり笑った。


「ビビってるけど——行きたい」


 白鳥さんが杖を握り直した。


「……わたしも、です」


 俺はリュックの紐を握り直した。重い。バフ料理も、道具も、仲間の装備も、全部入っている。


「じゃあ、行こう」


 一歩踏み出した。


「準備はした。あとは——料理するだけだ」


 3人で、ゲートをくぐった。

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