第11話「オーク肉の正しい焼き方」
D級バッジの角が、胸ポケットの中で指に当たる。
四角い形にはまだ慣れない。丸いE級バッジの手触りが、指先に残っている。
ギルド前の集合場所。朝の空気が冷たい。リュックの紐を締め直す。中身は昨日の夜に3回確認した。バフ料理10個。爆弾おにぎり6個。回復ポーション4本。包丁。モップ。折り畳み鉄板。調味料一式。裁縫道具。
(鉄板と調味料が入ってるのは、今日の昼飯のためだ。計画的犯行ともいう)
大地がギルドの角を曲がって走ってきた。朝から声がでかい。
「悠斗ーーー!! D級の仕事、初だな!!」
「おはよう。声のボリューム落とせ」
「テンション上がるだろ! 新しいダンジョンだぞ!」
革鎧の肩当て留め具は、まだ溶けたままだ。沈泥の洞窟で酸にやられた跡。〈属性洗浄〉で腐食の進行は止めたものの、金具そのものは修復していない。
——あとで縫い直すか。
「大地、今日のダンジョンはD級上位だから油断するな」
「わかってるって! つか、お前のリュック重くないか? いつもよりパンパンだぞ」
「今日は長丁場になるかもしれないから、多めに詰めた」
「あー、弁当入ってんだろ。わかるわかる」
(弁当というか、鉄板だけど)
白鳥さんがギルドの正面入口から出てきた。白い軽鎧。銀髪が朝の光を受けて揺れている。氷結の杖を背中に背負っている。
「おはようございます」
声が静かだ。表情は硬い——ように見えるが、口元が少しだけ柔らかい。
昇級試験から数日。あの焦げたおにぎりの味は、まだ口の中に残っている気がする。
「白鳥さん、おはよう」
「今日はよろしくお願いします」
大地が白鳥さんの装備をじろじろ見た。
「千紗、新しいポーション持ってきたか?」
「はい。MP回復団子を3個、水瀬さんに作っていただきました」
「オレのは?」
「猪狩さんにはSTR+20%のおにぎりが4個あります」
大地が拳を握った。
「最高かよ」
「そういう反応、もう飽きたんだが」
白鳥さんが大地の鎧をちらりと見た。
「猪狩さん、肩当ての留め具——まだ壊れたままですか」
「ん? ああ。溶けたやつな。まあ動けるからいいかなって」
「よくないだろ。あとで縫い直す」
「マジ? ありがてぇ」
白鳥さんが小さく頷いた。こういう会話が、最近は自然に出る。
3人でギルドの掲示板を確認した。D級ダンジョン「翡翠の洞窟」。推奨パーティー3〜5人。出現モンスター——オーク、オークウォーリア。
「オーク、か」
大地の声のトーンが変わった。低くなる。
「ステーキ食えるな」
「そういう目的じゃない」
「いや、オーク肉ってD級素材の中でも上物なんだよ。精肉店的に」
「精肉店的にって何だよ」
白鳥さんが看板の文字を読んでいた。
「……D級上位推奨。慎重にいきましょう」
「はい」
「了解!」
リュックの底で鉄板がカチャリと鳴った。
◇◇◇
翡翠の洞窟。ゲートをくぐる。
空気が変わった。ひんやりと湿った風。壁面の鍾乳石が薄い緑色を帯びていて、名前の由来がわかる。足元の石畳は古い。苔が隙間から顔を出している。天井が高い。声が反響する。
1階層。通路の奥から重い足音が響いた。
オークが2体。体長は1.7メートルほど。筋肉の塊だ。E級のゴブリンとは格が違う。腕の太さが大地の太ももくらいある。
「行くぞ」
大地が盾を構えた。〈剛体〉。皮膚が鈍い光を帯びて硬化する。
1体目のオークが棍棒を振り下ろした。大地の盾に激突する。衝撃音が洞窟に反響した。大地の足が半歩下がる。
「——重い。ゴブリンとは格が違うな」
声に余裕がある。半歩で止まれている。
大地がオークの棍棒を受けている間に、白鳥さんが横に回った。杖の先端に冷気が集まる。
「〈氷槍〉」
氷の槍がオークの脇腹に突き刺さった。悲鳴を上げてよろめく。
ポーチからSTR+20%のおにぎりを取り出して大地に投げた。
「大地、追撃!」
「おう!」
大地が左手でおにぎりをキャッチして、頬張った。——1秒。2秒。身体に力が巡る。
盾を振りかぶる。〈剛体〉で硬化した盾の表面がオークの腹に叩き込まれた。
衝撃。オークが吹き飛んで壁にぶつかった。魔石に変わる。
2体目が突進してくる。白鳥さんの〈氷槍〉がもう1本飛んで、膝を射抜いた。動きが止まった瞬間に大地の盾撃。魔石が転がった。
3人とも無傷。
「連携、速くなったな」
大地が肩を回した。
(声を掛け合わなくても動けた。大地がどこに立つか、白鳥さんがどのタイミングで撃つか。今は見ていればわかる)
2階層に進む。通路が狭くなった。壁の鍾乳石が増えて、足元に水たまりができている。
小型のオークを2体片付けた後、大地の革鎧に目が留まった。肩当ての縫い目がほつれている。戦闘の振動で糸が緩んだらしい。
リュックから裁縫道具を取り出した。
「また始めた」
大地が苦笑する。
「ほっとくと次の戦闘で肩当てが飛ぶ。30秒で終わる」
針と糸を通す。革の縫い目を補強する。太い糸で三重に縫い留めた。指先の感覚が——少し変わった。糸と革の間を通る針の手応えが、前より滑らかだ。
(裁縫の★。確実に育っている。まだ★★のはずだけど、感覚が鋭くなってきた)
「……手際がいいですね」
白鳥さんが隣で観察していた。静かな声。
「前にも縫ってましたよね。ダンジョンの中で」
「うん。装備が傷んだまま進むのは怖いから」
白鳥さんが少し間を置いて、頷いた。
「……合理的だと思います」
大地が腕を回した。肩当てがしっかり固定されている。
「お、いい感じだ。ありがとな」
「礼はいいから、次の階層に集中しろ」
◇◇◇
3階層。ボスエリア。
天井が一気に高くなった。松明の代わりに壁面の鍾乳石が淡い緑色の光を放っている。広い空間。石畳の中央に——
オークが3体。
1体目は体長2メートルを超えている。太い腕に棍棒を持ち、筋肉が鎧のように盛り上がっている。
2体目はひとまわり小さいが、右手に錆びた剣を握っていた。オークウォーリア。武器持ちだ。
3体目は1体目と同じサイズ。棍棒を肩に担いでこちらを睨んでいる。
「3体同時か」
大地が盾を正面に構えた。
「オレが1体目を引きつける。2体目は千紗、頼んだ!」
「了解」
「悠斗!」
「わかった」
ポーチからSTR+25%のおにぎりを取り出した。新しいレシピだ。昨日の夜に試作を重ねて配合を調整した。ダンジョン産の根菜を細かく刻んで混ぜ込んである。
大地に投げた。
「食え!」
大地が走りながら口に放り込んだ。——目が見開かれる。
「何これ!? いつもより全然違う!」
身体から力が溢れている。いつものSTR+20%より明らかに強い。腕の筋肉が膨らんでいる。
1体目のオークが棍棒を振り下ろした。大地の盾がそれを受ける。足が——動かない。半歩すら下がらなかった。
「……おう。これ、いいぞ」
大地が笑った。盾を押し返す。オークがよろめいた。
2体目のオークウォーリアが剣を振りかぶって白鳥さんに向かった。距離が近い。〈氷槍〉を構えるには時間が足りない。
白鳥さんが一歩退いた。杖を地面に向けて振り下ろす。足元の石畳に氷が広がった。白い霜が波紋のように走る。
「——〈氷結領域〉」
声が少し緊張していた。初めて使う技だ。訓練では何度も練習したのだろう。杖を構える角度が、いつもの〈氷槍〉とは違う。
氷がオークウォーリアの足を包む。靴底が石畳に凍りついた。動きが止まる。剣を振り下ろそうとして——足が動かない。バランスを崩した。腕が空を切る。
その隙を、白鳥さんは逃さなかった。
杖を水平に構え直す。冷気が一点に集中する。
「〈氷槍〉」
胸を貫いた。魔石に変わる。
「白鳥さん、いけたか?」
「……はい」
短い返事。息が少し上がっている。〈氷結領域〉のMP消費は重い。
3体目が大地に突進した。棍棒が横薙ぎに振られる。大地が盾で受ける——が、1体目との同時攻撃だ。2本の棍棒が同時に盾を叩く。衝撃が二重に走った。盾の裏側で大地の腕が震えた。
「くっ——!」
大地の膝が落ちかけた。額に汗が浮いている。唇を噛んで踏ん張っている。〈剛体〉で硬化した腕が、わずかに変色している。限界が近い。
回復ポーションをポーチから取り出して投げた。
「大地!」
「助かった!」
走りながら口をつけた。色が違うポーション。琥珀色。俺の自作だ。A級市販品と同等品質。九条さんの分析結果が頭をよぎる。
大地の表情が楽になる。腕の震えが止まった。膝に力が戻る。
立て直す。盾を前に構え直す。
白鳥さんが位置を変えた。1体目の側面に回り込む。杖の先端に冷気が渦巻いている。
「〈氷槍〉」
2本、続けざまに放った。1体目のオークの肩と脚に突き刺さる。悲鳴が洞窟に反響した。動きが鈍る。
「大地、今だ!」
「おう!!」
盾撃。STR+25%の全力打撃。大地の全体重が盾の面に乗った。1体目のオークが吹き飛び、壁に激突して魔石に変わった。
残り1体。3体目が棍棒を振り上げる。
爆弾おにぎりを足元に叩きつけた。爆発の衝撃でオークがよろめく。足元の石畳が砕けて破片が舞った。煙の中から白鳥さんの〈氷槍〉が飛んで、棍棒を弾き飛ばした。棍棒が石畳の上を転がって壁にぶつかる。
素手になったオークに大地が突っ込む。盾で押し込んで壁に叩きつけた。〈剛体〉の硬化面が頭蓋に入った。
魔石が3つ、石畳の上に転がっている。
3人とも、息を切らしていた。
「……やれた」
大地が盾を地面に降ろした。額の汗を腕で拭う。
「白鳥さん、大丈夫か」
「……大丈夫です。MPが少し——」
「MP回復団子、食べて」
渡した。白鳥さんが小さく頷いて口に含んだ。
石畳に腰を下ろす。天井の緑色の光がゆらゆらと揺れていた。
3体同時。D級上位の洗礼だった。
(——このパーティーなら、何とかなる)
一息ついて、水を飲んで、立ち上がった。
3体のオークの亡骸が石畳に転がっている。魔石は回収済みだ。残ったのは巨大な体躯の残骸——筋肉と骨。
大地がゆっくりと1体目の残骸に近づいた。
膝をついた。
右手の指でオークの腕の肉を押した。指の腹で弾力を確かめるように、ゆっくり、丁寧に。
(——出た)
大地の目が変わっている。さっきまでのテンションとは別人だ。真剣で、集中していて、少しだけ嬉しそうな顔。実家の精肉店で肉を見るときの目だ。
「霜降りだ」
低い声。
「おい悠斗、この筋繊維の入り方見ろよ」
「戦闘直後にそれ言うの怖いから」
「精肉店グレードでいったらSだ。S!」
「わかったから離れて」
「いや待って、赤身のキメも細かい。D級のオークはやっぱり違う。E級のゴブリンなんかスジだらけで話にならなかったけど、こいつは——」
「本当にそういう話やめて」
白鳥さんが2体目の残骸を見ていた。戦闘では的確に槍を当てていた人が、今は肉を凝視している大地を静かに観察している。
「……猪狩さんは、肉に詳しいんですね」
「実家が精肉店なんだ。ガキの頃から肉触ってるから、品質は指で触ればわかる」
大地が指を離した。立ち上がる。こっちを見た。
「悠斗、こいつの肉——食材として使えるか?」
(初めて会ったとき、大地がゴブリンの腕の肉を指で押して品評していた。あのときは「品評してどうすんだよ」とツッコんだ。まさか、本当に役に立つ日が来るとは)
「オーク肉か。解体の仕方がわかれば——」
「任せろ。教える。ロースとモモの境目、ここに包丁入れて。筋膜に沿って切ればいい」
大地の声が落ち着いている。指示が正確だ。戦闘のときより手つきが丁寧かもしれない。
包丁を取り出した。大地の指示に従って刃を入れる。筋膜に沿って、赤身とスジを分ける。
「そうそう、そこ。その角度。——うまいな、包丁使いが」
「毎日料理してるからな」
「ロースの端、脂身をちょっと残せ。焼くとき香りが変わる」
大地が精肉のプロの顔をしていた。こいつの本領はここなのかもしれない。
白鳥さんが横に立った。
「……手伝います」
「白鳥さんは——包丁は危ないから、荷物持ってて」
「わかりました」
不服そうに見えたが、解体した肉を受け取って丁寧にリュックの上に並べてくれた。
大地がモモ肉を持ち上げた。
「こっちは赤身が多いから、薄切りにして焼くのがいい。ロースは厚切りでステーキにしろ」
「……お前さ、もうメニューまで決めてるだろ」
「当然」
解体が終わった。ロース肉を厚切りに、モモ肉を薄切りに。大地の指示が的確すぎて、解体が想定より早く終わった。
リュックの底から折り畳み鉄板を取り出した。
「……持ってきてたのか」
「今日の昼飯の予定は聞いてたから」
「聞いてねえよ。オレが『ステーキ食えるな』って言っただけだろ」
「それを聞いた」
大地が2秒黙って、それから笑った。
「お前、マジで何でも屋だな」
石畳の上に鉄板を置いた。平らな場所を選ぶ。火打ち石で火を起こす。ダンジョン内の空気は乾燥しているから火がつきやすい。
鉄板が熱を帯び始める。じわじわと温度が上がっていくのが、手をかざすだけでわかる。
調味料を取り出した。塩。粗挽き胡椒。にんにくパウダー。
白鳥さんが鉄板の横に座った。大地は石の柱にもたれかかって、腕を組んで待っている。精肉のプロとしての仕事は終わった。ここから先は俺の領分だ。
ロース肉の表面に塩を振る。指先で均一に広げた。次に胡椒。にんにくパウダーは片面だけ、薄く。
鉄板に載せた。
じゅう、と音がした。
脂が鉄板に落ちて弾ける。煙が立ち上る。肉の焼ける香りが洞窟の空気に広がった。甘い脂の匂い。にんにくの香ばしさ。鍾乳石の緑色の光の中で、煙がゆっくりと天井に昇っていく。
「——やべえ」
大地の声が震えた。
「匂いだけでわかる。絶対うまい」
「なんで俺たちダンジョンで料理してるんだろうな」
——知らないよ。
(いや、わかってる。俺が鉄板持ってきたからだ)
白鳥さんが黙って鉄板を見つめていた。炎の明かりが銀髪に反射している。視線が肉から離れない。
「白鳥さん、そんなに見つめると焦げるぞ」
「……わたしが見つめても焦げません」
「理屈は合ってるけど、プレッシャーがすごい」
肉の表面に焼き色がついた。焼き具合を包丁の背で触って確かめる。弾力がちょうどいい。赤身が少しだけ桜色を残している。ミディアムレア。
塩を追い振りして、鉄板から下ろした。
包丁で切り分けた。断面がきれいだ。赤とピンクのグラデーション。肉汁が滲んで、鉄板の上で小さく跳ねた。
モモ肉の薄切りも焼く。こちらはウェルダン。火をしっかり通して、端がカリッとするまで。塩だけで仕上げた。
「はい。食っていいぞ」
3人で石畳に座った。
大地が一切れ口に入れた。
——止まった。
咀嚼が止まる。目が見開かれる。顔が歪む。泣くのか笑うのか判別がつかない表情だ。
「……うまい」
小さい声だった。大地にしては。
「普通に感想言えよ」
「いや待って。本当にうまい。なんでダンジョンで食えんだよこれ」
目尻に光っているものがある。
「……泣いてないからな」
「わかってる」
「泣いてないからな!!」
「2回言うな」
白鳥さんが黙々と食べていた。
ロース肉の一切れを口に入れた瞬間——咀嚼が、ゆっくりになった。目を伏せている。
頬が——緩んでいる。口元が柔らかい。隠そうとしているのに隠せていない。アイスブルーの瞳が伏せられて、睫毛の影が頬に落ちている。
薄切りのモモ肉にも手を伸ばした。一切れ食べて、また一切れ。
箸が止まった。
「……美味しいです」
「ありがとう」
少し間があった。白鳥さんが膝の上の手を見つめていた。
「……また、食べたいです」
声がとても小さかった。聞き逃すところだった。
白鳥さんの言葉が、胸の奥に落ちた。あの焦げたおにぎりの味を思い出す。黒焦げで、塩辛くて、形が崩れていた。次は料理を教える約束をした。白鳥さんが自分から「食べたい」と言ったのは——前より、自然だ。
「また来るか」
「はい」
「オレも来る。次は塩だけじゃなくてタレも試してくれ」
「注文多いな」
「タレなら醤油とみりんと砂糖で作れるぞ。精肉店のタレのレシピ教えてやる」
「……それは普通にありがたい」
片付けをした。鉄板を拭いて畳む。残った肉は塩を振って保存用にリュックに詰めた。魔石もポーチに入れ直す。
(ダンジョンの中で肉を焼いて食べている。冷静に考えると異常だ。でも、3人ともそれが普通になっている。誰も驚いていない。大地が品定めして、俺が焼いて、白鳥さんが手伝う。——普通じゃないのに、普通だ)
◇◇◇
帰還ルートを歩く。
3階層から2階層に戻り、1階層の出口に向かう。足取りが軽い。腹が満たされて、身体の疲れが薄れている。
大地が上機嫌で鼻歌を歌っている。音程が外れている。白鳥さんが半歩後ろを歩いていた。
ゲートが見えてきた。洞窟の出口の向こうに、午後の日差しが白く光っている。
外に出た。眩しい。ゲートの半透明のポータルが背中で閉じていく。
帰り道。ギルドに向かう通りを歩く。街路樹の影が夕方の光に長く伸びていた。
大地がオーク肉の感想をまだ語り続けている。「あのロースの脂の乗り方は異常だった」「霜降りのキメがS級だった」。精肉店の息子のスイッチがまだ切れていない。
大通りの先に、別のゲートが見えた。
——C級ダンジョン「古代遺跡」。
ゲートが揺れていた。
半透明のポータルの輪郭が——ぶれている。光の端がちらちらと不安定に明滅していた。通常のゲートはもっと穏やかに光る。ゲートの周囲に張られた黄色いテープが風に揺れている。
ギルドの拡声器からアナウンスが流れた。
『C級ダンジョン〈古代遺跡〉の決壊リスクが上昇しています。C級以上の攻略チームを募集中。繰り返します——』
決壊。ダンジョンが攻略されずに放置されると、ゲートが暴走してモンスターが現実世界に溢れ出す。過去に死者が出たことのある、最悪の事態。
「C級以上への呼びかけだな。D級の俺たちはまだ声がかかってない」
大地が肩をすくめた。
「……そうだな」
白鳥さんが足を止めていた。
古代遺跡のゲートをじっと見ている。銀髪が午後の風に揺れた。アイスブルーの瞳に、不安定に明滅するゲートの光が映っている。
表情が——変わった。一瞬だけ。口元が引き締まる。目が鋭くなる。戦闘中の白鳥さんの顔だ。
「……千紗?」
声をかけた。下の名前で呼ぶのは——自分でも不自然かもしれない。呼称が定まっていない。
白鳥さんが一拍おいてからこちらを向いた。
「なんでもないです」
歩き出した。いつもの足取りに戻る。
——なんでもない、はずがない。
白鳥さんはC級冒険者だ。C級ダンジョンの決壊リスクは、D級の俺たちより彼女に近い。白鳥さんがアナウンスの何かを感じ取ったのは、あの一瞬の表情を見ればわかる。
ただ——何を考えたのかは、わからなかった。
白鳥さんの横顔を見た。銀髪の向こうに、アイスブルーの瞳が前を向いている。
聞けなかった。聞いていいのかも、わからなかった。
3人で並んでギルドに向かう。大地の鼻歌が再開した。白鳥さんの足音がアスファルトを叩いている。俺のリュックの中で鉄板がカチャリと鳴った。
今日はオーク肉のステーキを3人で食べた。
大地が泣いた。白鳥さんが「また食べたい」と口にした。
それだけで——十分だ。
ただ、あのゲートの揺れが、目の裏に残っている。不安定な光。白鳥さんの一瞬の表情。
C級への呼びかけだ。D級の俺たちにはまだ声がかかっていない。
——はずだった。




