第10話「俺のやり方で」
少しだけ眠れなかった。
天井の染みを数えたのは2回目だ。3回目の途中で諦めて起きた。カーテンの隙間から白い光が差し込んでいる。朝。
台所に立つ。水を沸かして、ご飯を炊く。弁当の仕込みと同じ手順——じゃない。今日は弁当じゃない。
リュックの中身を確認する。バフ料理8個。爆弾おにぎり6個。回復ポーション4本。包丁。モップ。
全部揃っている。昨日の夜に2回確認した。今朝で3回目。
(落ち着け)
ポケットから受験票を取り出した。皺になっている。昨日握りしめすぎた。端がくしゃっと折れている。
E→D昇級試験。標準ルート。E級ダンジョン3か所をソロでクリア。
エプロンを腰に巻いた。防水エプロン。ダンジョン用に買った唯一の装備らしい装備だ。
鏡に映った自分を見る。リュックを背負い、モップを差し、腰にエプロン。
(冒険者には見えないな)
でも、これが俺のスタイルだ。
昨日の言葉がまだ胸の奥に刺さっている。「ハズレスキルのくせに調子乗んなよ」。あのC級の声。顎が角張った男の顔。
言い返せなかった自分が情けない。でも今日、それは関係ない。
玄関で靴を履く。受験票をポケットに戻した。
俺のやり方で行く。
◇◇◇
昇級試験事務所。ギルドの別棟、午前8時。
窓口に受験票を出した。皺の入った紙を試験官が受け取る。40代くらいの眼鏡の男。クリップボードにタブレットを挟んでいる。
「水瀬悠斗さん。E→D昇級試験、標準ルート。ソロ受験ですね」
「はい」
「スキル欄を確認します」
タブレットを操作する指が止まった。
「〈家事全般〉……〈錬金術〉〈浄化〉〈属性洗浄〉。確認しました」
一瞬だけ試験官の眉が動いた。
「変わった構成ですね」
(……よく言われます、とは言わないでおこう)
「試験内容を説明します。E級ダンジョン3か所をソロでクリアしてください。制限時間は1週間ですが、3か所であれば1日で回ることも可能です。各ダンジョンのクリア後に試験官が証明書類に署名します」
「わかりました」
「ソロ受験は例年20パーセントほどです。自信はおありですか」
少し考えた。自信。あるのか、と聞かれると——正直なところ、わからない。
「……ある、とは言い切れないですけど。やってみます」
試験官が小さく頷いた。タブレットに何か記録している。
事務所を出た。空が高い。朝の空気が冷たくて、肺の奥まで入ってくる。
リュックの紐を締め直す。1か所目は水晶洞。1か月、毎日通い続けたホームダンジョンだ。
◇◇◇
水晶洞の入口に立った。
見慣れたゲートの光。半透明のポータルが薄い青色に揺れている。
試験官が3メートルほど離れた位置についている。タブレットを構えたまま、こちらを見ている。観察型の試験官だ。邪魔はしない。ただ見て、記録する。
ゲートをくぐった。
1階層。薄暗い洞窟。天井から水が滴る音が反響している。水晶の壁面がゲートの光を反射して、青い粒が揺れていた。苔の匂いと、岩のひんやりした空気が鼻を抜ける。
スライムが2匹。通路の奥で青い体がぷるぷると揺れていた。
爆弾おにぎりをひとつ取り出す。手首のスナップだけで投げた。
着弾。爆発。スライムが飛び散る。2匹同時に消えて、魔石が転がった。
(1か月前は、こいつらに苦労したんだけどな)
あのときは包丁でスライムの表皮を裂くだけで精一杯だった。腕が疲れて、帰り道はリュックの重さが倍に感じた。今は爆弾おにぎり1個で済む。試験官のタブレットに記録される音が、背後でカタカタと鳴っていた。
2階層。ポイズンモスが天井に3匹張り付いていた。紫色の鱗粉が薄く舞っている。
モップを構える。〈浄化〉。青白い光がモップの先端から広がって、鱗粉を消し去った。空気が澄む。視界が一気に開ける。
丸裸になったポイズンモスに包丁を投げた。1匹目の翅に刺さって落ちてくる。2匹目はモップの柄で払い落とす。3匹目が逃げようとした背に、回収した包丁を投げ直して仕留めた。
頭の芯がわずかに重くなる。〈浄化〉1回分のMP消費。まだ余裕がある。
3階層。ボスフロア。
天井の高い空間。中央にゴブリンリーダーが1匹と護衛が2匹。リーダーは通常のゴブリンより一回り大きく、錆びた鉈を握っている。
ポーチからSTR+15%のおにぎりを取り出した。一口かじる。今朝仕込んだばかりだ。塩加減は指先で覚えた配合。
身体の芯に力が巡る。腕が軽くなり、指先まで熱が行き渡った。
正面から走った。ゴブリンリーダーが鉈を振り下ろす。横に跳んで避ける。振り下ろしの隙に護衛が左右から襲ってくる。
右の護衛を包丁で斬った。左はモップの柄で横殴りにして壁にぶつける。2匹とも崩れて魔石に変わった。
ゴブリンリーダーと正面。鉈の二撃目が来る。
身を低くして潜り込んだ。懐に入る。包丁を振り上げて——
鉈が頭上を通過する。髪が風で乱れた。
手首を返す。
魔石が落ちた。
——クリア。
帰還用の転送陣が床に浮かび上がる。青白い光の円。
試験官がタブレットから目を上げた。記録を止めていない。
「……装備欄、エプロンでよろしいですか」
「防水エプロンです。細かいのは書かれますか」
「……はい、書きます」
クリア証明の書類にサインをもらった。試験官のペンが淡々と動く。
出口に向かう前に——壁に手を触れた。
水晶の壁面。冷たくて、つるりと滑らかだ。1か月間、毎日触れた壁。ここで料理を覚えて、〈錬金術〉を覚醒して、バフ料理を試作した。
(ありがとな)
声にはしなかった。手のひらだけが、冷たい水晶の温度を覚えている。
◇◇◇
2か所目。E級ダンジョン「砂礫の洞窟」。午後。
初めて来るダンジョンだ。入った瞬間、砂が目に入った。
視界が悪い。1階層全体に砂嵐が吹き荒れている。足元は乾いた砂利で、一歩ごとにじゃりじゃりと音が鳴る。乾燥した空気が喉の奥を引っ掻いた。
(〈浄化〉で砂を消せるか?)
試した。モップを振る。——効かない。砂は汚れじゃない。自然物だ。浄化する対象がない。
砂嵐の中を歩く。5メートル先が見えない。耳に砂が入る。目を細めても砂粒が睫毛に引っかかる。
(視界が効かないなら——均一にすればいい)
爆弾おにぎりをひとつ取り出した。足元に叩きつける。爆発で煙が広がった。砂嵐と煙が混じって視界がさらに悪くなる。
だが——均一になった。風の流れが読めるようになった。煙の動きで、何かがいる場所がわかる。空気の流れが不自然に曲がるのは、そこに身体があるからだ。
煙が揺れた場所に包丁を投げる。ぎゃっ、と短い悲鳴。砂コウモリが落ちてきた。
清掃の逆用だ。視界を「整える」んじゃなく、「均一に汚す」ことで差異を見つける。掃除の基本は「どこが汚れているか」を見つけることだ。それなら——汚れていない場所を際立たせる方法もある。
身体の芯にある感覚を頼りに進む。砂を踏む音だけが響いている。
中層。通路が広くなった。熱い空気が漂っている。
サラマンダーが通路の奥に蹲っていた。体長1.5メートル。赤い鱗が暗闇の中で鈍く光っている。口元から陽炎のような熱気が揺らいでいた。
目が合った。
飛び出してきた。口が大きく開く。喉の奥がオレンジ色に光って——炎が吐き出された。
熱い。顔が焼ける。
反射で両手を前に出した。「洗い落とす」動作。洗濯物をすすぐように、手のひらで炎を撫で落とす。
〈属性洗浄〉。
手のひらに触れた炎が——消えた。霧のように散って、じわりとした熱だけが手のひらに残る。火傷はない。
後ろで、試験官のタブレットに打ち込む音が一瞬止まった。また動き出す。
沈泥の洞窟で覚醒したときに推測した通りだ。火も、酸も、属性であれば洗い落とせる。
サラマンダーの2発目を同じ動作で消して、懐に潜り込んだ。STR+15%のバフが残っている。包丁を振り下ろして——赤い鱗が砕け、魔石に変わった。
回復ポーションを1本飲む。MP消費で重くなった身体が少し楽になった。
3か所目。E級ダンジョン「廃倉庫の地下」。夕方。
一番手こずった。
複数ルートのある迷路型だ。暗い。埃っぽい。古い石造りの壁がどこまでも続いている。天井の蜘蛛の巣が行く手を塞ぎ、足元の石畳は湿って滑りやすい。
2回、行き止まりに突き当たった。壁を触って引き返す。通った場所の壁に包丁で小さく印をつけた。
3回目で正しいルートを見つけた。
(これ、モノの居場所を整理する感覚と同じだ)
頭の中で構造を分けた。通ったルート。行き止まり。壁の素材が変わる場所。空気の流れ方。風が吹く方向に出口がある。
整理整頓だ。散らかった部屋を片付けるとき、まず全体を見て、カテゴリを分けて、動線を決める。それと同じことを、この空間でやっている。
感覚を研ぎ澄ませると、最短ルートが浮かび上がった。壁の素材が変わる場所を辿れば、ボス部屋に着く。
途中のコボルド2匹を爆弾おにぎりで処理した。狭い通路に爆発の衝撃が反響する。埃が舞い上がって鼻がむずむずした。
最奥へ。
ボスのコボルドシャーマン。杖を持った犬顔の小さな魔物。呪術の紋様が足元に広がり、紫色の光が杖の先端に集まっていく。呪い付与の呪文だ。
杖から紫の光弾が飛んできた。
〈属性洗浄〉で呪いの属性を洗い落とす。手のひらで光弾に触れると、紫色が薄まって霧散した。
効果が消える前にSTR+15%のおにぎりを頬張り、距離を詰めた。コボルドシャーマンが2発目を構える前に——包丁が届く。
魔石を拾い上げた。手のひらが汗で濡れている。
3か所クリア。疲れている。足が重い。リュックのバフ料理は残り6個。爆弾おにぎりは3個。回復ポーションを1本使った。腕の筋肉が張っている。朝から走り通しだ。
でも——疲労より先に、実感が来た。
自分の力でやった。大地の盾もない。白鳥さんの氷魔法もない。俺の包丁と、モップと、料理と、エプロンだけ。
……やれた。
◇◇◇
ギルドへ向かう帰り道。夕方の空がオレンジ色に染まっている。
足取りは軽い。身体は重いのに、足が勝手に前に出る。アスファルトを踏む靴の音が、なんだかリズムよく聞こえた。
ギルドが見えてきた。
自動ドアが開く。冷房が顔に当たった。
胸の奥にまだ少し刺さっている。でも今日それは関係ない。
歩みを再開した。
ギルドのカウンター。夕方の光が窓から斜めに差し込んでいる。
九条さんがいた。いつもの紺のスーツ。メガネの奥の目がこちらを認めた。
3か所分のクリア証明書類を差し出す。試験官のサインが入った3枚。
九条さんがタブレットで書類を照合する。指の動きが速い。いつも通りだ。
「3か所、全て確認しました」
タブレットを置いた。
「昇級判定——合格です。おめでとうございます、水瀬さん」
一瞬だけ、九条さんの目が柔らかくなった。メガネの奥の目尻が、ほんのわずかに下がる。
すぐに元の表情に戻る。
「E級バッジを返却してください。D級バッジに交換します」
胸元の丸いバッジを外した。E級。登録したときにもらった小さな丸い金属。指先に馴染んだ重さが、少しだけ惜しい。
九条さんが四角いバッジを差し出す。D級。丸から四角に変わった。手のひらで確かめる。角がある。重さが少し違う。
「ありがとうございます、九条さん」
「今後とも報告書は読みやすくお願いします」
淡々としている。でも、さっきの一瞬は確かに見えた。
ロビーに出る。
——大地と白鳥さんが、ソファに座っていた。
「遅かったな! 3か所全部行ったんだろ!」
大地が立ち上がった。声がロビーに響く。周囲の冒険者が何人か振り向いた。
「……お疲れ様でした」
白鳥さんが小さく頭を下げた。
待っていてくれたのか。試験が終わるのを。
大地はいつもの革鎧姿で、白鳥さんは白い軽鎧のまま。2人とも今日はダンジョンに行かず、ここにいたのだろうか。
(言ってなかったのに。今日受けるって——いや、大地が知ってたら、白鳥さんにも伝わるか)
「どうだった!? 受かったのか!?」
「……受かった」
「よっしゃあ!!」
大地が拳を振り上げた。声量がさらに上がる。
「あの」
白鳥さんが小さな紙包みを差し出した。
開けた。
——黒焦げのおにぎり。
三角形が崩れている。海苔が半分剥がれかけ、米の一部がほぼ炭になっている。表面はところどころ焦げ茶色で、形も左右で大きさが違う。でも——ちゃんとおにぎりだった。誰かが握った。
「……作りました。形は、ちょっと崩れましたが」
白鳥さんの声が小さい。指先が膝の上で動いている。緊張しているときの癖だ。
昨日、「作ってみたいです。料理」と言っていた。あれから1日。本当に作ったのか。炊飯の仕方も知らなかっただろうに。
一口食べた。
——塩が強い。端はほぼ炭の味がする。米がところどころ固い。炊飯を焦がしたのだろう。焦げた底の部分をそのまま握ったに違いない。
でも。
口の中に、白鳥さんが台所に立った時間が広がっている。卵焼きを一瞬で炭にした人が。洗い物で泡まみれになった人が。それでも——作った。
「……塩、多い」
「……はい」
「食べる」
全部食べた。大地が黙って見ていた。
「ありがとう。嬉しかった」
「…………」
白鳥さんが少しだけ俯いた。
「……教えてください。今度」
「うん。教える」
大地がそっぽを向いて「……なんか俺いらなくね」と言った。
「嘘じゃないって!」
「絶対嘘だろ! オレにも食わせろ!」
「やだよ。これは白鳥さんが俺にくれたやつだ」
「ずりぃ!!」
白鳥さんの口元が震えていた。笑っているのか泣きそうなのか、判別がつかない。
3人でロビーのソファに座って、少しの間笑っていた。大地の声がでかい。白鳥さんが小さく口を押さえている。俺はおにぎりの残りを食べた。塩辛い。焦げている。
でも——温かかった。焦げた米と、白鳥さんの気持ちを一緒に食べている。そんな味がした。
夜。アパートに帰った。
食器を洗って、テーブルを拭いて、椅子を元に戻した。いつもの手順。
ステータスウィンドウを開いた。「D級冒険者」の文字。レベルが上がっている。3か所のダンジョンをクリアした分だろう。
D級か。
ウィンドウを閉じた。
部屋の明かりを落とす前に、口の中にまだ白鳥さんのおにぎりの味が残っている気がした。塩辛くて、焦げていて——それでも。
今日は眠れそうだ。
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