26.後日談
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「――それで、解呪薬を飲んだら抜け落ちちゃったんですか? あの角」
ナダルの拘束から二日後。パティスリー・ハニールの店頭に立ったシオンは、すっかり元の頭に戻ったノアを見て少し残念そうな声を漏らした。
「ヘビトンボみたいで面白かったんですけどねぇ」
「なるほど、その線もあったな!」
マニアックな虫の名前に、ノアの顔がキラリと輝く。そんなノアを呆れた目で見てから、ルルは改めてシオンを頭のてっぺんから足の先まで眺めた。
飾り気のない真っ白なシェフユニフォームに身を包み、長い髪も首の後ろで一つに束ねている。化粧っ気も今はなく、こうして見ると確かにシオンは線の細い男だった。
「そんなことより、あなた本当に男だったのねぇ」
「私も勝手に女性だと決めつけておりました……申し訳ございません」
「あ、謝らないでください! 紛らわしい格好をしている私が悪いんですから!」
深々と頭を下げるレティシアに、シオンは慌てて両手を振る。
「子供の頃から、虫と同じくらいお姫様に憧れがあって……別に女の子になりたいわけじゃないんですけど、可愛い服とかキラキラしたコスメが好きなんです。てっきりノアさんから聞いてご存知だと思っていました」
「ノア様は、いつからご存知だったのですか?」
「……?」
ショーケースにへばり付き、ケーキを物色していたノアが首を傾げる。
「最初からだ。奇妙な私服だとは思ったが、こいつが声を掛けてきた時には、この店の店員だと気づいていた」
「何度もここに来てたポポロ教授だって、私服のシオンには気づいてなかったのに」
「あの女の頭の中は研究のことでいっぱいだからな。お前たちだって、よく行く店の店員の顔くらいは覚えるだろう」
「普段は人の顔を覚えないあんたが言っても、説得力がないのよ」
とルルは言ったものの、興味を持った人物に対して発揮するノアの記憶力は、ジュリアン・バレンタインの一件で立証済みだ。つまりそれだけノアは、この店の菓子に心を奪われていることになる。
「逆に俺は、なんでこいつを女だと思うのかが理解できん」
「そりゃあ、あんなフリフリのワンピースを着て、しかも似合っていたら誰だって女の子だって思うわよ」
「似合おうが似合わなかろうが、服なんて関係ない。オスの匂いでわかるだろう」
「犬じゃないんだから、わかるわけないでしょ!」
シオンはなんとも言えない表情で手際良くお菓子の箱にラッピングを施しながら、チラリとレティシアを盗み見た。その視線に、レティシアはすぐ気づく。
「何か?」
「ああああの、なんか、これを言うとまた違う方向に誤解をされそうなんですけど……」
シオンはそう前置きした。
「わ、私……恋愛対象は女の子ですから」
「はい?」
「だからって、レティシア様をそんな卑しい目で見ているとかじゃないですよ!? レティシア様は雲の上の存在、女神、決して手を触れてはいけない孤高のお方ですからね!」
「いえ、そんな……こうしてお知り合いになれたのですから、私はシオン様とお友達に――」
「それはいけません! 今後も私のことは空気……いえ、壁のシミだと思っていただければ!」
畏れ多い言葉に、シオンの手はじっとりと汗ばんでいた。
「と、とにかく! 私の見た目はあんな感じですけど中身は男ですので、ノアさんとどうにかなるとかそんなゲロ吐きそうなことは決してありませんので!」
他の人に恋愛対象が男だと思われることには慣れているし、今更どうにも思わない。しかし、明らかにノアに好意を抱いているレティシアに誤解されるのだけは、我慢できなかった。
「つまり、シオンとノアはあくまでお友達。ティア様はヤキモチを焼いたり、心配しなくても大丈夫ってことよ」
「ヤキ……っ!?」
耳元で囁いたルルの言葉が、レティシアの顔を真っ赤に染める。シオンは小さく笑って、ラッピングを終えた箱をノアに渡した。
「これからエヴァンさんのお見舞いですよね? よろしくお伝えください」
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「まったく……どこの世界に、勇者になったり暗殺者に命を狙われる学生がいるんだ!」
広々とした豪華な特室。無駄に広いベッドの脇に置いた椅子に腰を下ろしたファーガスは、激しく憤慨しながら果物ナイフでリンゴを剥いていた。
「それもこれも、全部魔王の息子が原因だ! 何が魔王だ。疫病神の間違いだろう」
「そうだねー」
「ちゃんと聞いているのか、エヴァン! いいか、これを機にあいつとつるむのはもうやめろ!」
「うん、考えておくよ」
ファーガスとは対照的に、冷めた表情のエヴァンは手元の書物に目を落としたまま、機械的な返事を繰り返していた。
ファーガスは眉間に深い皺を寄せ、深いため息をつく。
「あいつさえいなければ、今頃お前は――」
「父さん。そのリンゴ、食べるところ残ってる?」
手元を見ると、リンゴの大部分は剥かれた皮の方にごっそり持っていかれていた。
「こ、こういうのは母さんの仕事だから……」
外科手術もこなす優秀な医者のくせに。喉まで出かかった言葉を、エヴァンはなんとか腹の底へと押し戻した。
入院からほとんどの時間を、父の小言を聞いて過ごしている。動くとまだ傷口が疼くので、逃げ場もなかった。
「こうしてティア様の恩恵で治療を受けさせてもらえているし、父さんはもう村に帰ったら? 病院だって、兄さん一人じゃキツいでしょ」
「お前に言われずとも、明日帰る」
すっかり小さくなったリンゴを切り分けて、エヴァンの前に置く。その不格好なリンゴを見ていると、先日真っ赤な顔で言い訳を並べていた父の姿が頭に浮かんだ。
エヴァンは乱暴に後頭部を掻き、小さく息を吐いた。
「父さんは、勘違いをしているんだよ」
「勘違いだと?」
果肉のたくさん残った皮を齧りながら、おうむ返しに問う。
「私が何を勘違いしていると言うんだ」
「僕のことだよ。僕は天才なんかじゃない」
「……何を言い出すかと思えば。お前はずっと、学校のテストで満点を取ってきたではないか」
「ノアがいたからだよ」
面白くないことのように、エヴァンは言う。
「ノアって本当は頭がいいんだ。ただ、本人にやる気がないだけ。目の前にノアが喜ぶご褒美をちらつかせたら、多分この大学だって僕より上の成績で合格できたはずだよ」
「あの阿呆がか? そんな風にはとても見えん」
「人より睡眠時間が短いぶん、本を読む時間が長いからだって本人は言ってたけど――」
エヴァンは穏やかな笑みを浮かべながら、淡々と言葉を続けた。
「その時の気分で満点を取ったり、赤点を取ったり。真面目に勉強しているこっちが馬鹿みたいに思えて、悔しかったんだ」
本当のところは知らない。ノアにも何か思うところがあって、必死に勉強していたのかもしれない。けれど少なくともエヴァンの目にはそうは映っていなかった。
「僕がテストで満点を取り続けたのは、僕が生まれながらの天才だったからでも、父さんに怒られるのが怖かったからでもない。ノアに負けたくなかった――ただ、それだけだよ」
こんな話はルルにもしたことがない。なんだか気恥ずかしくなって、紛らわせるようにリンゴを口に放り込んだ。
「……ノアがいなければ、お前はどうなっていた?」
「とっくに潰れていただろうね。グレてたかも」
あはは、とエヴァンは冗談めかして笑ったが、その可能性は十分すぎるほどあったと思う。
「しかし、それとこれとは話が別だ。医者になる道が閉ざされたわけではないだろう」
「ねぇ、父さんは想像したことがある? 僕が医者になった時のことを」
「当たり前だ。だからこうして――」
「本当に? 具体的にちゃんと想像してみた?」
エヴァンは笑顔でファーガスに顔を近づける。どことなく気後れしながらも、ファーガスは自分の脳裏に将来の息子の姿を描いた。
「お前のことだから、きっといい医者になれる。些細な変化に気づく能力に長けているし、探究心もある。手先も器用だ。性格も温和だから、患者にも慕われるだろう」
「だろうね。で?」
父の理想を否定はしない。自分自身でも、そうなると思うからだ。
「で、とは……?」
「兄さんはどうするの?」
そういう意味かと理解したファーガスは、思わず片手で頭を抱えた。
「絶対に僕、兄さんよりいい医者になると思うんだよね。あの傲慢で、実力はないくせにプライドだけは高い人が、正気でいられるかなぁ」
「それは……」
エヴァンとソリの合わない長兄は、決して他の医者に比べて劣っているわけではない。しかし自分よりも優秀な弟が同じ道を歩めば、必ず軋轢が生まれるだろう。
「兄弟で力を合わせて……」
「あの人にその気があればね」
生まれてからずっと近くで兄を見てきたエヴァンには、断言できる。あの人は協力などしない。黙り込んでしまった父も、同じことを思ったのだろう。
「家族を壊してまで、医者になりたくはないよ。そもそも医者になることに興味もない」
「壊すなど、そんな大袈裟な」
「歪でつまんない家族だとは思うけど、別に嫌いじゃないんだ」
父親に自分の意見をこれほど吐露したのは、何年振りだろうか。もしかしたら、初めてのことかもしれない。
エヴァンは少し疲れた顔で上半身をベッドに沈めた。
「それでお前は、何がしたいんだ。本当に村役場の小役人になるつもりか」
閉じた瞼の向こうから、感情の読めない声がした。
「……わからない」
医者にはなりたくないと駄々を捏ね、高い学費を払ってもらいながら、本当にやりたいことなど別にない。それだけは申し訳ないと思っている。
目を閉じたままじっとしていると、父が荷物を持って立ち上がる気配がした。
「好きにしろ」
いつも通りの冷たい声音に、やはり機嫌を損ねさせてしまったかとエヴァンは諦めに似た心地になる。その頭に、ぽんと大きな手が乗せられた。
「夏休みになれば、またくだらん虫を探しに行くんだろう。その前に必ず、うちに顔を見せに来い」
小さな子供にやるように、ファーガスはわしゃわしゃと息子の頭を撫でた。
驚いたエヴァンがぽかんと口を開けて父を見上げていると、部屋のドアがノックされた。
「エヴァン様、具合はいかがですか?」
レティシアたちである。
「レティシア王女。この度は愚息に恩寵を賜りまして、誠に感謝いたします」
「大切なご子息に怪我を負わせてしまい、本当に申し訳ありませんでした。入り用なものがあれば、なんなりとおっしゃってください」
「勿体無いお言葉。私はこれで失礼いたしますので、今後とも息子をどうぞよろしくお願い申し上げます」
レティシアに深く一礼した後、その後ろにいたノアを一瞥する。いつもの癖で睨みつけてから、ルルへと視線を動かした。
「エヴァンの処置をした医師が、応急処置の腕が良かったから大事に至らずに済んだと言っていた。仕事に困ったらうちの病院で雇ってやる。なんならセオドアの嫁として貰ってやってもいいぞ」
「父さん!」
背後から飛んできた枕を躱し、ファーガスは含み笑いを浮かべながら退室した。




