21.見舞い客
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レティシアはドアの前で、一つ大きなため息をついた。
このドアを隔てた向こうに、ノアがいる。まだ熱はあるものの命の危険からはひとまず遠ざかり、この二日間を暇を持て余して不機嫌に過ごしているノアが。
レティシアはまだ、あの本のことを切り出せずにいた。
エヴァンからノアが魔力を嘔吐した仕組みを聞いて、あの時のショックは和らいだ。しかしおとぎ話のようにロマンチックな出来事ではなく、魔法学的に証明された現象であったことに、少なからずがっかりもした。そうなると本のことも、本当のところを聞いてまたがっかりするのだろうと思い、聞けなくなってしまったのだ。
(私ったら……この一大事に、そのような不純なことを考えていてはいけません!)
レティシアは自分で自分の頬を叩くと、笑みを浮かべて部屋のドアを開いた。
「ノア様。お加減はいか……が……」
言葉は、目の前に広がった光景によって最後まで声にならなかった。
部屋の中には、ノアとシオンがいた。ソファの上で、ノアがシオンを押し倒すような格好で。片手でシオンの両手首を頭上に固定し、もう片方の手は胸元に。シオンの足はノアの足に絡みついていた。
「……………………」
「レティシア様……っ!? ノアさん、どいてください!」
呆然と立ち尽くすレティシアに、シオンは素早くノアの下から這い出て、乱れた衣類を整えながら頭を下げた。
「多分……いえ、絶対勘違いしましたよね? 違うんです、あの、その様子だとノアさんから聞いてないみたいなんですけど――」
「ティア。頼んでいた暇つぶしのパズルは買ってきてくれたか?」
ノアだけが、何事もなかったかのように近づいてくる。レティシアは口をあわあわとさせながら、片手に持っていた袋をノアに差し出した。
「ノアさん! 今、レティシア様は盛大に勘違いをされています! 誤解を解いてください!」
「……何の? 餌を欲しがる鯉のような顔をして、どうしたんだ、ティア」
「バカなんですか!? レティシア様。私たちは、暗殺者が来た時のシミュレーションをしていただけです!」
「シミ……シュミ……シミュ……?」
あまりの衝撃に、レティシアの頭は追いつかない。
「そうです、シミュレーションです! まぐわい合っていたわけじゃないですからね!?」
「ま、ま、まぐわい合って……!?」
「合ってません! 暗殺者がこうきたら、こう動きを封じて……みたいなことをやっていただけです!」
痛恨の誤解を残したまま、部屋のドアが短くノックされた。思考が停止しているレティシアの代わりに、シオンが返事をする。
「寮の入り口にて、ノア様のお見舞いにクラウゼン教授がいらっしゃっています。ご学友も二人ご一緒ですが、いかがなさいますか?」
シオンが振り返ると、ノアはソファに横たわり眠ったふりを始めた。レティシアも状況を把握し、小さく頷く。
「お通ししてください」
レティシアの言葉に応じ、一旦足音がドアから遠ざかっていく。
「……ノア様」
「ノアさんなら、きっと大丈夫です。それよりもレティシア様が巻き込まれないように、必ずお逃げくださいね」
胸の前で組んだレティシアの手が震えているのを見て、シオンがそっとその手を包み込む。しかしシオンの手も震えていることに、レティシアは気づいた。
――ややあって、複数の足音がドアの前で止まった。
コン、コン。
ノックが二回。シオンが内側からドアを開けた。
「どうも。お邪魔してもいいかな?」
快活な声と共に、クラウゼンが顔を覗かせた。
「女性たちに囲まれて、羨ましい限りだな、ノア」
豪快に笑いながら入ってくるクラウゼンの後ろから、ナダルとアーロンも遠慮がちについてきた。レティシアと目が合うと、二人はほんのり頬を染めて恭しく頭を下げる。
「あ、あああのっ! 俺……いや、私はノア君の同期でアーロンと申しますっ!」
「交換留学生の、ナダルです」
レティシアはふわりと微笑んだ。
「お見舞いに来てくださって、ノア様もきっとお喜びだと思いますわ。どうぞ、もっと近くでお顔をご覧になってくださいませ」
「ノアの具合はいかがですか? 数日前、この辺りで魔力の爆発のようなものが起きたらしいのですが、ノアと関係が?」
ノアの顔をぺたぺたと触りながらクラウゼンが問うと、レティシアの一歩前に出たシオンが口を開いた。
「エヴァンさんがクラウゼン教授に教わった方法で、体内に溜まっていた魔力を抜いたそうです。魔力の爆発は、その時のものかと」
「やはりそうか。どうなったかと心配していたが、無事なところを見ると成功したようだな」
「はい。ですが相変わらず眠り続けています」
エヴァンが用意したシナリオ通りのセリフを言う。
クラウゼンは顎に手を当て、低く唸った。
「体内でまだ暴発しているのか……ルルが解呪薬を調合しているそうだが、進捗具合はどうなんだ?」
「間も無く完成するかと」
「デュマ教授のお墨付きとあらば、もう安心だな。こいつらが、授業にノアがいないとつまらないとうるさくてなぁ」
笑いながらクラウゼンが振り返った、その時――バチンッっと何かが弾けるような大きな音がして、クラウゼンの体がぐらりと揺れた。
「……へ……? おま――」
続いてもう一度。今度はアーロンが床に膝をつき、崩れ落ちる。
「クラウゼン教授――!?」
「動かない方が賢明ですよ、王女様」
言うや否や、ナダルはいつの間にか握りしめていた短剣を、ノアの喉元目掛けて振り下ろした。
だが。
「お前が犯人だったのか」
振り下ろされた刃は、ノアの手にした黄金の虫取り網のシャフトによって弾かれた。
「……ちぃっ! 狸寝入りか!」
「誰か! 早く誰か来てください!」
ドアの外に向かってレティシアが叫ぶが、護衛がなだれ込んでくる気配はない。
「この建物内の護衛なら来ませんよ。今頃俺の【夢魔】の力で幻の中を彷徨っている頃ですから」
インキュバス――悪魔の一種である。
抑揚のない声で話すナダルの胸ぐらを掴んだノアは、先ほどシオンと組み合っていたのと同じ要領でナダルに馬乗りになる。掴まれた手首の力が強くて、ナダルの手から短剣がこぼれ落ちた。
「それで、お前は誰だ!? 初対面のお前に命を狙われる覚えはないぞ!」
「本当にお前は、人の顔を覚える気がないらしいな。……まぁ、そのお陰で難なくお前の同期になれたわけだが」
マウントを取られても、ナダルの表情は崩れない。
「厄介な奴だ。今回のシュークリームの前にも三度、毒薬を仕込んだ菓子を食わせてやったがケロッとしてやがる」
「っ! 確かに軽い下痢があったが、お前の仕業だったのか!」
「軽い下痢で済むような毒じゃねぇんだけどなぁ」
くっくっと男は嗤う。
「目が覚めたところで、まだ魔法は使えないんだろ? だったら、ここで終わりだ――」
ナダルの右手の指が、わずかに動いた。
魔力の流れを察したノアが咄嗟に身を離したのと、ほぼ同時。
「【守護障壁】!」
ノアに向かって伸びた雷を帯びた魔法剣は、窓から飛び込んできたその声と共に展開された光の防壁によって弾かれた。
「だ、誰ですか!?」
シオンは一瞬、ナダルの加勢かと思った。建物の三階に位置するこの部屋の窓から姿を現した人物は、明らかに異質な出立ちをしていたからだ。
全身黒ずくめ、目元以外を黒い布で覆ったその男は、懐に手を入れたかと思うと、掴んだ何かをノアの足元へと投げつけた。
「これは――」
手裏剣だ。
ノアの表情が、途端にきらきらとした少年のように輝き出す。
「ニンジャ! ジュリアン・バレンタインじゃないか!」
「遅ればせながら、この影ジュリアン・バレンタイン! ノア様のために速馬を駆けて馳せ参じました!」
「えっと……み、味方ですか……?」
「はい。ミエールお姉様にお願いして、一時的に釈放していただきました。フェリクス王子の手の者でしたら、面識がおありかと思いまして」
一時的に釈放という言葉が引っかかったシオンだったが、ノアの部屋に額縁入りのサインが飾ってあるので、有名人なのだろうと納得する。
魔法剣を片手に提げたナダルは、ゆらりと立ち上がってジュリアンを冷めた目で見た。
「……寝返ったか」
「ノア様はなぁ、俺らみたいな一介の暗殺者が触れていいお人じゃねぇんだよ! 悪いことは言わねーから、お前もその辺にしてこっちに下れ!」
「なぁなぁ、この手裏剣貰ってもいいか? 宝物にしたいんだが」
ノアは手裏剣を大事そうに拾い上げ、ジュリアンの袖を引っ張って尋ねる。
「どうぞどうぞ! あ、マキビシもありますよ? いります?」
「ふぉぉ……! これが本物のニンジャのマキビシか!」
元を正せばジュリアンはニンジャではないし、手裏剣もマキビシもここへ来る道中に土産物の露店で買っただけなのだが。
「茶番には付き合いきれん」
ナダルは吐き捨てると、床を蹴った。構えたノアを躱し、その腕にシオンを抱える。
「わ……っ!」
「シオン様!」
シオンを軽々と抱えたナダルは、何の躊躇もなく窓から飛び降りた。
「いやあぁぁぁ!?」
「シオン!」
「追って来い。十分以内に農場に来なければこいつを殺す」
風の魔法でふわりと地面に降り立ったナダルは、置き土産とばかりに【地獄の猟犬】を五頭召喚して去って行った。
「ジュリアン! 追ってください! シオン様に万が一のことがないように!」
「はいよっ!」
ジュリアンもまた、風の魔法で窓から飛び降りた。
ノアは黄金の虫取り網を握り締め、ドアへと向かう。
「農場へ行ってくる」
「せめて護衛を――」
「人手が足りなそうだ」
寮の周りを警備していた衛兵たちは、突然現れた獣たちの対処に追われている。
「されどノア様は、魔法を使えばまたお倒れになってしまいます!」
「俺に考えがある」
短く言い置いて、ノアは部屋を飛び出した。




