17.悪夢
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ふと気づくと、ノアは農道の真ん中に立っていた。
目の前に広がるのは、黄金色に光る小麦畑。瑞々しいキュウリやナス、トマトが実をつけた畑もあって、ノアはここがリュネの村だと理解した。
いつの間に村に帰ってきたのか。なぜ空がピンク色で、川が紫色なのか――そんなことは不思議とも思わない。これは夢だからだ。
繰り返される悪夢を見ているうちに、夢の中でもこれは夢なのだと分かるようになってきた。もっとも、分かったところで怖いものは怖いのだが。
ノアの足は勝手に動く。見知った道を、いつかの記憶を辿るように進んでいく。
まっすぐ、まっすぐ歩くうちに、ノアの姿はいつしか子供時代のものへと変わっていた。手には虫取り網を握り、首から下げた虫籠にはミンミンゼミがぎちぎちに詰め込まれている。
ふと、これを母に見せたいという気持ちが胸に湧いた。これが夢だというのはもう忘れた。セミ捕りの功績を見せつけたくて、ノアは走り出す。
「母さん! 母さん、見て!」
ノアは家の中へと駆け込んだ。現在の豪邸ではなく、昔のこぢんまりとした家だ。
「母さん! ミンミンゼミをこんなにも捕まえ……た……」
満面の笑みでキッチンに駆け込んだノアの足が、ぴたりと止まった。
床が濡れている。一瞬、母がまた何かをぶちまけたのかと思ったが、違った。
血だ。
キッチンは一面血の海で、その真ん中に母がうつ伏せに倒れていた。
「……母さん?」
しばらく呆然と立ち尽くしてから、ノアはくるりと背を向けて家を出た。そのままの足で、幼馴染の家へと向かう。
「あ……そうか。夢だった」
ぽつりと呟いたノアの姿は、少し成長していた。中学生の頃に着ていた制服で、ルルの実家のドアを叩く。
「ルル! 大変だ。夢の中で母さんが倒れている。こういう場合はどうすればいい」
我ながら何を言っているのかさっぱり分からないが、ノアはドアを叩き続けた。
一向に返事がないので、遠慮なくドアをぶち壊す。見つかればルルの母にこっぴどく叱られるだろうが、これは夢だ。
物心ついた頃から出入りしている、第二の我が家。その中へ足を踏み入れる。
「ルル――」
リビングを覗いて、ノアはここへ来たことを後悔した。
ノアの家のキッチンと同じだった。床は血塗れで、ルルの両親と三人の弟たち、そしてルルが一様に倒れていた。
「……夢。夢だ」
ノアは静かに踵を返した。
脳裏に焼きついたルルの姿を振り払うように、走り出す。行ってはいけない、ダメだと思いながらも、足はエヴァンの家へと向かっていた。
高校生になったノアは、弾む息を整えながらエヴァンの家を見上げた。
「エヴァン! どうせお前も同じなんだろ!」
今度は最初からドアをぶち壊し、足音荒くエヴァンの部屋へと向かう。
「……ほらな」
勉強机に突っ伏して、エヴァンもまた事切れていた。
「こんな夢なら、怖くない」
なぜなら夢だから。それよりも、巨大なニンジンたちに料理されていたさっきまでの夢の方がずっと怖かった。
エヴァンのベッドに腰掛け、ぴくりとも動かない幼馴染の背中をじっと見つめる。
死体が動き出すわけでもない。何かに追われているわけでもない。大切な人たちが目の前で死んでいるだけの夢。それなのに。
「……胸糞悪い……」
今までのどの悪夢よりも、胸がざらついた。
ノアは、自分の気持ちに名前を付けることが苦手だ。何を感じて、どうしたいのか、うまく言葉にできない。名前のない不快感が、じわじわと膨らんでいく。やがて肺の中に水が溜まっていくように、息が苦しくなった。
(風船……)
毎日見続ける、自分が風船になった夢。あの感覚。限界まで空気を詰め込んだ風船は、ほんの僅かな衝撃で破裂してしまいそうだった。
ノアはゆっくりと立ち上がり、エヴァンの方は見ないようにして家を出た。
外は、耳が痛いほど静かだった。誰も歩いていない。鳥や虫の声はおろか、風の音すらしない。
現在の姿に戻ったノアは、どこへ行けばいいのかも分からないままぼんやりと歩いた。
夢の中でも、埋葬くらいはした方がいいのだろうか。けれどもう、あれは見たくない――そんな事を考えながら、子供の頃ルルとエヴァンとよく一緒に遊んだ公園へ足を向けた。塗装の剥げた滑り台と錆の浮いたブランコしかない、しかし村で唯一の遊び場だ。
ブランコに座ろうとして、ようやく自分の手が固く握りしめられていることに気がついた。爪が手のひらに食い込んでいて、痛い。
「夢なのに、痛い。痛い……気がするだけか」
両手で顔を覆う。目を閉じて、早く別の夢へ移ってくれないかと願ってみたが、無駄だった。
途方に暮れてピンクの空を見上げた時――
「ノア様」
レティシアの声がした。顔を下ろすと、いつもの柔らかい笑みを浮かべた彼女が目の前に立っていた。
「ティア。お前は無事だったのか」
しかしレティシアの視線はブランコに座ったノアではなく、その後ろへと向けられている。
「ノア様、お待ちください。私もご一緒します」
「何を……?」
レティシアの足が、ノアを通り過ぎた。振り返ると、彼女の視線の先にもう一人ノアがいた。
「ドッペルゲンガー……」
違う、夢だ。
レティシアはブランコのノアには目もくれず、先を歩くノアを追っていく。そのノアの手には、赤黒い露を滴らせた一振りの剣が握られていた。
「おい、ティア。そっちへ行くな」
咄嗟にレティシアの腕を掴もうとしたが、手は何も捉えず空を切った。
「ティア! 俺はそっちじゃない!」
レティシアを追いかける。何度掴もうとしても、手は空を切るばかり。そればかりか突然足が鉛のように重くなって、それ以上進めなくなった。
レティシアは幸せそうに笑いながら、血生臭い剣を提げたノアを追う。
「くそっ! 行くなと行っているだろ! ティア! レティシア!」
レティシアが振り返った。いつもの笑顔。いつもの瞳に、地面に這いつくばったノアが映っている。その背後で――ノアが剣を振り上げた。
「逃げろ! レティシア――!」




