16.ヘルハウンド
アスティリア大学は数多の学部を有し、それに伴って敷地も広大だ。市街地を挟んだ先に別のキャンパスがあるほどで、農学部はその一角に位置している。
空にほんのりと薄闇が滲み始め、構内に残る学生の姿もまばらになってきた頃、二人は厩舎で黒馬の鬣を手に入れた。
「そう言えば、農学部の方に来たのって初めてだわ」
農場を出てキャンパス内を歩きながら、ルルは物珍しそうにきょろきょろと辺りを見渡した。
「魔法学部からは少し離れていますもんね。でも、ノアさんは時々こっちの第二講義棟の方まで来ていましたよ」
「こっちは自然が多くて虫がいるからね。ノアって魔法学部じゃなかったら、絶対農学部に入ってたと思うわ」
「ふふっ。ノアさんと同じ学部だったら、私も嬉しかったんですけどね」
愛らしく笑うシオンを見て、ルルの胸がチクリと痛んだ。
「あのさ……シオン、あなたってすごく可愛いし良い子だから、もっと他にいい人がいると思うのよ」
「はい?」
「だから、その……ノアなんかよりも――」
そう言いかけたルルの背後で、突如背筋が凍りつくような気配が生まれた。
思うより先に体が動く。
ルルが反射的に自分とシオンの周囲に防壁の魔法を展開させたのとほぼ同時に、黒い塊が勢いよくそこへ衝突した。
「何!? いきなり何なの!?」
「い、犬……でしょうか……?」
壁に激突した黒い塊は、獣だった。全身を黒い毛に覆われた四つ脚の獣。不揃いな鋭い牙の間からだらだらと涎を垂らし、銀色の双眸でじっとルルを見上げている。
「牧羊犬にしては凶悪すぎない……?」
「ルルさん! あっちにも!」
シオンが指差した右手にも、同じ黒い獣がいた。低く唸りながら、ゆっくりとルルたちとの距離を詰めている。
「ま、魔物……ですか?」
「こんな都会の真ん中で、冗談じゃないわよ……」
防壁を維持しながら、ルルは素早く視線を走らせた。近くに人の姿はない。講義棟の窓にはちらほらと明かりが見えるが、第二講義棟は農学部や文学部のエリアだ。戦力は期待できない。
シオンは青ざめた顔で獣たちを見た。二頭は防壁が消えた瞬間に飛びかかれるよう姿勢を低くし、今か今かと待ち構えている。その銀の瞳には、はっきりとルルだけが映し出されていた。
「なんだか、ルルさんを狙っているみたいですね……」
「私が何をしたって言うのよ!」
叫んでから、今朝エヴァンに忠告されたばかりだったことを思い出す。ノアが倒れたのはスピナ国のフェリクスの仕業かもしれない。だとすれば標的はノアだけではなく、自分たちも含まれているのだと――
「あのルッキズムバカ王子……!」
悪態をついてから、ルルは冷静に次の手を考えた。いつまでも防壁を展開したままではいられない。
(【浄化の槍】はアンデッドにしか効かないし……)
攻撃魔法を持たないルルでは、魔物に対抗できる術が限られている。
「私が走って、誰かを呼んできます!」
「シオン、待って――!」
呼び止める間もなく、シオンは防壁の外へ飛び出した。その瞬間、一頭の獣がシオンの背を追って地面を蹴る。
「ダメダメダメ! 【捕縛】!」
ルルは防壁を解き、シオンへと向かう獣へ光の縄を放った。縄は四肢に絡みつき、獣を地面へと縛りつける。
「こっちも!」
もう一頭。防壁が消えた瞬間を狙って跳びかかってきた獣へ、続けて魔法を放つ。鋭い爪がルルへと届く寸前、縄がその動きを封じ込めた。
「シオン、そのまま走って! こいつら、すぐに動き出すわ!」
ルルも走りながら、地面に転がった二頭を振り返った。単純な筋力なのか、それとも打ち消す力があるのか判別がつかないが、縄は既に光を失いかけている。
ルルは頭上目掛けて、無作為に明かりの魔法を打ち上げた。それは空で花火のように激しく光を散らして消える。
(誰か気づいて……!)
「【聖睡の帷】!」
背後から迫る獣へ、ルルは強制睡眠の魔法を放つ。だが、確かに魔法は届いたはずなのに、獣たちの地面を蹴る足は少しも緩まなかった。
「はぁ!? なんで効かないの!?」
「ルルさん!」
獣が速度を上げた。顎を大きく開いて飛びかかってきた瞬間、シオンがルルの手を強く引いて躱す。
「なんで!? こいつらただの魔物じゃないの!? やだー! 無理ー! 怖いぃぃ!」
「ルルさん、落ち着いてください!」
講義棟の裏へと駆け込んだが、周囲に助けになりそうなものは何もない。ルルは足を止め、再び周囲に防壁を展開した。
「シオン……巻き込んじゃって、ごめんね」
乱れた息を整える。前に翳したルルの手が小さく震えているのを見て、シオンはその手をぎゅっと握り締めた。
「大丈夫です。絶対に二人で逃げ切りましょう」
「シオン……」
シオンの温かい手が、混乱していたルルの頭を少しずつ冷やしていく。
ルルは改めて、防壁のすぐ外で唸りを上げる獣たちへと視線を向けた。犬に似た相貌。真っ黒な毛皮に、鋭い爪と牙。焦点の合わない銀の瞳――
「銀の瞳……! こいつら魔物じゃない――悪魔だわ!」
「悪魔?」
「多分こいつらは【地獄の猟犬】。どこかにこれを召喚した術者がいるはずよ」
顔を上げ、ルルは講義棟を見上げた。
屋上に――誰かいる。
「そこのあんた! あんたがノアに呪薬に飲ませたのね!? 後で絶対に捕まえてボコボコにするから覚悟しなさい! エヴァンがね!!」
距離が遠く薄闇の中なので顔まではっきりとは見えない。それでもルルは、沸き上がる怒りを大声にしてぶつけた。
「エヴァンさんにボコボコにしてもらうためにも、まずはここを切り抜けないといけませんね」
「自慢じゃないけど、何一ついい案が思いつかないわ!」
悪魔に睡眠魔法は効かない。捕縛魔法も僅かな時間しか稼げない。防壁の中でひたすら助けを待つくらいしか、ルルには思いつかなかった。
「ルルさん。多分なんですけど……ここでじっとしていたら、さっきの人が直接トドメを刺しに来ちゃう気がしませんか?」
「……良いところに気づいたわね」
幸か不幸か、屋上の人物に動きはない。ルルの魔力が尽きて獣に食われるのを、ただ待っているかのようだ。
「どうしよう……シオン、実はすごい力を隠し持ってたりしない?」
「ごめんなさい。ないです」
一縷の望みも、ばっさりと切り捨てられた。
「閃光で目眩しをする……? でも悪魔の視界ってどうなんだろ。通用するの? 嗅覚を潰した方がいいのかな……もう! 悪魔のことなんてまだ習ってないんだから、わかるわけないじゃない!」
「ルルさん。防壁を保ったまま、動かないでくださいね」
再び余裕をなくしていくルルの耳元で、シオンが静かに囁いた。
どういう意味かと振り返った時には、シオンは足元にあった手のひら大の石を握り締めていた。
「ごめんなさい!」
謝罪と同時に、大きく振りかぶって石を投げる。それは講義棟の傍に聳える大木へとぶち当たった。
「な……何? 何をしてるの?」
「もう一発! ごめんなさい!」
困惑するルルを余所に、シオンはもう一度石を投げつける。さらにもう一度と石を拾い上げたところで、何かが聞こえた。
唸り声に似ている、とルルは思った。しかし目の前の獣たちの声ではない。音は、シオンが石を投げた大木の方から聞こえてくる。
次の瞬間――木のうろから、耳障りな轟音と共に真っ黒い影の塊が飛び出してきた。
「な……!?」
目を凝らして、ルルはその影を見つめた。
蜂だ。数え切れないほどの、ミツバチの大群である。
「ノアさんに教えてもらったんです。この木のうろに、巨大なミツバチの巣があるって」
巣を破壊されたミツバチたちは凄まじい羽音を立ててシオンへと向かってきたが、防壁に阻まれると、怒りの矛先を二頭の獣へと変えた。
数匹ならまだしも、夥しい数のミツバチに取り囲まれた獣たちは悲鳴を上げた。必死に牙を剥き出して応戦するが、口の中まで無数の針で刺され、地面を転げ回る。全身を蜂で覆われた獣の動きは目に見えて鈍っていくが、銀の瞳は尚もルルを睨み続けていた。
「い、今のうちに逃げるわよ!」
「はい! ミツバチさん、本当にごめんなさい!」
ルルは防壁を解き、シオンの手を引いて走り出す。その時、屋上の人影が僅かに動いた。右手だけを緩慢に翳し、走るルルに照準を合わせる。
そして、放った。
「【焔矢】」
炎を纏った一本の矢が、一直線にルルへ向かって迸る。一瞬遅れて気付いたルルが咄嗟に防壁魔法を編み上げようとするが、間に合わない。
「ルルさん!」
「――【風刃】!!」
シオンの悲鳴と、別の声が重なった。
空気を裂く一刃の風がルルの頭上を駆け抜け、炎の矢を真っ二つに断ち切る。矢は、ルルに届く寸前で消失した。
「っっ馬鹿ルル! 油断するなって言っただろ!?」
「エヴァーン!」
真っ赤な顔で息を切らしたエヴァンに、ルルが満面の笑顔で駆け寄る。
「ほらほら、屋上にいる奴が犯人よ! ボコボコにしちゃって!」
「もう少し緊張感を持ってくれない……?」
ルルへ向かう矢を目の当たりにして、どれだけ肝が冷えたことか。しかし当のルルはエヴァンの内心など露知らず、屋上を見上げてあの人影を探している。しかし、こちらを見下ろしていたあの影はどこにも見当たらない。
「エヴァンさんが来たのを見て、逃げたのかもしれませんね」
「なんなの、あいつ! か弱い女子だけ狙うなんて、卑怯にもほどがあるわ!」
「犯人の顔は見た?」
ルルとシオンは揃って顔を横に振った。
エヴァンは地面でのたうち回る獣たちを一瞥すると、魔法の炎で焼き払う。
「悪魔召喚か。面倒な相手だなぁ」
「あの時のニンジャみたいに、フェリクスが雇った暗殺者かな?」
「ダサい捨て台詞もなかったし、ニンジャほどの厨二病じゃないかもね」
「あの……」
エヴァンとルルの会話に、シオンが遠慮がちに声を挟む。
「私、犯人を――」
言いかけた瞬間、強烈な魔力の動きを感じてルルとエヴァンは同時にそちらを振り向いた。魔力の反応に鈍いシオンには何も感じられないが、二人にとっては馴染みのある魔力の感覚だ。
「これって……」
ルルは凍りついた顔でエヴァンを見る。エヴァンもまた、同じ表情で魔力を感知した方角を凝視していた。
ノアのいる学生寮の方角から、とてつもない量の魔力が爆発的に溢れ出していた。




