10.匂い
「――で、またぶっ倒れたんだって」
図書館から戻ってきたエヴァンに、ルルはレティシアから聞いたノアの様子を手短に伝えた。エヴァンはソファで眠るノアを眺めながら、首を傾げる。
「悪夢を見た、か。まさにノア自身の魔力に当てられてるね」
放出できない魔力が体内で暴発している――ルルのその推論は正しいと思うと同時に、これが普通の人間ならば命は無かっただろうとも思う。エヴァン自身の持つ魔力の属性は炎。それが体内で暴発すれば、血液が沸騰するか臓器が丸焦げになるだろう。
「ノアの魔力が『睡魔』だから無事なのかしら?」
「どうだろう。魔族の体が頑丈だから、というのもあるかもね」
「図書館では何かわかったの?」
ルルの問いにエヴァンは静かに首を横に振った。
「呪術や呪薬を中心に調べているけど、呪いの類は幅広いからね……」
「それってやっぱり、デュマ教授を疑ってるってこと?」
「大学で行った採血の血が盗まれて、直後にこんなことが起きた。血を使う呪術学のデュマ教授だけじゃなく、大学の関係者全員を疑ってるよ」
「それでも真っ先にデュマ教授の疑いを晴らそうとされたのは、やはりお父様を信じたいからですね」
何気ないレティシアの言葉に、エヴァンは思わず目を瞬かせた。
「信じていないから、真っ先に疑ったんだよ」
「本当に信じておられないのでしたら、そもそもノア様のかかりつけ医を任せられないと思いますよ」
「それは……」
「私はエヴァン様をとても信頼しております。エヴァン様のお父様が悪事をなさるとは、到底思えませんわ」
レティシアは無垢な微笑みを浮かべる。エヴァンはそれ以上何も言えなくて、バツが悪そうに頭を掻いて目を伏せた。
「私もエヴァパパは疑ってないけど、教授たちは怪しいと思う。もちろんデュマ教授もだし、ノアを餌付けしてたポポロ教授も、ノアが倒れた現場にいたクラウゼン教授もね」
「しかし皆様、とても悪い方には見えませんわ」
「悪い奴ほど、普段は善人の仮面をかぶっているって言うじゃない?」
「そういうものでしょうか……」
釈然としない表情のまま、レティシアはノアの額のぬるくなったタオルを手に取り、氷水に浸した。冷たくなったタオルで顔を拭いていると、首元に赤い発疹があるのを見つけた。
「これは……?」
「どうかした?」
後ろから覗き込んだエヴァンも眉を顰め、ノアのTシャツを捲り上げる。
「……なんだ、これ」
発疹は、全身に広がっていた。
「ノア……」
初めてルルは、はっきりと不安の色を顔に浮かべた。生まれてからこれまで、ノアが弱っている姿など見たことがなかった。木登りをして五メートルの高さから落ちても、無傷でピンピンしていた男である。
エヴァンは努めて明るい笑顔を作ると、ルルの背中をぽんと叩いた。
「ルルもティア様もお葬式みたいな顔してるよ? ノアなら大丈夫。魔王の息子はそう簡単に死なないって」
「そう……だけど……」
「今夜は僕がついているから、ルルとティア様は帰って休んで」
「いいえ! 私もノア様のお側にいさせてくださいませ!」
「ティア様は一度帰らないと、屋敷の人たちが心配するよ。今だって、大学の門で送迎の馬車が待ってるんじゃないの?」
「あ……」
何も言わずに大学から出てきたのだ。今頃迎えの従者たちは、血眼になってレティシアを探しているかもしれない。
「ルル。ティア様を送ってあげて」
「わかったわ」
ルルはレティシアの手を取り、立ち上がった。
「食べ物は買っておいたから、適当に食べてね。明日の朝、様子を見に来るから」
後ろ髪を引かれるレティシアの手を引いて、ルルは部屋を出た。
「取り敢えず大学に戻りましょ。私たちと一緒にいるって分かってるだろうけど、あの過保護な護衛に睨まれそうね……」
「お手数をおかけしてすみません」
そんな言葉を交わしながら寮を出たところで、見知った顔と出くわした。
「あら。シオン……だっけ?」
「ご機嫌よう、シオン様」
「ど、どうも……」
シオンはレティシアと目が合うと、さっと顔を逸らした。
「シオンもこの寮に住んでるの?」
「いえ、私は街に実家があるので。ノアさんが倒れたと噂で聞いたので、様子を見に来たんですけど……」
「そうなのよ。一度目を覚ましたみたいなんだけど、今はまた眠ってるわ。部屋にエヴァンがいるから、顔だけでも見ていく?」
ルルに問われて、シオンは寮を見上げた。何かを考えるように視線を動かしてから、小さく首を振る。
「エヴァンさんがついているなら安心です。目を覚ましたら改めて会いに行くことにします」
「あ……シオン様!」
踵を返そうとしたシオンの手を、咄嗟にレティシアが掴んで引き留めた。
「あの……っ! シオン様と私は、お互いにノア様をお慕いしているという点で、きっと気が合うと思うのです。いつかご都合の良い時に、ゆっくりとお話しできませんか?」
「は……はい!? わた、私なんかがそんな……」
シオンは頬を真っ赤に染めて、レティシアの手を払う。
「そんなに身構えなくても、ティア様って気さくだし怖くないわよ?」
「そういう問題ではないんです! と、とにかく、ノアさんのことしっかり見ていてくださいね! 独りにしちゃダメですよ!」
シオンはスカートの裾を翻し、逃げるように去って行った。そのツインテールが横切る一瞬、ルルの鼻をふわりと甘い香りがかすめた。
(この匂い……?)
「レティシア様!」
大通りの方から声が上がり、ルルとレティシアはそちらを振り返った。いつもレティシアを送迎している馬車と、護衛の姿がそこにある。
「あれ? なんでここにいるってわかったの?」
「エヴァン様より伺いました。さぁ、姫様。屋敷に戻りましょう」
「あいつ……」
ルルは内心で感心する。エヴァンは大学の図書館に戻った時、従者たちに声を掛けておいたのだろう。そしてレティシアがノアの側を離れたくないと言い出すことを見越して、あえて黙っていた。
気が利くのか、それとも腹黒いのか。どちらとも取れるのが、エヴァンらしい。
レティシアが護衛に付き添われて馬車へと乗り込むのを見送って、ルルはひとつ息をついた。夜の帳が下り始めた空は、燃えるような橙色から深い藍へと静かに移ろっていた。
ノアは今頃、どんな悪夢を見ているのだろうか。




