09.ノアの部屋
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アスティリア大学から徒歩十分――そこに学生寮があり、ノアとルルはそれぞれこの寮で暮らしている。ちなみにエヴァンはここよりも利便性が良い広いアパートに、レティシアはというと、当然ながら高級住宅地エリアにある大きな屋敷に住んでいる。
「こちらが、ノア様がお住まいになられているお部屋……!」
「ティア様、来るの初めて?」
「は、はい! お邪魔いたします!」
大きく喉を鳴らし、玄関前で身構えるレティシアに苦笑を向けながら、エヴァンとルルは担架に乗せたノアを部屋の中へと運び入れた。家主の正式な許可がないことに後ろめたさを感じながらも、レティシアも足を踏み入れる。
「このような事態に、誠に不謹慎ではありますが――」
自分自身に言い聞かせるように呟いてから、レティシアは胸の辺りをぎゅっと押さえた。
「ノア様の匂いが充満するこのお部屋で、いつまで冷静でいられるでしょうか……!」
「ティア様。興奮してるところ悪いんだけど、ノアを移すの手伝ってくれる?」
「あっ、失礼いたしました!」
ルルの呆れた声に我に返ったレティシアは、担架に駆け寄りながらふと室内を見渡し、小首を傾げた。大して広くないワンルームには、大きなソファがひとつだけしかない。
「ベッドが見当たりませんが……?」
「ノアが必要ないって言って、用意しなかったんだ。だからこのソファに寝かせるよ」
「たまに私やエヴァンが泊まるからって、大きめのを買わせておいて正解だったわね」
せーの、の掛け声でノアをソファへ移しながら、レティシアは二人の言葉を頭の中で繰り返した。
ノアが眠るのは、大学の昼休みにレティシアの膝の上でだけ。『覚醒の魔王』の血を持つノアにとって、睡眠時間は一日十五分で十分だった。
「ノア様は、毎夜一人きりで過ごしておられるのですね……」
「まぁ、それなりに楽しくやってるみたいよ?」
壁際の本棚には本がびっしりと並び、ジグソーパズルや精密な船の模型なども見受けられる。夜毎ノアがそれらに黙々と取り組んでいる姿が、自然と目に浮かんだ。
「僕は大学に戻って、図書館で調べてみるよ。ルルは買い物を頼める?」
「わかったわ」
「ティア様はノアのそばにいてあげて。何かあれば、寮の管理人に知らせてね」
「承知いたしました」
エヴァンとルルが揃って部屋を出ていくと、途端に不安なほどの静けさが流れた。レティシアはしばらくの間、所在なくノアの周りを右往左往していたが、苦しそうに小さく唸るノアの声を聞いてはっとする。
「ノア様。勝手ながら、お部屋のものを使わせていただきますね」
誰かに世話をされることはあっても、世話をしたことなどないレティシアは、自分が熱を出した時に侍女がしてくれていたことを思い出しながら部屋を見渡した。
まずはバスルームで桶に水を張る。冷凍庫に氷があったので、それも加えた。チェストからタオルを探し出し、氷水に浸して固く絞る。それでノアの顔を拭い、額に乗せた。
相変わらずノアの熱は高く、全身が汗ばんでいる。こんな時侍女たちは、体を拭いて着替えさせてくれたものだが――
「さ、さすがにそれは……っ!」
想像した瞬間、両手で顔を覆って身悶えた。
「いえ、でも……このままでは気持ちが悪いでしょうし……」
指の隙間からノアを盗み見ながら、レティシアは悶々と思い悩む。辛そうなノアは見ているだけでも心配だ。少しでも楽にしてあげたいが、意識のない異性の服を勝手に脱がして良いものだろうか。
「め……目を閉じていれば、邪な気持ちではないとご理解いただけますよね……?」
恐る恐るノアの側で膝をつき、ゆっくりとTシャツの裾に触れる。今にも爆発しそうな心臓を堪えながら、そっと捲った。その時。
「……何をしているんだ」
「あひゃいぃ!?」
突然のノアの声に、レティシアは奇妙な悲鳴を上げて飛び退った。
「ノ、ノ、ノ……ノア様……!? わ、私は決して下心があったわけではなく、ただ汗を拭おうとしただけでありまして……!」
「……うん?」
ノアは寝ぼけ眼を擦りながら体を起こす。服が汗で濡れていることに気づくと、無造作にそれを脱ぎ捨てた。
「……生まれて初めて、悪夢というものを見た」
「あ……悪夢、ですか?」
ノアの着替えから目を逸らしながら、レティシアがおうむ返しに尋ねる。
「そもそも夢自体、ほとんど見たことがないのだが……ファーガスが笑いながら、特大の注射器を持ってどこまでも追ってくる夢だ。恐ろしかった……」
「それは災難でしたね……ところで、体調はいかがですか?」
「頭がぼーっとするし、暑い」
レティシアがコップに水を汲んでくると、ノアはそれを一気に飲み干した。
「胸の痛みはありますか?」
「……なんともない」
答えてから、ノアは激しい胸痛を覚えて倒れたのだということを思い出した。
「これが『風邪』というものか……死を覚悟するほどの痛みと、手足に鉛を括り付けたような倦怠感、ゴルダン砂漠にいるような暑さだ」
「それは風邪ではないように思いますが……今エヴァン様が色々と調べてくださっています。ノア様ご自身は、原因に心当たりはございませんか?」
「ないな」
「ファーガス様もじきにいらしてくれますから、必ずや原因を突き止めましょうね」
かかりつけ医の名を聞いて、先ほどの悪夢を思い出したノアは露骨に顔を顰めた。
それっきり会話が途切れ、妙な静けさが流れる。よほど喉が渇いていたのか、ノアは何杯も水をおかわりした。
「そうだ。以前、俺の家に来たら蜂蜜の食べ比べをさせてやると言っただろう。今用意し――」
思い立ってノアが立ち上がる。だがキッチンに向かおうとした体が、ぐらりと大きく揺れた。
「え……?」
そのままノアは、レティシアに覆い被さるようにして昏倒した。
「ノア様……? ノア様!」
呼びかけに、返答はない。
なんとかノアの下から抜け出そうともがいていると、玄関のドアが開いて紙袋を抱えたルルが入ってきた。
「え……あ、ごめん! お邪魔だった!?」
「ルル様、違います! ノア様をお助けくださいませ!」




