02.かかりつけ医
医務室を後にしたファーガスは、アスティリア大学の廊下を重い足取りで歩いていた。
ここは、バルドレイン王国随一の難関校である。なかでも群を抜いているのは、ノアたちが籍を置く魔法学部。とは言え医学部もトップクラスの実力を誇っており、国内の秀才たちがこぞって門を叩く。
ファーガス自身はアスティリア大学の出身ではない。長男のセオドアも受験に失敗し、父親と同じ大学の医学部へと進んだ。しかし次男であるエヴァンは違った。この大学の魔法学部に、首席で入学したのだ。その気になれば、医学部だって難なく突破できたはずである。
「愚息め……」
思わず唇の隙間から言葉がこぼれ落ちた。
(魔法学部などというくだらん学部に入ったのも、全部あの悪友どものせいだ)
ノアとルル。ルルはまだいい。回復魔法は医療の現場でも需要がある。問題はノアだ。魔族と人間の混血児。
ノアの出産の瞬間から、ファーガスは彼に振り回されてきた。産婆の手に負えなくなり、帝王切開でノアを取り上げたのはファーガスだった。産声が上がった瞬間、手術室にはノアの持つ魔力が荒れ狂った。直撃を受けた看護師たちが次々と昏倒していく中、ファーガスは戦々恐々と手術を続けた。今思い返しても背筋が寒くなる。
その後も、病院に来る度に泣き叫んで魔力を暴走させるノアに、どれだけの迷惑を被ったことか。そして挙げ句の果てに――将来有望な次男の進路までをも狂わされてしまった。
(そもそも、魔王がうちの村に来たことが間違いなんだ)
怒りの矛先は、ノアの父親へも向かう。
ファーガスは『覚醒の魔王』がリュネの村に住み着いた当初、人間のコミュニティに馴染めずすぐに出て行くだろうと鷹を括っていた。ところが気付けばすっかり村に溶け込み、それどころか趣味で始めた農業が評判を呼んで、今では村一番の資産家になっている。次の村長に魔王を推す声まで上がっているというのだから、頭が痛い。
「まったく、この世の中は狂っている……」
「――失礼。ドクター・ウェインでお間違いありませんかな?」
こめかみを指で押さえて立ち止まったファーガスに、背後から声が掛かった。
振り返れば、皺だらけのシャツにやけに鮮やかな黄色の蝶ネクタイ。寝起きのままの頭髪には白髪が多く混じった、初老の男が立っていた。
その身なりに、ファーガスの顔が不快に歪む。
「いかにも。貴方は……」
「魔法学部のデュマです」
「こ、これは失礼しました」
慌てて姿勢を正すファーガスに、デュマは気にした様子はなく、視線を彼が手にした鞄に向けた。
「ノア君の採血は済みましたか」
「……はい。これからデュマ教授の研究室を訪ねるところでした」
「ならばちょうど良かった。研究室は学生がいるので、場所を移しましょう。あまり聞かれたくない話でしょうし、私にとっても都合が悪い」
そう言って歩き出したデュマの後に、ファーガスも黙ってつく。ゆっくりと歩みを進めながら、デュマは年不相応に掠れた声で後ろに尋ねた。
「私に会うことを、エヴァン君は承知しているのですか?」
「いいえ。息子にも……誰にも、何も話していません」
「エヴァン君が知れば、怒るかもしれませんよ。当然ノア君も。ルルさんや『覚醒の魔王』さえも、敵に回すかもしれない」
「構いません」
ファーガスは迷いなく答えた。
「今更彼らにどう思われようが、痛くも痒くもない。私は私の思うようにやるだけです」
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「ノア様、まだ腕は痛みますか?」
「友人たちに裏切られて、心が痛んでいる……」
場所を学食に移し、ノアは情けない顔でレティシアに買ってもらったソフトクリームを舐めていた。隣にはレティシアがそっと寄り添っている。
しかしノアがルルとエヴァンをあからさまに警戒するので、彼女は困った様子で両者に目線を送った。
「ルル様もエヴァン様も、ノア様のお体を心配してのことですし……」
「放っておいていいわよ、ティア様。毎年そうやっていじけるけど、すぐに忘れてケロッとしてるんだから」
ノアの怨みがましい目線をさらりと躱し、ルルはラーメンを啜る。その向かいで生姜焼き定食を口に運んでいたエヴァンが、楽しげな笑顔をレティシアに向けた。
「ノアのこんな姿を見て、少しは幻滅した?」
「滅相もございません! 弱々しいノア様も大変魅力的で……僭越ながら、私が守って差し上げたいという庇護欲が、無尽蔵の如く湧き上がっております!」
「重症だね」
キラキラと表情を輝かせるレティシアに、エヴァンはケラケラと笑う。しかし次の一言で、その笑顔は瞬く間に消え失せた。
「ところで、エヴァン様。以前リュネの村に伺った際にはお会いできず残念でしたが――お父様にとてもよく似ていらっしゃいますね」
「……まぁ、血が繋がっちゃってるからね」
あまりのそっけない口ぶりに、レティシアはきょとんとしてルルとノアを見る。
「仲が良くないのよ。エヴァンの家は代々医者の家系なんだけど、医学部に進まなかったのが決定打になって、関係がこじれてるの」
「元々嫌な奴だけどな。あと、兄ちゃんも嫌な奴だ」
「そうだったのですか……無神経なことを申し上げてしまい、すみませんでした」
小さく頭を下げたレティシアに、エヴァンは苦笑して軽く手を振った。
「謝らないで。僕はただ、学歴と肩書きにしか価値を見出せない人間にはなりたくないだけなんだ」
「そんな……」
「そう言えば、小学一年生の時にエヴァンがテストで九十五点取った時の事件は、未だによく覚えてるわ」
ルルは遠い目をして記憶を手繰り寄せた。
「たった一問間違えただけで、真冬の寒空の下に一時間立たされたのよね」
「ああ……そんなこともあったなぁ。ルルが家からカイロ持ってきてくれたよね」
苦い顔で頷くエヴァン。
「で、そこに通りかかったノアが家に乗り込んで、エヴァパパに向かって『お前、医者としても親としても嫌な奴だな』って真正面から言ったのよ」
「まぁ」
驚いた顔でノアを振り返るレティシア。当の本人は覚えていない様子で、首を傾げながらソフトクリームのコーンを齧っている。
「父さんは烈火の如く怒り狂っていたけど、母さんはものすごくウケてたなぁ。それ以来、母さんだけはノア一家と交流を持つようになったんだ」
「辛い思い出ですが、今の皆様のご関係の根幹になるエピソードなのですね」
誰も父に意見出来ない息苦しい家で、ノアが開けた風穴は確かにエヴァンと母の呼吸を楽にしてくれたのだ。
「懐かしいね――」
そう言って何気なく窓の外に視線を移したエヴァンの目に、大学の敷地から出ていくファーガスの背中が映った。




