01.冷たい医務室
ノアの頬を一筋の冷や汗が伝う。
指先は色味を失くして冷たく強張り、震えが止まらない。固く目を閉じた顔も蒼白で、そこには逃れようのない恐怖が張り付いていた。
「ティ……ティア……」
「ノア様……!」
消え入りそうな声で名を呼ぶノアの手を、レティシアは痛ましい表情で包む。
そこは、アスティリア大学の医務室だった。
仕切りを挟んで三つ並んだ清潔なベッドの一つに、ノアは仰向けになって横たわっている。その傍らにレティシアが跪き、祈るようにノアの手を両手で包み込んでいた。
「……心の準備はできたか?」
白衣の男が一人、靴の踵を冷たく鳴らしながらノアのベッドへと近付いて来る。ノアは顔を歪めながらも、精一杯の気力を掻き集めて紅い瞳で男を睨み上げた。
「こんな事をして……ただで済むと思うなよ……!」
「往生際の悪い小僧だ。抵抗したところで何になる」
男は吐き捨てるように言い放つ。そして眼鏡の奥に濃い嫌悪の色を浮かべながら、銀色のトレイに『獲物』を一つずつ並べていく。その無機質な金属音が鳴る度に、ノアの体がびくりと跳ね上がった。
「こ……こんなやり方は間違っている! もっと他に方法が――」
「ノア様……! 私もこのような無慈悲な方法は間違っていると思います! ですが……どうか今暫くの間、私の手に意識を集中させてくださいませ!」
「ティア……」
瞳に薄らと涙すら浮かべ、レティシアを見上げるノア。
そこに、新たな足音が足早に近付いてきた。それがノアの頭元で止まったかと思うと、次いで重たい拳がノアの頭に落ちてくる。
「い……っ!?」
「採血するだけでどれだけ時間掛けてるのよ! みんな暇じゃないんだからね!」
そう言うとルルは、ノアの右腕をがっしりと掴んでベッドに固定した。
「嫌だ! やめろバカ! 針を刺して生き血を抜くなんて、正気の人間がする事じゃない!」
「毎年このやり取りを繰り返してる方が正気じゃないわよ! エヴァン! 足押さえといて!」
「ごめんね、ノア」
ルルに呼ばれて姿を現したエヴァンが、些かも悪いと思っていない笑顔でノアの両足を押さえつける。
「やっぱり、ティア様の膝枕で寝てる間に済ませちゃった方が良かったんじゃないの?」
「それで万が一、ティア様の膝枕に警戒するようにでもなったら取り返しがつかないだろ」
ルルの言葉を一蹴するエヴァン。それから彼は、ノアを見下ろす白衣の男に目線を向けた。
「始めていいよ、父さん」
「まったく……」
エヴァンの父――ファーガスは小さく溜め息を吐いて、ノアの腕に駆血帯を巻きつける。肌を拭ったアルコール綿の刺激臭が鼻腔を突き、ノアの顔から更に血の気が失われていった。
「放せ! 俺に触るな、冷血眼鏡! ヤブ医者! 吸血鬼!」
「全身の血を抜いてやろうか、このクソガキ……!」
額に青筋を浮かべながらも、手際良く静脈に鋭い針を沈める。その瞬間、ノアから黒い魔力の火花が迸ったが、ルルの無詠唱魔法がそれを霧散させた。
「……多少は魔法学部の成果が出ているようだな」
「でしょ? 昔みたいに迷惑はかけないわよ」
誇らしげなルルの言葉に、ファーガスは鼻を鳴らす。
「こうやって健康診断の度に呼び出されるだけで、十分に迷惑なのだがな」
ゆっくりとシリンジに引かれていく、黒みを帯びた血液。それを確認しながら、ファーガスは小さく舌打ちした。
ノアの病院嫌いは筋金入りで、初めての医療機関にかかるのは至難の業だ。なので健康診断の度に、リュネの村からかかりつけ医であるエヴァンの父が遠路遥々往診に来るのである。
かと言ってすんなり採血できるわけではなく、暴走したノアの魔力がファーガスに直撃したことも往々にしてあった。
「往診料は、いつも通り魔王に請求しておく」
来年からは五割増しに値上げしてやろうかと内心で呟きながら、血管から針を抜いてテープを貼る。
拘束を解かれたノアは、カタカタと震えながらレティシアにしがみついた。
「こ、怖かった……」
「ノア様、とても勇敢でしたわ」
「無様の間違いでしょ」
ノアの頭を優しく撫でるレティシアに、ルルは呆れた声を漏らす。
「……俺の血なんか抜き取って、一体何がわかるって言うんだ」
ノアの不貞腐れた呟きに、ファーガスは自嘲気味な笑みを浮かべた。そしてキッパリと言い放つ。
「魔族の血など専門外だ。何もわからん」
「だったら、こんなこと無意味じゃないか」
「毎年のデータと照らし合わせて、よくわからん成分の濃度に大幅な変動が無いかを確認する。私の仕事はそれだけだ」
採血管に移された、ノアの血液。人間のものよりも少しだけ黒みを帯びたそれを、ノアの目の前で振ってみせる。
「それに――お前の血は高値で売れる。魔族と人間の混血は希少だからな」
「父さん」
「冗談だ」
エヴァンの非難めいた目を受け流し、ファーガスは続けた。
「だがここに来るまでに、何人かの教授に声を掛けられた。ノアの血を少し多めに採って欲しいとな」
「それは犯罪ですわ」
レティシアが毅然と言い放つ。すると、それまで顰めっ面を崩さなかったファーガスの顔に、初めて笑みが浮かんだ。
「もちろん、医師としてそのような要求には応じません。ご安心ください」
「これからもノア様が健やかに過ごせるよう、引き続きお力添えをお願いしますね」
「レティシア王女の仰せのままに」
ファーガスは深々と頭を下げると、手早く荷物を纏めた。レティシアに再度礼をとってから、踵を返す。その背中を横目で追いながら、ルルがエヴァンの脇を肘で小突いた。
「お昼ご飯でも一緒に食べてきたら?」
「いや、いいよ。話すことも無いし」
その声が聞こえたのか否か、ファーガスは立ち止まって息子を振り返る。
「今からでも医学部に転部したらどうだ。医師免許があれば、お前の大事なトモダチの主治医になれるぞ」
「考えておくよ」
エヴァンは笑顔で短く答え、すぐに目線を外した。そのあからさまな拒絶に、ファーガスは小さな舌打ちだけを残して部屋を出て行った。




