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そして背中に背負っていたナップサックから水筒と一切れのパウンドケーキを取り出し、無造作に私へ差し出した。
「うそ……くれるの……?」
自分のおやつは絶対に人には分けない主義の、あのノアが?
「……いらないなら、いい」
「いる! いるいる! 喉も渇いてるし、お腹もペコペコだったの!」
引っ込めようとしたノアの手を慌てて引っ掴み、ケーキにかぶり付く。口の中いっぱいに広がったのは、ノアママ特製のキャロットケーキ。食べ慣れたその甘さに、せっかく止まったはずの涙がまた溢れそうになった。
ケーキを頬張る私の隣で、ノアは淡々と外の状況を教えてくれた。
「最初は先生やクラスみんなで探した。見つからないから一度下山して、子供たちは家に帰らされた」
……まぁ、そりゃあそうなるよね。
「警察とギルドの大人たちに引き継がれたけど、今日の捜索はもう打ち切られた。ルルの母ちゃんは大丈夫だって笑ってたけど、父ちゃんは死にそうな顔してた。エヴァンはもうすぐ発狂すると思う」
ママやパパ、エヴァンの名前を聞くと、胸がきゅっと締め付けられた。状況は相変わらず絶望的だけど、お腹が満たされたことと、孤独ではなくなったことで、私の気持ちは少しだけ前を向く。
ノアが見つけてくれたのだから、きっと他の誰かも見つけてくれるはず!
「ねぇ。ノアはどうしてここが分かったの?」
「……アリ」
短く答えてノアは立ち上がり、魔灯器を持って穴の隅っこを照らす。小さなアリが数匹、地面を右往左往しているのが見えた。
「アリの行列を見つけて、辿った。この穴のすぐ側に、クッキーの袋が落ちてた」
「あ……ママのクッキー……」
なるほど、と納得すると同時に、不安が脳裏を過ぎる。そんな方法でここを見つけられるのは、ノア以外にはいないのではないだろうか。
私が不安で口を閉ざしていると、ノアは再びナップサックから何かを取り出し、それを私の目の前に突き出した。
「ほら。オサムシを捕まえた」
それは、小さな虫籠だった。透明なプラスチックの中で、金属のような光沢のある緑色の虫が一匹、カサカサと蠢いている。
「この丸っこい腹の部分が面白いだろ?」
「……最悪。全然面白くないし、きもいんだけど」
心底呆れた私の言葉に、ノアは心外だとばかりに頬を膨らませた。
「まさか、それを見せる為に私を探しに来たの?」
「約束したからな」
約束なんかしてないし。本当にこの男は……なんてバカで、どうしてこうもズレているのだろうか。バカバカしすぎて、笑いが込み上げてくる。
「ノア。ありがとう」
「……うん」
この『ありがとう』を、『素敵な虫を見せてくれてありがとう』という意味だと脳内変換したノアによって、その後数年間に渡り虫を披露され続けることになるなど、この時の私はまだ知る由もなかった。
――一時間後。
「ひっ……ぐ……うぅぅ……っ」
仄暗い穴の底に、啜り泣く声が響いていた。泣いているのは私ではない。ノアだ。
「家に帰りたいよぉ……! お母さぁん……!」
一時間前、『そのうち、なんとかなる』と言い切った自信は一体どこへ行ったのか。
私以上に涙をボロボロ流し、なりふり構わず泣きじゃくっているものだから、私の不安はすっかり引っ込んでしまった。代わりに湧き上がってきたのは、私がなんとかしなければいけないという謎の使命感。
「大丈夫だってば! 明るくなれば、絶対に誰かが助けにきてくれるはずだから!」
「こ、来なかったら……? 俺たち、ここで……ま、魔物に食べられるか、餓死しちゃうんだぞ……!」
少し前までの私と同じ絶望に至ったノアは、グズグズと鼻を啜りながら斜面を這い上がり、失敗してはズリズリと滑り落ちてくる。
そして、泥だらけの顔で恨みがましく私を睨みつけた。
「……ルルのせいだ。ルルがこんなところに落ちたりするから……!」
……独りぼっちじゃないのは心強い。けれど、これはこれで猛烈に鬱陶しい。
「私だって好きでこんな所に落ちたんじゃないわよ! 元はと言えばノアが――」
ノアから逃げたくて移動したのだ。喉元まで出掛かった本音を、無理矢理飲み込む。でも何か言わなければ、気が済まなかった。
「ノアが……みんなの嫌がることをするからいけないんじゃない!」
「してない」
「してた! みんな逃げてたでしょ?」
「ルルは逃げてない」
「それは……っ」
言葉に詰まる。私は逃げなかった。でもそれは、慣れとか妥協であって、ノアを肯定しているわけじゃない。かといって、即座に否定もできなかった。
「……エヴァンは真っ先に逃げたわよ!」
「エヴァンは逃げても戻ってくるし、虫を捕まえるなって言わない」
確かにエヴァンは、虫嫌いなくせにノアに止めろとは言わない。寧ろ、それによって孤立していくノアと、それに付き合わされる私を、遠くから楽しそうに観察している節さえある。
「な、なによ……! そんなんだと、私とエヴァン以外に友達いなくなっちゃうわよ!」
「別にいい」
何でもないことのように、ノアは言う。
「でも、ルルとエヴァンがいなくなるのは嫌だ。だからいなくなったら、こうして探しに来る。それ以外はどうでもいい」
私はどうでも良くない。私は普通の女の子として、普通に友達に囲まれて生きていきたい。
けれど――
助けに来たくせに私より泣きじゃくっているこのバカを、私はどうしても振り払うことができないのだ。
「私にどうしろって言うのよ……」
そう呟きながら、私はまた斜面をよじ登ろうとして尻餅をついたノアの、泥だらけの背中を見つめた。
「痛い……うぅ……っ!」
ノアの目に、また新たな涙が浮かぶ。その時、ノアの周りで黒い火花がパチンと弾けた。
あ、そうだ。大事なことを忘れていた。
「ノア。魔法でなんとか外に居場所を伝えられない?」
ノアの持つ魔力は独特だ。近くに誰かがいれば、絶対にノアだと気付くはず。しかし。
「できない。俺は自分の魔力を上手く操れない」
当時のノアは、魔力を表出させることすら自分の意志ではコントロール出来なかった。
自力での脱出は不可能。だから、外に私たちの居場所を伝えなければいけない。それにはもう、ノアの制御不能な魔力に頼るしかないのだ。
ちなみにこの時はまだチャッピーは健在で、まさかあのハリネズミがいないとノアは一睡も出来ない体質だなんて知らなかった。だから私やエヴァンもまだ、自分が将来魔法使いになるだなんて想像もしていない。
「よし。じゃあノア、もっと泣きなさい。泣いて怒って、暴れていいわよ!」
ノアはジト目で私を睨む。
「……無茶言うな」
「無茶でもやるのよ! あんたの『癇癪』に、私の人生掛かってるんだから!」
「無理なものは無理!」
だったら――無理矢理にでも泣かせてやる!
私は大きく息を吸い込んだ。
「ノアのバーカ! へたれの変人! あんたなんか大人になっても彼女なんて出来ないし、絶対に結婚だって出来ないに決まってるんだから!」
突然悪口を言い始めた私を、ノアはビックリしたように目を真ん丸にして見つめる。罪悪感が胸を過ぎるが、緊急事態なのだから甘いことは言ってられない。
「カナヅチなのも、ピーマン食べれないのもダッサ! それから、えっと……」
「ルル」
「えっと、えっと……アホ! バカ! マヌケ!」
「ルル!」
早くも悪口のレパートリーが切れた私の肩を、ノアは凍りついた顔で叩く。
「何よ? ビックリするんじゃなくて、泣いて欲しいんだけ……ど……?」
「うえ……」
「うえ?」
ノアは震える指先で頭上を指差している。不思議に思ってその指の先を辿り――
「いやあぁぁぁぁ!?」
私はお腹の底から悲鳴を上げた。
ミミズだ。例えでもなんでもなく、ミミズがいた。ただし、ちょうどこの穴と同じ太さの、超巨大なミミズである。
「なっ……はぁ……!? なにアレ!?」
巨大ミミズは私たちの頭上五メートルほどのところにいて、ゆっくり、ゆっくりとこちらに向かって降りてきている。
「ちょっと、ノア! あんた虫、得意でしょ!? 向こうにやってよ!」
「こ、こんな巨大なミミズが虫なわけあるか! ま、ま、魔物だ……!」
終わった。私の人生、巨大ミミズに食べられて終わった……ん? ミミズって人間食べるのかな? いや、魔物だったら食べるのか……万が一食べなかったとしても、あの巨体がこのまま降りてきたら、私たちは押し潰されて圧死か窒息死は免れない。
「パパ……ママ……っ!」
恐怖でぼやける視界。固く目を閉じた私が最後に見たのは、私を庇うように前に立ったノアの背中だった。
「俺の友達に……触るなぁ!」
その言葉を本当に聞いたのか、それとも夢だったのか、それは今でも判然としない。とにかく私の意識は、そこでぷっつりと途切れたのだった。




