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八年前――
当時、小学二年生だった私たちは、学校行事で近くの小さな山へと登った。クラスメイトたちが、ただ山を登るだけの苦行に不満を募らせている中、ノアだけが妙に張り切っていたのをよく覚えている。
山頂でお弁当を食べた後の、自由時間。とは言え、遊具など何もない場所で出来る事など限られている。木登りに挑む男子。おやつを囲んでお喋りする女子。木の実を拾ったり、花を摘んだりする子もいた。
そして、ノアと言えば当然――
「ザトウムシを捕まえた!」
満面の笑顔でノアが駆け寄ってきたと同時に、私の周りの女子たちが阿鼻叫喚の悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。
「ギャァァ! 虫ぃぃ!」
「先生ー! ノアがまた変なの持ってきましたぁ!」
「嫌ぁぁ! クモ! クモでしょそれ!?」
涙を流して逃げる子を他所に、手のひらに足の長いクモみたいな虫を乗せたノアは、不満げに下唇を突き出す。
「クモじゃない。ザトウムシだ。足は八本あるし、糸も出さない」
「そういう問題じゃないの! 虫を捕まえて来ないでって言ってるのよ!」
取り敢えずその場に残っていた私が注意すると、ノアは意外だとばかりに目を丸くした。
「でもルルも虫、好きだろ?」
「いつ好きだって言ったのよ? この距離で見るくらいならまだ我慢出来るけど、本当なら見たくもないわ」
「昨年の夏、一緒にセミ捕りしたし……」
「あれはノアパパが、沢山捕まえた方にメダルをくれるって言ったからよ」
今ならわかるけど、あれはノアパパが子供同士の遊びを盛り上げるために用意してくれたゲームだった。見事ノアを打ち負かした私の部屋には、今も金色の折り紙で作ったメダルがぶら下がっている。
余談だが、私とノアが数十匹のセミを捕まえる傍らで、セミが苦手なエヴァンは青い顔でガタガタと震えていた。
「ザトウムシ……嫌いか?」
肩を落とし、上目遣いで私を見上げるノア。私が大きく頷くと、明らかにショックを受けた表情を浮かべて私に背を向けた。
「じゃあ次は……オサムシを捕まえてくる……」
「違う違う違う! 別の虫ならいいとかじゃないから!」
ポツリと言い捨てて再び茂みの中へと入っていくノアに慌てて声を掛けたが、多分聞こえていない。
「うちの近所では見かけない虫が沢山いるから、楽しそうだね」
ノアの虫を見て真っ先に逃げていたエヴァンが戻ってきた。
「誰も相手してあげないから、いちいち私に見せにくるんだけど。あんた、相手してあげなさいよ」
「僕はカブトムシとクワガタ以外は無理だって、ルルも知ってるよね?」
爽やかな笑顔で拒絶するエヴァンに、私は内心で舌打ちする。
私だって虫は苦手だ。ただあまりにも頻繁にノアが披露しにくるものだから、他の子たちよりも多少耐性がついているかもしれない。そしてそのせいで、私も虫好きだと勘違いをしたノアが、再び虫を持って来るという悪循環に陥っている。
そして、その弊害は他にもあった。
「ルルの近くにいると、ノアが虫持ってくるからあっちでおやつ食べようよ」
「ルルも、もっと強く言えばいいのにね」
遠巻きに聞こえる、女子たちのヒソヒソ話。私の周りから女の子たちが少しずつ離れていく。それを見て、隣に立つエヴァンは声を上げて笑った。
「あははっ。ハブられちゃったね、ルル」
「何笑ってんのよ、このサイコパス! 女同士の付き合いは男同士よりも複雑だから気をつけろって、エヴァンのママも言ってたじゃない!」
「じゃあ女同士の付き合いなんてやめたらいいのに」
変人すぎるノアの影に隠れて目立たないが、エヴァンも相当イカれていると思う。本当は泣き虫で、普段は品行方正な優等生ぶっているけど、多分こいつは魔物を笑いながら殺せるタイプの人間だ。
「……なんでうちのママは、私を産むのをあと一年遅らせてくれなかったんだろ……」
そうすれば、少なくともこの二人と同じ学年になる悲劇は避けられたのに。
「一年遅らせたところで、何も変わらないと思うけどね。前後十年くらい離れてても、僕は大丈夫だから」
「何の話?」
「こっちの話」
訳のわからない持論を持ち出し、ニッコリと微笑むエヴァン。本当に意味がわからない。
噛み合わない会話に疲れた私は、ノアが入って行った茂みの方へと視線を向けた。
「……オサムシって、どんな虫かな。心の準備がいるんだけど」
「さぁ? 犬や猫みたいな可愛げはないだろうね」
「だよね……」
私は大きな溜め息をつく。ここでまたノアの虫を出迎えてしまうと、クラスでの私の立ち位置が更に危ぶまれてしまう。
「どこに行くの?」
反対方向に歩き出した私を、エヴァンが呼び止める。
「ノアに見つからない場所に行って、女同士でおやつ食べるの。ついて来ないでね」
私はママが焼いてくれたクッキーの袋を握りしめ、クラスメイトの女の子たちを探し始めた。
広場から少し離れたところで、木立の陰にひっそりと隠れた登り道を見つけた。その先を視線で追ってみると、獣道の向こうに今いる場所よりも少し高い岩場が見える。
――あの岩場に登ったら、気持ち良さそう……
私はまるでその岩場に吸い寄せられるように、脇道へと足を踏み入れた。
進み始めて一分も経たない頃。草を踏み締めていたはずの足元が、ずるりと滑った。と、同時に視界が反転し、一気に平衡感覚を失った。
「え……?」
悲鳴を上げる間も無く、私の体は文字通りどこかに転がり落ちていく。
一体何が起きたのか、頭が追いつかない。ただ体をあちこちぶつけながら落ちていく感覚だけがあって、咄嗟に頭だけは守らなければと思い、体を丸めて両腕で頭を覆った。
やがて一際大きな衝撃を全身で受け止めると共に、落下が止まった。
「いっ……たぁ……!」
きつく閉じていた目をゆっくりと開く。
――私は、薄暗い穴の中にいた。広さは二メートルくらいだろうか。舗装など何もされていない、土が剥き出しの空間だ。
見上げてみれば、遥か斜め上の方に太陽の明かりが見えた。どうやら私は、滑り台のような急斜面を滑落したらしい。辛うじて擦り傷だけで済んだものの、自力でこの斜面を這い上がるのは不可能な角度だ。
「誰かー! 助けてー!」
試しに大声で叫んでみたが、返ってくるのは自分の声の虚しい反響だけ。あの脇道の周りには誰もいなかった。この声が誰かに届くとは思えない。
諦められるはずもなく、斜面に足をかけてみる。けれど取っ掛かりになるような足場もなく、乾燥した土はサラサラと崩れていく。踏み出した足は無情にも、元の位置へと滑り落ちた。
「これ、マズいよね……?」
声が震える。
とは言え、この時はまだ、すぐに誰かが助けに来てくれると思っていた。集合時間になれば、誰かが私がいないことに気がつくはずだ。そうすれば先生たちが必ず、探しに来てくれるに違いない、と。
――なのに。
「なんで誰も助けに来てくれないのよぉ!?」
集合時間どころか、もうすっかり夜を迎えていた。僅かに差し込んでいた太陽の明かりもとっくに消え失せ、穴の中は真っ暗闇に包まれていた。
さすがに焦り始めた私は、何度も何度も傾斜に挑んでは滑り落ち、手のひらも膝も擦り傷だらけになった。
疲れ果てて座り込み、傾斜の先を睨みつける。そもそもこの穴は、何なのだろうか。まるで巨大なモグラが掘ったような……そこまで考えて、猛烈な恐怖が背中を走り抜けた。
「魔物だったら……どうしよう……」
この山は魔物は少ないと言われているけれど、きっと全くいないわけじゃない。広い世の中、巨大モグラみたいな魔物だっているかもしれない。
この穴が魔物の家だったら? もしも今、それが帰ってきたら?
「ママ……パパぁ……っ!」
怖くて心細くて、ポロポロと涙が溢れ出した。
ここで一夜を明かしても凍えるような季節じゃないけれど、肌寒さは心細さをより一層際立たせる。
喉も渇いたし、お腹も空いた。ママが焼いてくれたクッキーは、どこに行ってしまったのだろうか。穴の中には落ちていないから、落ちる直前に落としてしまったのだと思う。
今頃ママとパパは心配しているはずだ。リクとナギの、あの柔らかいほっぺに触れたい……私はこのまま誰にも見つけて貰えず、ここで魔物に食べられてしまうか、餓死してしまうのだろうか。
そんなの、絶対に嫌だ!
「ノアー! エヴァンー! 助けてー!」
なけなしの力を振り絞り、暗闇に向かって叫んだ。
その時。
「――見つけた」
上から声が降ってきた。驚く間も無く、もの凄い勢いで何かが転がり落ちてくる。
「……え……?」
「いたた……」
それはノアの声だった。一緒に転がり落ちて来た魔灯器が、私とノアの姿をぼんやりとした明かりで照らし出す。
ノアは私の顔を見るなり、いつもの気怠げな表情を崩して小さく笑った。
「ルル、みんな心配してる。帰ろ」
「ノア……!」
今日ほどこの男が頼もしく見えたことは無い。私は涙でグシャグシャになった顔で、思わずノアを抱きしめた。
「この斜面が登れないのよ。誰かにロープを垂らしてもらっ……て――」
何だろう……嫌な予感がした。すごく、嫌な予感がした。
私は、無言で斜面の先を見上げるノアの横顔に静かに尋ねる。
「……ねぇ。誰と一緒だったの?」
「独りだ」
ほらぁぁ! やっぱり嫌な予感、的中しちゃったじゃない!
「どうするの!? 二人とも穴の中じゃ、どうしようも無いじゃない!」
「俺がルルを肩車すれば……」
「あんたの身長が八メートルくらいあれば届くかもしれないわね!」
「まぁ……そのうち、なんとかなるだろう」
ノアは楽観的にそう言って、腰を下ろす。




