逃げたいのに、帰る場所は彼のもと
夜が深くなるほど、心はむき出しになっていく。
静寂が痛みを際立たせ、思考の隙間からじわじわと感情があふれ出す。
彼には、二度も裏切られた。
交わした言葉も、ふいに見せた微笑も、すべてが偽りだった。
そう、何度も心の中で繰り返してきた。
なのに――どうして。
胸の奥が、まだこんなにも痛むのだろう。
恋人でもなんでもない。ただの利用された女。
あの甘い囁きも、優しい手も、すべて計算だったはずなのに。
……そう、わかっているはずなのに。
「もしかしたら、何か事情があったのかもしれない」
そんな言い訳を、いまだに心のどこかで探してしまう。
どこまで私は愚かで、救いようがないんだろう。
「……戻らないと」
さすがに夜も更けてきた。
丁重に扱われ、ある程度の自由は与えられていても、私は“捕虜”という立場にすぎない。
いつまでも戻らないのは、不自然だ。
ゆっくりと立ち上がる。
地面の冷たさが膝に残り、身体が小さく震える。
でも、その弱さを見せるわけにはいかない。
私は静かに背筋を伸ばし、歩き出した。
闇の中、ぽつりと灯る彼の天幕が見える。
あの中に彼がいる。
別の誰かを抱いているのかもしれない。
私に言った甘い言葉を、今は他の女に囁いているのかもしれない。
――それでも、足は止まらなかった。
ふと、天幕の手前で立ち止まる。
深く息を吸った瞬間、喉がひりつき、嫌な味が口に広がった。
心臓の音だけが、妙に大きく響いている。
――逃げたい。
本当は、彼から逃げ出してしまいたい。
この未練も、執着も、全部切り捨てて、遠くへ行ってしまいたい。
けれど。
――でも、帰る場所は、ここしかない。
私には、どこにも戻れる場所なんてなかった。
王女という名ばかりの立場。
期待される未来も、求められる姿も、私の本心とはかけ離れていた。
誰も、私自身を見てはくれなかった。
そんな中で、彼だけが私を“ただの一人の女性”として見てくれた。
それが演技だったとしても、私は救われてしまった。
彼の手のひらで、簡単に。
思い出すのは、さっき聞こえた女の笑い声。
そして、それに応えた彼の低い声。
あの瞬間、心の奥に鈍い痛みが走った。
けれど私は、かすかに笑った。
乾いて、壊れそうな笑みだった。
「……ほんと、どうしようもないな、私」
天幕の布に、そっと手をかける。
この先にあるのは、癒しではないと知っている。
また傷つくだけだとわかっている。
それでも――
私はまた、彼の中へ堕ちていく。
どれだけ心を踏みにじられても。
どれだけ軽んじられても。
私はまだ、あの人の幻を追っている。
その闇の奥に、たとえ光がなくても――
私は、もう戻れない。




