蘇る罪
「そこで止まれ」
「……何者だ、アンタ?」
ニグとヒルティースが前に出た。未知の土地で出会った相手は、少なくとも友好的とは言い難い雰囲気を持っているようだ。
それでも剣を抜かなかったのはたぶん、相手が武器を持っていなかったからだろう。話し合いですむのならばその方がいいに決まっている。
そもそも相手はこの辺りの住民なのかもしれないのだから、怪しいのは僕らの方なのだし。
はたして、フードの女性は―――その警告に、足を止めた。
「すべてを滅ぼしつくすのは、存外に難しいものだ」
立ち止まり、しかし女性は武装したこの人数を相手にまったく怖じ気づいた様子を見せなかった。
月明かりの下、よく通る低い声で、彼女は歌うように言葉を紡ぐ。
「例えば、害虫を一匹一匹、探して捕まえて潰していく。プチプチと、プチプチと、もう二度と湧かぬようにと、卵の一つすら見逃さず殺し尽くす。しらみつぶし、と言うだろう? 駆除とは綺麗に執拗に念入りに行うものだ。執念深く深く深くな」
害虫。そう聞いて、僕ら全員に緊張が走る。
プチプチ、だなんてあんなに大きな蟻には相応しくない気がするけれど、それは今もまだ続く迷宮蟻を思い出させる話だった。
山の向こう側に起きたことだ。さすがに蟻も山脈を越えては来まい。では、なぜ知っているのだろうか。どこかから見ていたのだろうか。僕らが通ってきた遺跡は少なくとも最近人が入った形跡は見当たらなかった。
ならば、山脈の上から観察されていた? それはそれで、なんのためにという疑問が生まれる。
あるいは、あのどこから来たのか分からない迷宮蟻を放った犯人がこの相手なのだろうか。
「しかしそこまでしても、どこかしらに害虫は隠れ潜み、逃げ延び、生き残っているものよ。しばらくすればまた増えて、それに被害を受ける者はまた頭を悩ますことになるのが常である。あまりにもありふれた、本当にいつものごとくの、よくあることに違いないであろう?」
……迷宮蟻もそうだと言うのか。
たしかに卵や別の女王蟻が残っていれば、また迷宮蟻は増えるだろう。そうしたら兎人族は再度窮地に陥ることになる。あれだけ頑張ったのにまた振り出しだ。いくら駆除の仕方が分かったとは言え、何度もやりたいものではないというのに。
でも、このフードの女性はそれを予見しているのか―――?
「我が種、我が血、我が民を害虫に例えるのはいささか抵抗はあるがな。しかし思うに、そなたにとって妾の存在はそういうものではないか? のう、兎の」
月光の下で、女性の手が―――毛皮に覆われた鋭い爪のある手が、ゆっくりとフードをめくり上げる。
そうして見えたその顔に、僕は目を見開く。呼吸すらも止まった。
「妾の名はマシェリ。誇り高き猛虎の血を引く、黄虎族の女王である」
さめざめとした青白い明かりに照らされたその獣人は、あまりにも美しく猛々しくて、金色の獣を彷彿とさせたのだ。
―――よく分かったぞ、猛虎の民よ。そなたらが謳う獣人の誇りとは、弱い者を弱いままにしておく方便だ。有りのままに生きると嘯いて研鑽を怠け、力が強い種に生まれただけで偉いと勘違いし、弱者を虐げる腐った精神性こそが獣人の本質よ。
かつて、兎獣人たちがまだ獣人たちの奴隷だった時代……彼らが、奴隷の身分から抜け出したそのきっかけ。
槍と弓を手に入れた兎獣人は支配階級に挑み、勝利し、そして深く深く絶望した。
そうして、種族ごと反転したのだ。後に首刈り兎と呼ばれる、すべての獣人に恐れられる存在に。
―――要らぬ。要らぬ。要らぬ。そなたらは要らぬ。他の獣人も要らぬ。ドワーフと人間に滅ぼされる時を待つまでもない。その下らぬ牙と爪の誇りとやら、兎人族が槍と弓で蹂躙してくれる。
きっと、それを言った者こそは当時の兎人族の英雄、初代のサノだったのだろう。
―――ただ滅ぶのではなく絶滅したのじゃ。兎人族の臆病さは報復を恐れるあまり、虎人族の老若男女、それこそ赤子すら残さず殺し尽くす残虐性へと変貌した。危機を察知するための長耳は隠れ潜む者の息遣いをも取りこぼさず、素早い逃げ足は逆に逃げる者を追い詰める俊脚となった。
性質は反転し、在り方は変質し、獣人の種を十も滅ぼした実績によって、兎獣人たちの魂は改竄されたのだと僕は聞いた。
それは以前、シェイアの師匠であり海詩の魔女ネティエペフラムプリムが語った歴史。
兎獣人が犯したはずの罪。
猛虎の獣人たちは、真っ先に滅ぼされたはずだ。
「ああ、なんと忌まわしい。だが今日に限っては心地よい。兎を前にして胸を襲うこの憎悪の衝動こそが、猛虎の血が未だ誇りを忘れぬ証明よ。このときを以て妾は確信したぞ。月が沈んでもまた昇るように、欠けて消えてもいずれ満ちるように、猛虎の獣人はまた復活すると!」
外套の上から己の胸を押さえるその手には、金色の毛皮を持つ肉食獣を思わせる鋭い爪があって。その爪先から血が滴るのを見て、自らの身体を傷つけなければ抑えられないほどマシェリが抱く憎悪は強いのだと察して。
だから彼女は本当に、滅びたはずの虎獣人であると僕は理解した。
「ならば―――良い。今宵は血に宿る憎悪の炎のままに、戯れてやろう」
兎獣人にとって……テテニーにとって、それはあまりにも繊細な歴史だったから、僕は誰にも話したことはなかった。
だからその話を知っているのは、この中では僕とラミルンだけで。
黄虎族が女王、マシェリが大地を蹴る。驚くべき速度の跳躍にニグとヒルティースの反応が遅れた。両開きの扉を開くように、隙間をこじ開けるように、鋭い爪が二人を突き飛ばす。
突然のことにリルエッタもユーネも呪文の詠唱すらできていない。ラミルンは心底驚愕しているのか立ち尽くしていて、まっすぐに彼女を目指したマシェリは無慈悲にその喉元へ爪を振るう。
反応できたのは僕だけだった。
「逃げて、ラミルン!」
槍の石突きで割り込み、その爪を弾き飛ばして叫ぶ。




