撤退
忘れていたわけではなかった。それはそう。だって忘れろという方が無理。最後に見たのが一年も前でも、記憶はしっかりと残っている。
けれど、今朝のサノはちゃんと撤退していたし、ラミルンも冷静な方だから、油断はしていたのだろう。
そもそも……僕の腕を矢で貫いたのは誰だったのか。あのときだって、犯人の人相くらい聞いていたのなら僕じゃないって分かったはずではないのか。
戦闘時、兎人族は自制が効かなくなることがある。
「マズい、あっちに群!」
偵察の数が多すぎて何匹か見逃したか、それとも騒ぎすぎてしまったのか、なんにしろ群が集まって来てしまったらしい。
数はぱっと見では分からない。それくらい多いし、森の死角にどれほど隠れているかなんて想像したくない。とりあえず見える範囲では二十ほどか。全部働き蟻なのが救いだ。
「火炎球はあと二発よ、どうするのっ?」
午前と同じく、今回も火炎球の数で撤退のタイミングを計っている。前のパーティになにかあって早めに逃げるときは合図があるはずで、それがないなら今もまだ戦っているはず。
「どうもこうもない! 援護しろ!」
ヒルティースが突っ込む。僕は一拍、遅れてしまった。
あの数相手には厳しくないか。特にこのパーティは治癒術士がいなくて継戦能力が低い。ここは引くべきだ。
けれど一匹一匹は弱いから、勝てる可能性もあった。
「いや、どう考えても引かなきゃでしょ!」
僕はヒルティースの後ろについて駆け出す。
今日は兎人族の勇士の大半が休息日で、こっちは全力を出す日ではないのだ。こちらが合図を出せば前にいるパーティも撤退するはず。
ここは引くのが正解。ヒルティースは間違っている。けれど一人で行かすわけにはいかない。
「うるさい左やれ!」
左。
ヒルティースは左手に盾を装備している。なにかあったときは守ってくれるつもりなのか。それがニグとの普段の連携なのだろう。
つまり僕に攻撃役やれと。荒っぽいな、本当に!
速度を上げる。思いっきり跳躍する。守りは考えない。
先頭の一匹へ全力で槍を振り下ろした。脳天を砕きながら地面に叩きつける。
仕留めたかどうかは確認しない。ここは切り抜けるのを優先するべきだ。そのまま槍を思いっきり左へ振り回す。跳びかかろうとしていた二匹を纏めて吹っ飛ばす。蟻が悲鳴を上げる。
そこへ、矢が飛来した。
僕が吹っ飛ばした蟻が貫かれる。ラミルンの矢は顎から入って胴を抜いていた。あれはもう動けない。
彼女自身、かなり弓には自信があるのだろう。特に音を立てる個体には百発百中だ。さっき一矢で仕留められなかったのを言い訳していたのも頷ける。
右から蟻が跳びかかってくる。それをヒルティースの盾が殴り飛ばす。もしかして、彼は盾を殴るための装備と勘違いしているのではないか。
無視して別の個体を突き刺す。首と胴の細い節が裂けて、透明な体液が出てくる。
やっぱり弱い。これならこの数でもいけるかもしれない。そう思った。
左足が浮いた。
「え」
一匹、足の下にいた。そいつは僕の靴に噛みついていた。
冒険者の、それも前衛の靴だ。足先は硬い鉄板が仕込まれているから痛くはない。けれど蟻の顎でその鉄板をひしゃげさせガッチリと噛みつき、僕の足を持ち上げていた。
「この―――」
槍を振るう。けれどその切っ先が届く前に、蟻は頭を振った。顎に掴まれた足をぐりっと捻られる。それがビックリするくらい力強くて、抗うこともできず転ばされた。
顔から地面に激突する。鼻の奥で鉄っぽい味がした。すぐに起き上がろうとするが、左足が掴まれているせいで起き上がれない。のたうつように顔を横に向ける。
―――蟻たちの無機質な複眼と目が合った。ゾッとする。
蟻が殺到してくる。
槍を振り回して遠ざける。足に取り付いていた蟻をヒルティースの足が踏み潰した。ラミルンの矢がまたたく間に二匹を仕留める。
そして、蟻が腕に取りついてくる。生理的な嫌悪感が背筋の毛を逆立たせる。
声も出なかった。
肉が容易く噛みきられた。太い血管が断たれて血が吹き出る。腱が千切れる感覚。骨がゴリ、と鳴る音が身体の中を伝わった。
激痛の中で槍の柄を滑らせる。噛まれてない方の左手で槍の穂先の付け根を掴む。
以前、ザガムがユーネに言っていた。長柄は短く持てば近距離武器になる。槍もこうすればナイフになる。
思いっきり複眼に突き立てる。硬質な膜を突き破り、グチャリとした手応えがした。たまらず蟻が腕を放してくれた。
「そのまま!」
リルエッタが魔術を放つ。
一気に八つの魔弾。それと同じだけの蟻が絶命する。僕の腕を噛んだ蟻も吹き飛ばされた。
魔弾は火炎球とは違って単体を狙う魔術だ。初級なので消費魔力は少ないが、数を放てばその分だけ魔力を消費する。……そのうえで、同時に数多く撃つのであれば魔力制御も狙いも相当な繊細さが求められるだろう。
彼女の魔術技術と判断の正確さは本当に頼りになる。海猫の旋風団に誘われたのも、きっとそういうところを見出されたのではないか。
残った蟻たちが止まる。虫でもさすがに今のは恐怖を感じたのかもしれない。あるいは、数が減ったのでこちらを倒せないのではないかと思ったのか。
今のでリルエッタはもうほとんど魔力切れだし、僕の右腕も使い物にならないからとてもありがたい。槍を杖にして涙目で立つ。右腕はだらんと下がって血がドクドクと吹き出している。なんで今回は神官が三人もいるのに、このパーティにはいないんだ。
「引くわよ!」
「うん!」
「お、おう」
リルエッタが叫ぶように指示する。僕は頷き、僕をかばうように前に出たヒルティースも同意した。
蟻がどう出ようと、こちらにはそれ以外にない。
けれど。
ヒュ、と風を切る音と共に、何者かがおよそ人間には出せない速度で僕とヒルティースの横をすり抜ける。
思わず目で追うと、それは砂色の耳の兎人族だった。
「ちょ―――」
矢筒が空になっているところを見ると、矢が無くなったのだろう。弓を捨ててダガーを抜いて、ラミルンは数が減った蟻たちへ突っ込む。ナタのように刃を振り下ろす。それで一匹倒した。
「なにしてるの!」
リルエッタが悲鳴をあげた。蟻たちがラミルンに襲いかかる。すんでのところで跳んで躱す。……後ろではなく、前に。他の蟻がいるところに。
引くって言ったのが聞こえていない。目と表情が憤怒の色に染まっている。
「我を忘れて―――」
着地したラミルンが強靱な脚で蹴りを放つ。いっぺんに二匹を吹っ飛ばし、木の幹に叩きつける。さすがの脚力。
けれど。ダメだ。飛び出そうとして、右腕の激痛にうずくまる。
彼女はそのまま違う蟻にダガーを振るった。でも蹴りを放った直後では体勢が崩れたままで、攻撃は硬い甲殻に弾かれた。蟻は怯むこともなく跳びかかる。兎人族の少女の脛に齧り付く。
悲鳴があがった。ラミルンはダガーを振り上げてその蟻を滅多刺しにする。その間に他の蟻が群がってくる。
マズい。あれは、死ぬ。
「―――おおおっ!」
駆けつけたヒルティースの剣が蟻を薙ぎ払った。そして。
ドン、と。ラミルンの腹を思いっきりぶん殴った。
「ああクソ、聞いてるさ、コイツらの悪癖は。ほら、逃げるんだろ!」
ヒルティースが気絶したラミルンを荷物のように担ぐ。……兎人族は、獣人にしては肉体が強靱な方じゃないらしいけれども。
「撤退! 撤退よ!」
リルエッタが全力で叫ぶ。前にいる二パーティにはテテニーとサノがそれぞれいるから、ちゃんと聞きつけてくれるだろう。
ラミルンを担いで走り出すヒルティースを確認して、僕も右腕をかばいながら駆ける。




