挨拶の意味
「君、けっこうとんでもないことをするねー」
翌日の昼休憩時にそう言って僕を覗き込んできたのはスピフィで、今日の彼女は珍しく僕を捕まえようとはしなかった。
「どういうこと?」
僕はパンを囓りながら首を傾げる。
今日の昼食は野菜と塩漬け魚のスープにパンで、さらに瑞々しい果実までついていた。日持ちや重さを考えると生の果実はそんなに積んでいないだろうけれど、荷馬車があると遠征の食事も少し豪華になるらしい。
もっとも休憩時間は作業を進めなければなので、あんまり味わって食べるわけにはいかないのだけれど。
「昨夜の試合だよ。まったく、挨拶もなしにいきなり斬りかかるとか、普通貴族にする?」
陽はほぼ真上で、進む先には大きめの川があった。ここは以前、ニグやヒルティースと一緒に川魚を捕った場所だ。今その河原では兵士たちが湯を沸かして、水の補充をしている。
一ヶ月前に神官さんと来た時も、ここについたのは出発して二日目の昼頃だった。昨日は暗くなるギリギリまで進んだし、今日も急ぎ気味の行軍だったので遅れはだいぶん取り戻せたらしい。
おかげで昼休憩も少し長めにとれるようだった。
「やっぱりダメだった?」
「不敬罪で死刑もありうる」
ゴフッ、と食べていたパンを喉に詰まらせた。え、本当に?
「西のバカ共は沸いてたけど、アタシは見ててヒヤヒヤしたよ。気持ちよく勝ってもらって良かったねチビちゃん」
「そ……それは、ええ……?」
ユーネに水を渡してもらって、詰まったパンを飲み込む。
不敬罪。貴族ってそういうのあるのか……。
「まあ、野良試合とはいえ貴族のエルノ君が挨拶してきたのだからね。ちゃんと返すべきではあったかもしれないな」
グミさんは料理には手をつけず、魔術陣を描くためのインクを調合しながら口を挟む。食事は馬車に揺られながらでもできるとのことだけれど、この休憩は長めにとるはずだからスープが冷めてしまうのではないか。
「そういうことでもないんだよ、錬金術師の姉ちゃん」
はぁー、と息を吐いて手で頭を抱えると、眉間にシワを寄せるスピフィ。
彼女は左の犬歯で下唇を噛んで、少し躊躇ってから僕を真っ直ぐ睨む。……今、なにかを迷ったような。
「いいかい、チビちゃん。西のバカ共はどうせこんなこと教えやしないだろうけど、試合ってのは極論、勝つためにやるものじゃないんだ」
初めて見る真面目な表情で、スピフィは諭すようにそう言った。
試合は勝つためにやるものではない……それはまあ、少し分かる気がする。だって僕はいつも戦闘訓練で試合していて、そのたびに負けているから。
僕はいまだに、ニグにもヒルティースにも勝ったことがなかった。
「あれは訓練試合、ってことだよね? それは分かるけれど……」
「違う。たとえ国王の前でやる御前試合でも、だ」
国王の前。
そんな人の前で戦いをするなんて想像もできなかったけれど、それは絶対に負けられない時ではないのか。
「絶対に負けられない戦いってのは、命がかかってる時。戦争、決闘、殺し合い、魔物討伐。そういった時に勝つために今の力を試し、互いに技術を高め合う。それが試合ってものの本質だ」
真剣な声で教えられて、呼吸が止まった。
……昨日、試合で使ったのは木剣だ。よっぽど当たり所が悪くなければ、負けても死ぬことはない。だからあれはたしかに、勝たなければならない試合ではなかった。いや、最初はさっさと負けようとすら思っていたほどで―――。
奇襲なんてする必要はまったくなかった。なのに僕はそれをした。……そうすれば勝てると思ったから。
技術を高め合う、なんて思ってもいなかった。ただイラッとして、いきなりやってきたエルノに勝ってやろうとだけ思っていた。
「試合前にお願いしますって言い合うのはね、教えてくださいお願いします、って意味なんだよ」
「教えて……ください」
エルノは僕と試合することで、強くなりたいと思っていた……ということ。だとしたら、あの時に笑っていたのは、彼が知らない戦い方をしたからか。
なら、僕はたしかに失礼だ。だって教えてもらった。同年代であれだけ強い子がいるんだって知ることができた。
彼に教えてもらったのに、僕だけが挨拶をしていない。……それは、なるほど失礼なのだろう。
「ずいぶん礼節にこだわるのね、魔剣士スピフィ。もしかして良い家柄の出なのかしら?」
音を立てずスープを飲んでから、リルエッタは東の最強を二つ名つきで呼んだ。
少し口の端が上がっているところを見ると、もしかしたらスピフィの家柄になにか心当たりがあるのだろうか。
「……剣士やってりゃ一般常識だっての」
「そう。でもまあ、今回は大丈夫でしょう。エルノはあれくらい気にしないから」
「お、なになに? チビ嬢ちゃんはアレと知り合いだったりする? じゃあぜひとも仲良くなれる方法を教えて欲しーね。東の筆頭として領主の仕事も請けた時に会ったことあるんだけど、そんとき抱きついたら嫌がられて避けられちゃうようになってさ! ニャハハ!」
「そうね。抱きつかなければいいんじゃないかしら」
まあ抱きつかれるの恥ずかしいしね。それとスピフィに掴まれると動けなくなるからツラい。
というか、エルノに避けられてるのかスピフィ。
「あ、そういえば聞いたことあったようなー。お嬢様ってたしか、領主様の息子さんと許嫁なんですよねー?」
……………………は?
「ちょ、ちょっとユーネ! 貴女それ誰から聞いたのっ?」
「え? マグナーンのおじいさまからですけどー。お嬢様はいずれ領主様のお子さんに嫁ぐ予定だから、無理はさせないように見張ってほしいってー」
そういえばユーネって、元々はリルエッタを守るために冒険者になったんだったっけ。最近その役忘れてるんじゃないかって気もするけれど。
え、ビックリだ。許嫁って本当にあるんだ。町ってすごい。
「リルエッタ、あのエルノって子と結婚する―――もっ!」
「しないわよ。するわけないでしょう?」
がしぃっ、と顎を掴まれた。ギリィ、と握られて言葉が中断した。リルエッタが頬を引きつらせて笑っていた。
すごい恐かった。
「許嫁ってのは、おじいさまが言ってるだけよ。妄言の類ね。……なんでもエルノが産まれた時、ウチに歳の近い孫がいるからってしつこく売り込んだらしいのよね。それであんまりしつこいから領主が根負けして、良縁がなかったらって話を取り付けたってワケ」
「それがリルエッタってこと? じゃあ許嫁って間違ってないんじゃ……」
「相手は貴族、それも子爵の嫡男よ? 良縁なんていくらでもあるに決まってるじゃない。それも貴族同士のね。いくらマグナーンでも身分違いだもの、絶対にあり得ないわよ」
ああ……なるほど。つまりエルノに他の結婚相手がいなかったら、という条件付きで、彼は家柄がすごいからすごくモテるのか。
それは、うん。ちょっと可能性は低いかもしれない。
「えっと……チビ嬢ちゃん、それってキープされてるだけなん―――」
スピフィの言葉は、目の前に突きつけられた短杖によって遮られた。
その人、東の最高ランク冒険者なんだけど。
「……まあ、それで助かっている部分はあるわ。だってエルノが結婚するまで、わたしに他の縁談は来ないってことだもの」
両手を挙げて降参を示すスピフィに頷いてから短杖をしまい込んだリルエッタは、フフフと暗い笑みを浮かべる。
「つまりわたしはそれまで、本来は政略結婚の道具であるマグナーンの女でありながら自由を謳歌できるってわけ。こうして冒険者になれたのも彼のおかげと言えるわね。ええ、そのあたりはとてもとても感謝しているわ」
彼女が冒険者になれたのはたしか、下水道の新エリア発見で冒険者の活動が商売の種になることが分かったからだ。
けれどその前提として、縁談関係の話から立場的に浮いている、という彼女個人の事情があった……ということなのか。
エルノも冒険者に憧れているけど貴族の長子だからなれないという話だったし、いい家に生まれるってことは、もしかしたらいいことばかりではないのかもしれない。
「問題はエルノに人気がありそうってことよね。剣の才能があって頭もわりといいし、顔も整ってて綺麗な金の髪まであるとなれば、絶対にモテるに決まってるわ。あれじゃ結婚相手なんて簡単に決まってしまいかねない。貴族なんて十二、三くらいで婚姻を結ぶこともよくあるし、それまでに……―――」
「フフン、照れるねリルエッタ! 君にそんなに褒められるのは初めてだ」
声は上方から。なぜ上なのか。というかなぜ彼がここにいるのか。
見上げると、陽の光に金の髪をきらめかせるエルノ・リオノックスが、馬車の屋根に座って僕らを見下ろしていた。




