神は人を愛す。
「ひわっ!」
ほんの一瞬の落下感と、ドタンと音。そして左肩に涙が出るような痛み。
ヒリエンカの港町を出て四日目の朝は、そんな情けない叫びから始まってしまった。
「……なにやってんだ、ガキ?」
「寝ぼけてるなよ……」
同室の二人から苦情が来る。それも当然だろう。暑いからと全開にされた木窓から見える外は、まだまだ薄暗い。この様子では日の出もまだなのではないか。
旅は日中に距離を稼ぐため、日の出と共に出発するのが普通である。けれどこの村とニビトイ村はそこまでするほど離れていないので、今日の出発予定は少しだけ遅めだった。
三日間の移動と野宿で疲れているのだ。時間ギリギリまで休みたい気持ちはすごくよく分かる。
「うう……ごめん」
打った肩をさすりながら謝る。けれど返事はなくて、どうやら一瞬だけ起きたけどまた寝てしまったらしい。
羨ましい。寝台から落ちた痛みと驚きで、僕はもう目が覚めてしまった。
泊まった宿の寝台の心地よさはすごかった。柔らかくて清潔で、心地よすぎて熟睡しすぎて、落っこちてしまうくらいに。
それに屋内というのもよかった。いくら交代で見張りを立てていたとはいえ、やはり野宿よりも断然安心できる。外だと用心のために鎧も脱げないのだ。
宿で寝られるというのはすごくありがたいんだな、とすごく実感してしまった。
……もっとも転げ落ちた理由は、寝台で寝るのが初めてだったから、というのもあるだろうけれど。
「顔洗お……」
昨日は夕食の後にすぐに寝てしまったので、睡眠は十分足りている。眠気も吹き飛んでしまったので、しかたなく寝ぐせ頭を掻きながら部屋を出る。
きっと隣の部屋では、リルエッタとユーネもまだ眠っているだろう。初めての遠征で疲れていたし、起こしたくはない。足音を忍ばせながら廊下を歩く。
この村に宿があるのは、たまに旅人が利用するかららしい。北西へ山越えするか回り込むかで向こう側へ行くと、この辺りとは別の領主さまが治める町があって、そのさらに西は獣人がたくさん住んでいる国がある。
とはいえそんな旅人はあまりいないらしく、宿の利用者は僕たちだけのようだった。
平屋の宿の裏口から出て、店の横にある井戸へと向かう。
ヒリエンカだと下水道のある土地が人気だけれど、こういう村だと水場の近くがいい土地だ。だからこの宿は一番の一等地にあるらしい。
まだ早い時間だからか、村の人は誰もいなかった。……とはいえ朝ならすぐにこの村の人が水を汲みに来るだろう。誰かが来る前に手早く水を汲んで、顔を洗い寝ぐせを直す。
そうして、なんとはなしに宿の庭の方へと足を向けた。
この平原の村は、家と家の間隔が広い。山間のニビトイ村や二階建てが並ぶヒリエンカと違って、土地に余裕があるのだろう。特にこの宿は建物も大きめなせいか、庭も広くて軽い散歩ができるくらい。
朝の涼しい空気を感じながら、ところどころ雑だけれど手入れされた庭を歩いて行く。どうやら天気には恵まれているらしく、朝焼けの空は綺麗に晴れていた。
ふと、もしかしたらいるのではないかと思い至って、僕は周囲を見回しながら歩いて行く。
疲れてても寝坊なんかする人じゃない。まだ日が昇る前に起き出してしっかりと顔を洗いはするけれど、同室の二人の眠りを邪魔しないよう気遣って部屋には戻らない。そんな人だ。
捜してみれば、そこまで時間もかけずに見つかった。
昇り始めたばかりの朝日を浴びて、その女性は……カラトア・メヌア辺境巡回神官は両手を胸の前で組み、北東へ向けて静かに祈りを捧げていたのだ。
北東にはアーマナ神の心臓たる総本山がある。この村には教会がないから、そちらへ向かって祈っているのだろう。
僕は声をかけずに隣へ並んだ。同じように胸の前で手を組んで、瞼を閉じる。
「―――なにを祈るのです?」
「んー……なにも」
聞かれたから、答える。
正直、神さまって人のことはよく分からない。神官さんからよく聞いているし本でも読んだけれど、なんだかいろんな話があって、知れば知るほどどういう人なのか分からなくなってしまった。
一回会ってみたいとは思うけれど、すごく昔に肉体は亡くなって、その骸はこの大地になっているらしい。
「では、日々の感謝を」
「うん」
目を閉じたまま、頷く。それもまた祈りだという。
アーマナ神は大地母神。この大地の上で生きられることこそ、神の加護。
だから嬉しかったことを伝え、感謝する。すべてはこの地に住まわせてくれる神の思し召しなのだから。
神はすべての人を愛している。神の愛を受けて僕たちは生きている。だから感謝を伝えるのだと。
「予定通りに行ければ、今日の夕方にはニビトイの村に辿り着くでしょう」
僕が宿の寝台の柔らかさを感謝し終わった後、神官さんは組んだ手を解いて僕へと視線を向ける。
「せっかくの里帰りですが、あまりゆっくりはできません。あなたは村の人たちに、今日までの経緯を説明することになると思います」
「うん、分かってる。ちゃんと何を言うか考えておくよ」
再会してから初めて二人きりになれたけれど、やっぱり神官さんは神官さんだ。僕が村にいたときから、この人はこんな感じだった。
聖職者はみんなの幸せを願う人だ。だから特別に誰か一人を贔屓するようなことは、あってはならない。―――そういうものらしい。
親のいない僕は神官さんにずいぶん世話になってきたし、村で一番関わりが深いし、多くのことを教わってきた。けれど神官さんはきっと、そうするのが当然だからそうしてくれたのだろう。
みんなのために、幸せを願う。―――聖職者のそれは、神の愛とやらに近しいのではないかと思う。
神は人を愛す。
神は、すべての人を愛している。その愛は分け隔てなく、みなに平等に与えられる。
だから、神さまに特別な誰かはいない。誰も神さまの特別にはなれないのだ。
「そろそろ宿に戻りましょう。朝食を食べたら出発です」
神官さんはいつもどおりほんの少しだけ微笑んで、僕を促す。僕は頷いて、神官さんの隣を歩いた。
……もし神官さんが僕の親だったら、こういうときは手を繋げたのだろうか。




