胸に積もる恐怖
―――商品には、価値をつけなければならない。
料理に使う塩は品質のよいものだが、今の製法なら造るのは難しくないから普通。
色と味の付いた藻塩は少し古くさい製法で、手間がかかる分だけ少し高め。
貴族に卸すような塩は特に気をつけて混ざりを取り除くから、高値をつける。
保存食をつくるために大量に使う塩は、船乗りや冬の生命線だ。多少質が悪くてもいいから、とにかく安くつくる。
高い塩は、生きるのに必須ではない。
安い塩は、生きるのに必須だ。
商品には価値をつけなければならない。
しかし値段の高い品が価値の高い物であるなどと、必ずしも商人は考えない。高価なものは金持ちにしか売れないからだ。
品の値段を知るなら目利きで分かる。けれど品の価値はまた別だ。
今年の塩でつくった保存食で冬に餓死者が出なかったら、また来年も同じ量の塩を買ってもらえる。そんな価値だってあるのだから。
―――人を値段や価値で考えてはいけない。
商人としての性質か、どうしても人を値踏みしてしまうことがある。
それはいけないと、マグナーンの祖父は語った。それを聞いた時は、男子は経営の駒に、女子は政略結婚の道具にと血縁の価値を定める人が、なにを偉そうにと反感はあったが……今は実感をもってそれは正しいと思える。
高みを目指す者は困難な挑戦をするだろう。値は高くなるが、たまに暴落する。
安寧に座す者はほどほどの仕事で数をこなすだろう。安定して信頼がおける。
怠惰を求めるのであれば報酬の良い依頼を求めるだろう。不定期しか働かず信用もおけない。
そして持たざる弱き者は、生きるために必死に働く。
そんなふうに考えていては、本質から遠ざかるばかりだ。
高ランクの冒険者ほど一般人の常識が通じない。重ねた経験が、潜った死線が、逸脱した実力が、精神構造を普通から遠ざける。
実力以下の仕事ばかりする者は、現状に甘んじるがゆえにギルドからの評価を気にしない。素行の悪さややる気のなさが目立つ。
余暇を楽しむために短期間で稼ごうとする者は、驚くほど要領がいい。仕事はトラブルこそが最も面倒だと知っているのか、完璧にこなして何の憂いもない暇へと帰っていく。
そして弱くて貧しい者は少しでも楽をしようとして、ズルにばかり頭を回すのだ。
あのシェイアという魔術士はその最たる例だろう。実力はあるのに怠惰で、ほとんど仕事をしない彼女には価値を感じられなかった。
死蔵された宝剣のようなものだ。値段は張っても使われないのであれば、価値をつけるわけにはいかない。
けれど、あの島に行ってみて分かった。あの師を目の当たりにして理解した。―――アレはとんでもない何かを隠し持っている、と。ただ、それが通常の生活を送るにはそぐわないだけで。
人は値段や価値で測れない。そんなことは基本で、何度も教えられたし実感したし、すでに分かっている。
でも、でも……祈るように、考えてしまうことはあるのだ。
強い者は、どこへだって目指せる。
弱い彼は、ただ生きるのに必死だった。
保存食をつくるときに使うような、混ざりのある質の低い塩のように。
安い仕事でも一つ一つしっかりこなして、毎日あくせく働くわたしや彼は……自分たち低ランクこそは、人々の生活を助ける冒険者としての役割の、土台のようなものになれるのではないか、と。
そして、ああ、そしてだ。これはわたしの個人的で勝手な考えではあるのだけれど……そうやって日々を過ごす方が、彼のためにはいいのではないか、と思うのだ。
「怖いのよ、貴方は」
隣を歩く少年に届かない程度の声量で、ぽつりと呟く。
初めてゴブリンと戦って、危ういところを助けられた時……あれがもし普通の物語だったなら、きっとわたしはヒロイン役だったのだろう。
酷いことを言って自分から別れたのに、心配して追ってきてくれた彼に格好良く助けられて、恋に落ちる。ああ、それはとても分かりやすい物語だ。誰もが思い描く恋愛話ではないか。
現実は、恐怖した。
生々しい音と共に、鮮血を噴き出してグリンと逆さになったゴブリンの頭。
憤怒の表情でこちらを一瞥だけして、すぐに次へと向かう少年の横顔。
敵に馬乗りになって、顔面の骨をグチャグチャに砕いてなお殴打し続ける姿は、悪鬼のようにしか見えなかった。どちらが魔物なのかと目を疑ったほどだ。
あの時に叩かれた頬の痛みは、今でも鮮明に思い出せる。
サハギンの群を相手に囮役を引き受けた時もそうだ。
誰もそこまでやれとは言ってないのに、自ら囲まれるように仕向けて、大立ち回りをやってのけた。
一匹も倒せなかったと言っていたけれど、そんなことは問題ではない。あの状況下であれだけ戦闘を続けられる精神こそが恐ろしい。紙一重で死に直結する場面でも耐え得る天稟だ。
最後にした援護が間に合わなかったらと思うと、ゾッとする。
けれどそんなふうに人が変わったようになるのは、戦いの時だけだ。普段の彼は実に大人しい少年だった。
お人好しで、真面目で、田舎者だからかなんでもないようなことにでも興味を持つ子。
教典をちゃんと読んでいたりと意外と教養があり、読み書き計算もできて、体力もあって、わたしたちのことも気遣ってくれて。
―――親が亡くなっているから命の重さを知っていて、兄姉と助け合って生きてきたから働くのは日常で、たまに話に出てくる神官さんは彼が生きていくために必要なものを与えていて。
「……おかしいと思ってたわよ」
同年代と比べて、自分はかなり背が低い方だ。
偏食で小食だからだとユーネから言われるけれど、親の遺伝も関係しているのではないかと思う。
そんなわたしと彼の身長は、ほとんど変わらない。
九歳か。三年前のわたしなんて、まだ魔術を習い始める前だっていうのに。
ああ、そうだ。分からない。彼には自分の目利きがまったく通用しない。現段階で弱いことは分かっていても、奥に何を秘めているのかわかったものではない。
分からない。自分には、彼がどうすれば一番いいのか分からないのだ。
それでも……一つだけ言えることがある。
―――キリネ君。君はいずれ、そうやって英雄になるだろう。
そんな未来だけは、絶対に認めない。
だから……歳のことも、両親のことも驚きで、あの満月の夜は一睡もできないほどだったけれど。一番気になったのは商人になりたくて町に出てきたという話で。
元々は冒険者になるつもりがなかったのなら……今からでもそちらの道を用意してあげるべきなのではないかと。そうすれば、絶対に認めたくない怖い未来は訪れないと―――そう思ったのだ。
たとえ、それが……今のパーティを解散してしまうことになったとしても。
「はい、ついた。ここだよ」
その少年の声に、わたしは顔を上げる。




