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第9話 囮の筆跡

 小夜が「囮」と書かれた地図を盗み出し、真白の看取り帳へ挟んだ。


「前の写しとは違う」


 真白は地図を開いた。


 以前、小夜が見せたのは、村の名と赤い一字だけだった。


 今度は原本である。


 山と川、源氏と平家の進路、兵糧を運ぶ道まで記されている。村を囲む赤い丸から三本の線が延び、倶利伽羅の祠を通って都へ続いていた。


「どこから」


「義景の荷から」


「また入ったの?」


「向こうが、うちを使い走りにしたんや。机の下へ落ちた物を拾っただけ」


「落ちた地図を、帳面に挟んで持ってきたんですね」


「細かいこと言うと嫌われるで」


 瑠璃と同じことを言われた。


 真白は笑えなかった。


 向かいに座る玄斎の息が、今日も黒い。


 墨のような筋は小屋の外へ伸び、どこか見えない場所で途切れている。縁に白はない。死は今日でも明日でもない。


 だからこそ怖かった。


「先生、その息はいつからですか」


「わしには見えん」


「何か誓いを立てましたか。黒い息は、大きな歴史か誓いに死を固定された人に出ます」


「なら、昔から誓いだらけじゃ」


「ごまかさないでください」


 玄斎は真白の頭を木刀で軽く叩いた。


「今は地図を見ろ。わしの死を追えば、目の前の罠を見落とす」


「先生も目の前にいます」


「だから困る」


 背を向けた師の黒い息は、揺らがなかった。


 真白は地図へ視線を戻す。


「小夜。これだけでは、村が囮だった証拠にはなりません。誰が書いたのかも」


「にいやんは、まだ兄さんを信じたいんやな」


「信じたいから、決めつけたくないんです」


 小夜は膝を抱えた。


 煤の落ちない指が、胸元の鈴の欠片をいじる。


「鎌頭組の生き残りがおる」


「誰です」


「片耳の弥助。村から逃げて、源氏の兵に捕まった。うち、兵糧を運ぶふりして会いに行った」


「一人で?」


「弁円のおっちゃんも一緒や」


「あの人は、そういうところだけ口が堅いですね」


「弥助は言うた。襲う村も、火をつける時刻も、最初から決められとったって」


 小夜の声が震えた。


「報酬は、烏の羽みたいに光る砂金。村人を全部殺すな、銀髪の子が何人救えるか見届けろって」


 真白の指から力が抜けた。


 看取り帳の頁が風でめくれる。


 源兵衛。おつね。佐吉。弥乃。清太。まつ。伊平。


 七つの名が現れた。


 あの夜、真白がどちらを選ぶか、誰かが見ていた。


「にいやんの村は、最初から試す場所だった」


「誰のための試験です」


「にいやんを使いたい人のためや」


 義景が栗餅を持って現れた光景が蘇る。


 襲撃の直後。早すぎる救援。ぴたりと合った草履。黒い煤のついた指。


 真白は首を振った。


「兄上だと決まったわけではありません」


「地図は兄さんの荷から出た」


「戦の地図なら、報告として集まります」


「じゃあ、これは?」


 小夜が地図の端を指した。


 赤い字で、小さく追記がある。


 ――白息、七。救命、二。鈴、動かず。


 村で白い息が出た人数と、真白が助けた人数。


 鈴が鳴らなかったことまで記されている。


「誰かが、ずっと見ていた」


 小夜は言った。


「井戸へうちを入れた人も、同じや。袖から黒い砂が落ちた。暗くて土やと思ったけど、陣で見た砂金と同じ匂いがした」


「匂い?」


「焦げた羽の匂い」


 真白は、綾取姉妹の結が見せた報酬を思い出した。


 烏羽の砂金。


 御使。


 兄の扇。


 別々だった点が、一本の線になろうとしている。


「真白」


 戸口から瑠璃の声がした。


 男物の笠をかぶり、旅の従者に姿を変えている。平家の陣を抜けるたび、変装が上手くなっていた。


「見せたいものがある」


 瑠璃が取り出したのは、細く折られた密書だった。


「平家の評定へ届いた。都を離れる場合の道筋よ」


 地図の上へ広げる。


 平家の車列が通る道に、三つの祠が印されている。その一つは、鵺の老人がいた倶利伽羅の社だった。


「誰が、この道を勧めたんです」


「院の御使。平家が西へ退くなら、追手を避けられると」


「源氏では平家の動きを探り、平家には逃げ道を教える」


「両方を、同じ場所へ導いている」


 瑠璃の指が、祠と祠を結ぶ。


 線の先には、まだ名も書かれていない海がある。


 壇ノ浦。


 真白には、そう見えた。


「御使は、僕を救命が起きる場所へ運んでいる」


「そして私たち平家を、鈴ごと同じ道へ」


「でも、なぜ」


「四つの封印を外したいからでしょう」


 分かっていた答えを、瑠璃が言葉にした。


 小屋が静まり返る。


 玄斎だけが地図ではなく、真白を見ていた。


「証拠をもう一つ探せ」


「先生?」


「疑いは、怒りで振れば自分を斬る。兄を問うなら、逃げ道のない証拠を持て」


 真白はうなずいた。


 腰の黒鞘を外す。


 義景にもらった刀だった。


 鞘と柄の間に、細い短冊が挟まれている。贈られた夜、包みの底にあったものだ。


 ――人を斬らず、戦を終えるために。真白へ。


 兄の字だった。


 やわらかく流れる線。真の字の最後だけ、右へ小さく跳ねる癖。


 真白は地図の朱書きと並べた。


 囮。


 白息、七。救命、二。


 赤と墨。筆の太さも、書かれた目的も違う。


 それでも、跳ね方は同じだった。


「兄上の字です」


 認めた瞬間、胸の内側が冷えた。


 栗餅を差し出した手。


 熱に浮かされた夜、握ってくれた手。


 同じ手が、村を囮と書いた。


「すぐ問い詰める?」


 瑠璃が尋ねる。


「いいえ」


「怖いの?」


「怖いです」


 真白は短冊を元へ戻した。


「でも、兄上が何をしたかと、なぜしたか。両方を確かめます」


「なぜを聞けば、許してしまうかもしれないわ」


「許すために聞くんじゃありません」


 玄斎の言葉を思い出す。


 許されるために覚えるのではない。次に手を伸ばすためだ。


「次に、何を選ばされるのか知るためです」


 小夜が顔を伏せた。


 真白はそれを、村のことを思い出したからだと思った。


「小夜」


 小屋の外から声がした。


 義景だった。


「ここにいるのだろう。千代の居場所が分かった」


 小夜の体が凍りつく。


「どうして、姉ちゃんの名を」


「探していると聞いた。都の東にある商家で無事だ」


 真白は息を殺した。


 小夜が千代を探していることは、村を出た仲間と真白しか知らなかったはずだ。


 義景は戸を開けず、外から続ける。


「迎えを出そう。都はまもなく戦場になる」


「兄上」


 真白が立ち上がる。


 瑠璃は密書を懐へ戻し、裏口へ身を滑らせた。


「次に会うまで、兄を刺さないで」


「刺せません」


「知っている。だから心配なの」


 彼女の姿が林へ消える。


 小夜は原本の地図を看取り帳へ挟み、胸へ抱えた。玄斎が短冊のある刀を布で覆う。


 真白が戸を開けると、義景は一人で立っていた。


 烏羽の扇も、護衛もない。手には色あせた紅の組紐がある。


「千代さんのものですか」


 小夜が奪うように受け取った。


「姉ちゃんのや。うちが結んだ」


 組紐の端は不揃いで、十三の少女が指で編んだ跡が残っている。


「本人に会ったんですか」


 真白が問う。


「私の者が確かめた。奉公先の主人が移動を禁じている。都を出るには、こちらから話を通す必要がある」


「どの商家です」


「今は言えない」


 小夜の顔から喜びが消えた。


「なんでや」


「場所が漏れれば、平家方に連れていかれるかもしれない。迎えを出すまで待ちなさい」


「うちも行く」


「危険だ」


「姉ちゃんや!」


 小夜が義景の袖をつかむ。


 義景は振り払わなかった。膝を折り、小夜と目の高さを合わせる。


「必ず会わせる」


 その声は真剣だった。


 村を囮にした筆跡の人間と、目の前で少女を安心させようとする人間が、真白の中で重ならない。


「兄上は、なぜ小夜の姉を探したんです」


「お前が気にかけていたからだ」


「僕は、頼んでいません」


「弟に頼まれなければ、何もしてはいけないのか」


「そういう意味では」


「真白」


 義景が近づいた。


 頬に残る綾の傷へ指を寄せる。触れる直前で止め、眉をひそめた。


「また無茶をしたな」


「誰から聞きました」


「お前の顔を見れば分かる」


「ほかのことも、見れば分かるんですか」


 真白は兄の指を見た。


 地図に朱を入れた指。


 義景は問いの裏に気づいたようだった。それでも笑みを崩さない。


「知りたいことがあるなら、聞きなさい」


 今、地図を突きつければいい。


 なぜ村を囮にした。


 なぜ白い息と救命の数を記した。


 なぜ鈴を狙う者へ砂金を渡した。


 問いが喉まで上がる。


 だが、玄斎の言葉が止めた。


 逃げ道のない証拠を持て。


「都で、何が起きているんですか」


 真白は別の問いを選んだ。


「平家が帝を伴い、西へ落ちる。源氏は都へ入る」


「兄上も行くんですね」


「ああ。戦を終わらせるために」


 刀の短冊と同じ言葉だった。


 人を斬らず、戦を終えるために。


 けれど兄の言う終わりが、誰の死でできているのか、真白にはもう分からない。


「真白。都へ近づくな」


「なぜです」


「今夜、火が出る」


「まだ燃えていないのに、どうして知っているんです」


 義景の笑みが、初めて止まった。


 そのとき、遠くでいくつもの鐘が鳴った。


 都から上がる警報だった。


 ◇


 街道を、平家の車列が埋めていた。


 日が暮れても列は途切れない。牛車、荷車、徒歩の兵。屋敷から運び出された調度と、泣く子を抱いた女たち。都を捨て、西へ向かう人の流れだった。


 源氏の斥候に交じり、真白は丘から見下ろした。


 一つの駕籠だけ、簾がわずかに上がる。


 紫の瞳が、まっすぐ真白を見た。


 瑠璃だった。


 互いに声は届かない。


 車列が二人の間を流れ、簾が下りる。


 その夜、平家の都落ちが始まった。


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