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第8話 鳴らさぬ鈴

 瑠璃が鈴を水へ沈めると、水面だけが一度震えた。


 音はしない。


 木椀の縁にも、机にも、真白の指にも振動は伝わらない。


 ただ鈴の周りから丸い波が生まれ、静かに広がった。


「もう一度」


 真白が言う。


「十七回目よ」


「次は鳴るかもしれません」


「十六回鳴らなかったものは、たいてい十七回目も鳴らないわ」


「僕の三息は、三回目で変わることがあります」


「それは比べ方がおかしい」


 瑠璃は呆れながら、鈴を水から上げた。


 綾取姉妹の襲撃から一日。


 山寺が安全ではなくなり、真白たちは人の使わなくなった炭焼き小屋へ移っていた。窓は小さく、昼でも薄暗い。机の上には鳴らさぬ鈴、写し取った記録、甚助が落ちかけた崖の図が並んでいる。


 玄斎は壁にもたれ、腕を組んでいた。


「もうよかろう。水が先に音を覚えとる」


「先生は知っているんですね」


「何をじゃ」


「この鈴と、白笹のことです」


 玄斎の鼻の横へ指が動きかける。


 真白は先に言った。


「そこを触ると、嘘だと分かります」


「育て方を間違えたのう」


「育てられた覚えはありません。毎朝、木刀で殴られただけです」


「あれが育児じゃ」


「ずいぶん乱暴な一族ね」


 瑠璃が真顔で言い、玄斎は酒瓢箪へ逃げようとした。


 真白が取り上げる。


「話が終わるまで駄目です」


「兄ができ、姫ができ、師匠の扱いだけ悪くなりおる」


「姫ではなく、瑠璃です」


 瑠璃の訂正に、玄斎の目が少しだけやわらいだ。


「なら瑠璃。おぬしの一族では、何と伝わっとる」


 瑠璃は巻物の写しを開いた。


「昔、都へ来た怪物を、白笹一族と平家の祖が封じた。怪物の四つの面を鈴へ移し、四匹の虫に鳴かせた。平家の鈴守は音を外へ出さず、白笹は死の流れを鈴から遠ざける。それだけです」


「肝心なところを抜いて伝えたか」


「肝心なところとは?」


 玄斎は答えず、机の四つの鈴印を見た。


 一つは、ほかより色が薄い。


「真白。あの足軽を助けたとき、何が起きた」


「甚助さんの息が白くなりました。崖から落ちる三息目に手をつかんで、引き上げた瞬間、遠くで鈴が一度鳴った」


「その前に助けた者は」


「千吉も白い息を吐いていました。でも、鈴は鳴らなかった」


 瑠璃が真白の左手を見る。


「私に触れる前だから」


「社の老人も、黒に触れた手が死の行き先を変えると言いました」


 真白は手首を握った。


 今も時折、氷の輪を巻かれたように冷える。


「黒い息と鳴らさぬ鈴が、道をつないだのかもしれません」


「その通りじゃ」


 玄斎は観念したように座り直した。


「白い息は、避けられたから消えるのではない。来るはずだった死は、行き場を失う。白笹の目を持つ者が、鈴守の黒へ触れた後で死を曲げれば、その死は鈴へ流れる」


「死が、封印をほどく?」


「正確には、鈴の内にある一つの面が、流れ込んだ死を食う。そのたび、虫が一匹鳴かなくなる」


 炭焼き小屋が急に狭くなった。


 真白は、息のない老人の影を思い出す。


 猿の顔、虎の胴、蛇の尾。


「あと三つ、と言っていました」


「四つすべてが空になれば、封じたものが戻る」


「何が戻るんです」


「鵺じゃ」


「鵺……」


 瑠璃がその名を繰り返す。


「昔話では、雲に隠れて帝を病ませた怪物と聞きました」


「昔話は、人に都合よく短くなる」


 玄斎は炭の欠片を取り、机へ四つの形を描いた。


 猿の顔。蛇の尾。狸の胴。虎の手足。


「鵺は一匹の獣ではない。戦場で生まれた四つの恐れが、同じ腹へ入ったものじゃ。逃げたい猿、恨みを残す蛇、味方へ化ける狸、殺す力を欲しがる虎。人が争うほど肥え、敵味方の見分けを奪う」


「人を食べるんですか」


「肉より先に恐れを食う。食われた兵は、隣の仲間を敵と思い込んで斬る。最後に残った肉を、鵺が食う」


 真白は火牛の夜を思った。


 あの混乱へ鵺が放たれれば、谷へ落ちる前に兵同士が殺し合う。


「白笹は四面を切り分け、平家の祖が鳴らさぬ鈴へ移した。鈴虫は封印の錠であり、見張りでもある。鳴いているかぎり、面は眠る」


「なぜ鈴を壊さなかったの」


 瑠璃が問う。


「鵺の力は、人の恐れから生まれた。器だけ壊せば、四面はまた戦場で一つになる。封じて、人の世が静まるのを待つしかなかった」


「静まらなかったから、今もあるんですね」


「そういうことじゃ」


 名を聞いた途端、山の鳥が一斉に飛び立った。


 羽音が遠ざかる。


 瑠璃は腰の鈴へ手を置いた。


「この中に、鵺がいるの?」


「すべてではない。四つに分けられた力と、外へ出るための道がある。本体は祠から動けん。じゃが影なら、鈴の亀裂を通って、救いが起きた場所や鈴のそばへ現れる」


「あの老人が」


「見たのか」


「真白が。息をしていなかったそうよ」


 玄斎の顔が険しくなった。


「なら、もう人の形を取るほど戻っておる」


「それと、一つだけ覚えておけ」


 玄斎は、真白の左手を指した。


「黒息に触れて道が開いたお前が、白い筋へ自ら手を入れ、三息の死を曲げたときだけ、死は鈴へ流れる。仲間だけで救い切った命まで、鈴が奪うわけではない」


「僕が手を伸ばすことを、選んでいるのか」


「選ぶのはお前じゃ。あれは、お前の選択が通る道の先で口を開けておるだけじゃ」


「なぜ、今まで黙っていたんです」


 真白の声が低くなった。


「僕が甚助さんを助ける前に言ってくれていたら」


「見捨てたか」


「それは」


「火牛に追われ、崖へ落ちる足軽を見て、この鈴が鳴るから手を離したか」


 答えられなかった。


 甚助の懐には、生まれてくる子の知らせがある。


 たとえ鵺のことを知っていても、真白は手をつかんだだろう。


「だから黙っていたんですか」


「違う。お前に、選んだつもりになってほしくなかった」


 玄斎は真白をまっすぐ見た。


「見えることと、選んでよいことは別じゃ」


「どういう意味です」


「三息が見えるからといって、誰を生かし、誰を死なせるか決める権利まで得たわけではない。鵺を恐れて手を離すのも、善意を言い訳にすべてへ手を伸ばすのも、同じじゃ。結果を知らぬまま選び、その結果から逃げん。それしか人にはできん」


「僕は、何を選べば」


「それを師に聞くな」


 厳しい言葉だった。


 しかし玄斎の目には、言い切れない痛みがあった。


「わしも昔、鈴を守った」


 玄斎は炭で汚れた指を見た。


「お前の母と二人でな。あの人は、どれほど白い息を見ても手を出すなと教えられた。鈴守へ触れれば、救いが災いへ変わると知っていたからじゃ」


「母上にも、三息が見えたんですか」


「お前ほど鮮明ではない。死の近い者の体温が、指先に伝わった」


「それでも、禁忌を破った」


 玄斎は返事をしなかった。


「先生は止めたんですか」


「止めようとした」


 短い答えには、何年経っても薄れない悔いがあった。


「じゃが、あの人は笑った。これだけは、災いになっても救うとな」


「何を救ったんです」


「……今は、その先を聞くな」


 真白は食い下がりたかった。


 だが玄斎の手が、木刀を握るときより強く震えている。これ以上問えば、答えより先に何かが壊れる気がした。


 瑠璃が静かに口を開く。


「では、真白がもう誰も救わなければ、封印は解けないのね」


「そうなる」


「簡単だわ」


「簡単ではありません」


「私を含めて、白い息が見えても手を出さない」


「できません」


「できなくても、するの。残り三つで何が起こるか分からない」


「あなたは生きたいと言った」


 瑠璃の唇が閉じる。


「何度でも言っていいと、あなたが言ったから」


「だから、聞いた僕が諦めるわけにはいきません」


「一人のために、何人殺すつもり?」


「一人も殺したくありません」


「子どもの答えね」


「分かっています」


 真白は鈴を水から取り出した。


 掌に乗せると、冷たいはずの金属が少しだけ温かい。


「能力を使わないとは決めません。先に、誰が僕の救命を利用しているのか調べます」


「分かったところで、死は待ってくれないわ」


「それでも、知らずに選ぶよりいい」


 瑠璃は反論しようとし、やめた。


 代わりに真白の手から鈴を取り、腰へ戻す。


「勝手に一人で調べないこと」


「共犯者ですから?」


「監視役よ」


 少しだけ、空気がゆるんだ。


「先生。白笹は、これまで救命をしたことがないんですか」


 玄斎の肩が動いた。


「どうして聞く」


「禁忌と呼ぶなら、破った人がいるはずです」


 沈黙が落ちた。


 酒瓢箪の中で、水のような音がする。


「お前の母は――」


 玄斎はそこで言葉を切った。


「母上が、何です」


「いや。今はまだ、わしの口から言うことではない」


「誰の口なら言えるんですか」


「死なぬ者の口じゃろうな」


 玄斎は立ち上がり、戸へ向かった。


 話を終わらせる背中だった。


 机の木椀で、水面がもう一度震えた。


 真白がのぞき込む。


 水に映ったのは、炭焼き小屋の天井ではなかった。


 山奥の祠。虫籠へ耳を寄せる老人。


 三匹の鈴虫が鳴いている。


 一匹は羽を震わせても、音を出さない。


「よい音じゃ」


 水の底から、老人の声がした。


 握り飯を食べ、笑っている。


「三つになって、ようやく腹が減ってきた」


 壁には、猿の影だけが前より濃く映っていた。


「真白?」


 瑠璃に肩をつかまれ、真白は顔を上げた。


 水面には、青ざめた自分の顔しかない。


「何を見たの」


「あの老人が、こちらを見ていました」


 鈴は瑠璃の腰で、鳴らないまま揺れていた。


 ◇


 夜、瑠璃を平家方へ帰した後も、真白は眠れなかった。


 玄斎の言いかけた言葉が頭から離れない。


 母は、白笹の禁忌を破ったのか。


 何を救い、何を鈴へ流したのか。


 戸の外で、木刀の音がした。


 玄斎が一人、月明かりの中で素振りをしている。


 いつもと同じ背中。


 いつもと同じ呼吸。


 ただ、吐き出された息の色だけが違った。


 墨を流したような黒。


 その縁に、まだ白はない。


 すぐではない。


 けれど、逃れられない死が玄斎の先にある。


 真白の喉が震えた。


「先生は、死ぬ運命にいる」


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