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第7話 息のない敵

 朱い烏が、綾から生まれた。


 翼も、爪も、くちばしも、細い糸を幾重にも撚ってできている。


 それなのに羽ばたくたび、風が鳴った。


 ただ一つ。


 どこにも息がない。


「真白、下がって!」


 瑠璃の声と同時に、烏が降る。


 真白は黒鞘を横へ振った。手応えは軽い。赤い翼がほどけ、数十本の綾になって腕へ絡みつく。


 引かれた。


 体が宙へ浮き、庭石へ背中から落ちる。


「にいやん!」


 小夜が駆け寄ろうとした。


「来ないで!」


 真白は叫んだ。


 白髪の女――解が小指を動かす。


 地面に散った綾が跳ね、今度は狐の形へ編み直された。赤い獣は小夜を追わず、瑠璃の腰へ向かう。


 狙いは、鳴らない鈴だ。


 瑠璃は巻物を懐へ入れ、庭を横切った。狐が追う。真白は綾を腕から外しながら、死の筋を探した。


 何も見えない。


 瑠璃の息は黒いまま。


 鳥居に立つ二人の息も、白くはない。


 式神には、そもそも吐息がない。


 三息先が、闇になった。


「見えない顔をしている」


 黒髪の女――結が言った。


 妹より落ち着いた声だった。小指を結ぶ赤い綾だけは、解の激しい動きに合わせて震えている。


「死を見る子だと聞いた。息のないものは、見えないらしいね」


「誰から聞いたんです」


「依頼主」


「名前は」


「仕事の前に、雇い主の名を尋ねる馬鹿はいない」


「仕事の後に、だまされたと気づく人はいます」


 結の目がわずかに細くなった。


 真白は立ち上がる。


 赤い狐が瑠璃へ飛びかかった。


 三息に頼らず、獣の形を見る。前脚が縮み、後脚が地を蹴る。その動きなら、次は首へ来る。


 真白は間へ入り、鞘を上げた。


 狐は空中でほどけた。


 避けたはずの糸が、鞘をすり抜けて頬を裂く。


「遅い」


 解が笑った。


「見えてから動くんじゃ、遅いよ」


 血が顎へ落ちる。


 真白は刀の柄を握った。


 人を斬るのではない。糸を斬るだけだ。


 そう思っても、刃は鞘の内側で止まった。


「真白!」


 瑠璃が投げた水差しが、庭石で割れた。


 水が綾を濡らす。赤い糸が石へ貼りつき、動きが一瞬鈍った。


「右へ二歩!」


 真白は考えず、右へ跳ぶ。


 直前までいた場所を、上から綾の嘴が貫いた。


「次は、伏せて!」


 伏せる。


 瑠璃が巻物の紐を解き、解の視界へ投げ広げた。紙に遮られ、式神の動きが止まる。


 真白は踏み込み、鞘で綾の中心を打った。


 烏がほどける。


「三息がなくても動けるじゃない」


「あなたが見てくれたからです」


「では、今度から私を見なさい」


 戦いの最中だというのに、真白の胸が妙に熱くなった。


「仲がいいね」


 解が唇を尖らせる。


「先に姫をほどく」


「解、遊ぶな」


 結の声とともに、鳥居を覆っていた綾が落ちた。


 一本一本が針のように尖り、瑠璃へ降り注ぐ。


 真白は彼女を抱えて縁の下へ転がり込んだ。


 床板を突き破り、赤い針が二人の周囲へ刺さる。


「重い」


 瑠璃が囁いた。


「すみません」


「冗談よ。息が近いから言っただけ」


「今、言うことですか」


「今でなければ、言えないでしょう」


 黒い息が頬へ触れる。


 真白が身を起こそうとすると、瑠璃は袖をつかんだ。


「待って。相手は鈴の場所が分かっている。奪うだけなら、最初に私を殺せばいい」


「生け捕りの命令かもしれません」


「それなら、巻物を裂かない」


 庭では、結が地へ落ちた巻物を拾っていた。


 墨で消された終わりを開き、四つの鈴印を確かめている。


 読むために来た。


 依頼主は、鈴の状態を知らないのだ。


 瑠璃は縁の下から這い出た。


「巻物を返しなさい」


「出てくるな!」


「大丈夫。少し話をするだけ」


 瑠璃は倒れた篝火から燃える木片を拾った。


 結の手にある巻物へ向ける。


「それを持ち帰るなら、ここで燃やす」


「自分の一族の記録だろう」


「だから、燃やす権利も私にあるわ」


 結の指が止まった。


 解の方が先に声を上げる。


「姉様、燃えたらお金にならないよ」


「黙って」


「やっぱり、巻物が必要なんですね」


 真白は瑠璃の意図に気づいた。


 彼女は時間を稼いでいるのではない。言葉で相手をほどこうとしている。


「鈴がいくつ残っているか、雇い主へ報告するため?」


 瑠璃が問う。


 結は答えなかった。


 沈黙で十分だった。


「依頼主は、どんな人です」


「だから、知らない」


「嘘ね。顔くらい見たでしょう」


「三つ見た」


 解が口を挟んだ。


「解!」


「だって変だもの。加賀の社では痩せた山伏。越前の宿では片目の武者。昨日は都の公家。みんな声が同じで、烏の羽を持ってた」


「同じ時刻に、別の場所で見た者もいる」


 結は諦めたように言った。


「名は名乗らない。皆が御使と呼ぶ」


 御使。


 真白は、義景の扇に挿された烏羽を思い出した。


 だが、兄は陣にいた。別の場所へ同時に現れることはできない。


「その御使は、何を報酬に?」


「砂金」


 結が懐から小袋を出した。


 口を少し開く。黒い砂に、細かな金が混じっている。月明かりの下で、烏の羽のように光った。


「焼けた社を建て直す。屋根も、御神体も、二人が冬を越す家も要る」


 解が赤い綾を強く引いた。


「悪い?」


「悪いとは言いません」


 真白は答えた。


「でも、そのために誰かの帰る場所を焼いたら、同じです」


「私たちが焼いたわけじゃない」


「今夜、瑠璃さんを連れていけば、この人の帰る場所はなくなります」


「平家の姫には、帰る屋敷がいくつもあるでしょう」


「家があっても、帰れるとは限りません」


 真白が言うと、結の顔に一瞬だけ迷いが浮かんだ。


 焼けた柱の前で、妹と二人きりになった日の顔。


 真白には、そう見えた。


「あなたたちは、本当に御使を信じているんですか」


「信じる必要はない。金が本物なら、それでいい」


「その砂金に、焼けた社の煤が混じっていても?」


 結の指が袋の口を閉じた。


 解は姉を見上げたが、何も言わなかった。


「優しいね」


 結の声が冷えた。


「優しい剣は、遅れて誰かを殺すよ」


 赤い綾が庭いっぱいに広がる。


 烏、狐、犬。息のない獣が次々と形を得た。


「姉様、燃やされる前に取ろう」


「ええ」


 瑠璃が火を巻物へ近づける。


 真白は彼女の横へ立った。


 三息は見えない。


 けれど、瑠璃の視線は見える。


 彼女が左を見る。真白は右を守る。


 瑠璃が屈む。真白は頭上へ鞘を振る。


 一人では遅れる動きが、二人なら間に合った。


 それでも、綾の獣は増えていく。


 式神は痛みを恐れない。烏の翼を打ち落とせば、散った糸が蛇になって足首へ絡む。狐の胴を崩せば、ほどけた半分が鼠となって背後へ回る。


 真白の目は、無意識に白い息を探し続けた。


 死の方向さえ見えれば、最短の一歩を選べる。


 だが今夜は、その一歩を自分で考えなくてはならない。間違えば瑠璃が傷つき、小夜が巻き込まれる。


 三息が見えないだけで、足元から地面が消えたようだった。


「にいやん、上!」


 小夜が叫び、物干し縄を引いた。


 干してあった僧衣が庭へ落ちる。綾の烏二羽が布へ突っ込み、翼を絡ませた。


「小夜、隠れていて!」


「隠れとったら、見えるもんも言えんやろ!」


 小夜は縁側の下へ潜り、次の獣を指さす。


「赤い犬、左から回っとる!」


 息のない敵を、二人の目と一人の声で追う。


 真白はようやく理解した。


 三息が使えないことは、何もできないことではない。


 自分一人ですべてを見る必要もなかった。


 最初の烏を打ち落とす。


 二体目の狐を瑠璃が水桶で押し流す。


 三体目の犬が背後へ回った。


 巨大な戸板が、横から飛んできた。


 犬をまとめて石垣へ叩きつける。


「誰の寝床で暴れとる!」


 弁円だった。


 戸板に見えたものは、愛用の大盾である。その後ろから玄斎が歩み出た。


「若い者の逢い引きにしては、ずいぶん騒がしいのう」


「先生、逢い引きでは」


「説明は後じゃ」


 玄斎の木刀が一閃した。


 刃はない。それでも綾の獣は中心を正確に打たれ、次々と糸へ戻る。


「息がなければ見えんか、真白」


「はい」


「なら目を閉じろ。見えぬものを、見ようとするな」


 真白は目を閉じた。


 綾が風を切る音。


 瑠璃の衣が動く音。


 弁円の盾へ爪が当たる音。


 左から、かすかな指鳴らし。


 真白は一歩踏み込み、鞘を振った。


 手応えがあった。


 解の操る綾が途中で切れ、地へ落ちる。


 同時に、結と解が同じ場所の腕を押さえた。


 真白の鞘は二人へ届いていない。


 打ったのは、二人の小指を結ぶ一本の綾だけだ。


「痛みまで、つながっているの?」


 瑠璃が気づいた。


「余計なところを見る姫だね」


 結は笑ったが、顔色が白い。


 解が姉をかばうように前へ出た。


「姉様」


「増援か厄介だね。退くよ」


 結は巻物を瑠璃へ投げ返した。


「今夜は報酬に合わない」


 姉妹が鳥居から跳ぶ。赤い綾が大木へ伸び、二人の体を闇へ引き上げた。


「待って!」


 真白が追おうとする。


 その横を一本の綾が走った。


 瑠璃の腰から鈴を奪い、宙へ持ち上げる。


 解は枝の上で受け取った。


 鳴らない鈴を耳元で振り、首をかしげる。


 月明かりに、鈴の表面の四つの印が浮かんだ。


「返しなさい!」


 解は鈴を放る。


 瑠璃が両手で受け止めた。


 白髪の少女の笑みだけが、闇に残る。


「もう一つ、空っぽだ。誰を救ったの?」


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