第6話 夢を盗む姫
真白の寝床で、瑠璃が盗んだ巻物を読みながら栗餅を食べていた。
「遅かったわね」
そこは源氏の陣に接収された山寺の一室である。
襖の外には見張りが二人。縁側の先には兵が寝起きし、門には篝火がある。敵方の姫がくつろいでよい場所ではない。
「どうして、ここに」
「歩いて来たの」
「そうではなくて」
「栗餅なら、あなたの机にあったから」
「それも聞いていません」
真白は額を押さえた。
維紅に打たれた肩と胸が、息をするたび痛む。その痛みより、平然と二つ目の栗餅へ手を伸ばす瑠璃の姿の方が現実離れしていた。
「ここは源氏の陣です。見つかったら」
「平家の姫が敵陣へ忍び込み、寝床で甘味を盗んでいた。末代までの恥ね」
「笑い事ではありません」
「あなた、兄様にも同じ顔をしたでしょう」
瑠璃の目が、真白の襟元へ落ちる。
衣の下には、夕凪の石突きに打たれた痣がある。
「会ったんですね、維紅さんに」
「兄様の打ち方は分かるもの。真面目で、逃げ道まで痛くする」
「一人で三百人を止めていました」
「昔から加減を知らないの」
「僕には、加減したようです」
銀髪を見た途端、維紅は刃を止めた。
黒息の姫から離れろ。
お前は、あれを救う餌だ。
真白が伝えると、瑠璃の指が栗餅の上で止まった。
「兄様らしい言い方」
「衣を脱いで」
「え?」
「兄様に打たれたところを見るの」
「大丈夫です」
「その言葉は、痛い人しか言わないわ」
瑠璃は返事を待たず、薬箱を引き寄せた。真白が襟を少し開くと、肩から胸へ紫色の痣が広がっている。
「ひどい」
「維紅さんを責めないでください。僕が退かなかったからです」
「私の兄をかばうの?」
「あなたを守りたい気持ちは、分かります」
瑠璃は薬を塗る指を止めた。
「では、兄様の言うとおり離れる?」
「それは別です」
「頑固ね」
「あなたもです」
冷たい薬が肌へ触れる。瑠璃の指先は、それより冷えていた。
真白は衣を直しながら尋ねる。
「ここまで来るのに、怖い思いをしたでしょう」
「少し。けれど、待つ方が怖かった」
何を待つのか、聞くまでもなかった。
「否定しないんですか」
「否定できるほど、何も分かっていないもの」
瑠璃は膝の上の巻物を広げた。
古い紙だった。端は黒ずみ、何度も巻き直された跡がある。細かな文字の間に、四つの鈴を結んだ印が描かれていた。
「平家の蔵から持ち出した、鈴守の記録よ」
「盗んだんですか」
「借りたの。持ち主は私だから」
「持ち主なら、なぜ蔵に忍び込む必要が」
「姫は自分の運命を読む必要がないそうよ。決められたとおり死ねばいいから」
軽く言ったが、巻物を押さえる爪が白くなっていた。
真白は瑠璃の向かいへ座る。
「何が書いてあるんですか」
「歴代の鈴守が見た夢」
瑠璃が一つの行を指でなぞった。
海へ沈む赤い旗。燃える舟。銀の髪を持つ者。鳴らない鈴。
言葉は違っても、すべて同じ光景を記している。
「私だけではなかった。百年以上前の鈴守も、その次も、壇ノ浦という名の海を夢に見ている」
「百年前から、まだ起きていない場所を?」
「壇ノ浦が場所の名なのか、それさえ今は分からない。でも夢の最後には、必ず銀髪の人がいる」
巻物の終わりは、墨で塗り潰されていた。
黒は厚く、文字の凹みまで消そうと何度も重ねられている。
ただ一か所。
墨の下から、五本の細い線が透けていた。
「手……?」
「左手よ。開いている」
真白は自分の左手を見た。
夢の中でも、刃を握る右手に対し、左手だけが瑠璃へ伸びていた。
「殺す場面なら、どうして手を差し出すんでしょう」
「さあ。首を絞めるのかもしれない」
「そんなことはしません」
「刀では殺すのに?」
「それも、しません」
瑠璃は真白を見た。
試すような紫の瞳だった。
「記録には白笹の血、死を三つに見る目、ともある。だから銀髪の少年を探した。夢の男が、本当に私を殺せる人なのか確かめたかった」
「それで、夜の山に一人で」
「待っていた」
山の夜、瑠璃が先に真白の名を知っていた理由が、ようやく分かった。
無謀な偶然ではない。彼女は自分の死の筋を追って、敵陣のそばまで来たのだ。
「僕が怖くなかったんですか」
「怖かったわ」
瑠璃はあっさり認めた。
「今も?」
「今は、少し違う」
「どう違うんです」
「教えない」
瑠璃が残った栗餅を半分に割り、片方を差し出した。
「あなたの分」
「もともと両方、僕のです」
「細かい男は嫌われるわよ」
真白は受け取り、口へ入れた。
幼い頃と同じ甘さだった。
向かいには、母でも兄でもなく、自分が殺すと夢に定められた少女がいる。
それなのに不思議と、九年ぶりの栗餅は苦くなかった。
◇
巻物の四つの鈴印は、一つだけ内側が薄くなっていた。
真白が指で触れると、先日の社で鳴かなくなった鈴虫を思い出す。
「四つは、封印の数でしょうか」
「おそらく。こちらの余白には、猿、蛇、狸、虎とある」
「あの老人の影は、猿の顔でした」
「老人?」
真白は倶利伽羅の社で会った、息をしない老人のことを話した。
握り飯を差し出し、あと三つと笑ったことも。
瑠璃の顔から血の気が引く。
「その者に、息がなかったのね」
「はい」
「記録にある。四つの面を失ったものは、人の老いた姿で鈴の音を待つ、と」
「何者なんですか」
「名は、ここも消されている」
墨消しの上へ、瑠璃の髪が落ちた。
真白が手を伸ばし、紙へ触れる前に髪をそっと除ける。
瑠璃の肩がわずかに揺れた。
「私の息は、まだ黒い?」
「はい」
「夢の終わりも消えたまま」
「はい」
「なら、やはり私は死ぬのね」
「死なせません」
「簡単に言わないで」
声が鋭くなった。
「平家の姫は、家と一緒に沈むのが正しい。鈴守は、封印が残るなら自分の命など惜しんではいけない。小さい頃から、そう教えられた」
「それが嫌なんですね」
「嫌ではないわ」
「嘘が下手です」
以前の言葉を返すと、瑠璃は黙った。
唇を結び、何かを飲み込もうとする。
けれど一度こぼれた本音は、戻らなかった。
「……ほんとうは、生きたい」
蚊の鳴くような声だった。
「平家が滅びても。鈴がなくても。姫でなくなっても」
瑠璃は喉へ手を当てた。
「死にたくないと言うだけで、こんなに喉が痛いのね」
「何度でも言ってください」
真白は答えた。
「痛くなくなるまで、僕が聞きます」
瑠璃の目が潤んだ。
泣く代わりに、いつもの意地悪な笑みを作る。
「あなた、誰にでもそう言うの?」
「あなたにしか言っていません」
「それは、ずるい答え」
二人の間が近くなった。
巻物の端へ置かれた真白の手。その上へ、瑠璃の指が重なる。
黒い息が、二人の間を細く流れた。
海の幻は見えなかった。
代わりに、今ここにいる彼女の体温だけが伝わる。
「にいやん」
襖の向こうで、小夜が小さく呼んだ。
二人は同時に手を離した。
「見張りが交代する。そっちの姫さん、帰すなら今やで」
「小夜が入れたんですか」
「屋根を歩いとったのを落としただけや。うちのせいやない」
襖の隙間から短い髪がのぞく。
小夜は瑠璃を上から下まで見て、机の空皿を見た。
「にいやんの栗餅、全部食べたん」
「半分は残したわ」
「ええ姫さんやな」
「褒めている?」
「まさか」
瑠璃の視線が、小夜の胸元で止まった。
「その鈴の欠片、どこで手に入れたの」
「村の社にあったやつ。姉ちゃんがくれた」
小夜は首飾りを握り、衣の内側へ隠した。
「欠けていても、持っとったら帰り道が分かるって」
「見せてもらえる?」
「嫌や。姫さんにあげる栗餅はあっても、これはない」
瑠璃は無理に触れず、形だけを目で追った。
「鳴らさぬ鈴と、金の色が似ている」
「関係があるんですか」
「分からない。でも、あなたの村に八咫烏が来た理由は、真白だけではないのかもしれない」
小夜の強がった顔が、わずかに曇る。
「姉ちゃんも、何か知っとるんかな」
「見つけたら、本人へ聞きましょう」
瑠璃が言うと、小夜は驚いたように瞬いた。
「敵の姫さんも探してくれるん?」
「この人の妹分なら、私にも少し関係があるでしょう」
「小夜が勝手に、兄と呼んでいるだけです」
真白が口を挟むと、二人から同時に睨まれた。
真白は巻物を巻き直した。
「これは僕が預かります」
「駄目。平家の蔵からなくなったと分かれば、私が疑われる」
「では、必要なところを写します。一緒に解きましょう」
瑠璃はしばらく真白を見つめた。
「敵同士よ」
「同じ夢を見た時点で、手遅れです」
「そうね」
彼女は、今度こそ本当に笑った。
「共犯者になってあげる」
その瞬間、襖に細い赤線が走った。
紙が音もなく裂ける。
真白は瑠璃を抱いて伏せた。
頭上を何かが通り、背後の柱へ突き刺さる。
赤い綾で編まれた、鳥の嘴だった。
小夜が息を呑む。
「見張りは?」
「さっきまでおった!」
外へ出ると、門の左右で兵が眠るように倒れていた。胸は動いている。
篝火の上を、赤い綾が幾重にも渡っていた。
蜘蛛の巣だ、と真白は思った。
糸は門から本堂の軒へ、軒から鐘楼へ、鐘楼から松の梢へ走り、境内ぜんぶを一枚の赤い網に仕立てている。火の粉が触れても焦げない。月の光が糸に引っかかり、血の筋のように浮かんでいた。
背後で、柱に刺さっていた嘴がひとりでにほどけた。
一本の糸になり、闇を滑って、鳥居の方へ巻き戻っていく。
その先を目で追う。
寺の鳥居の笠木に、二人の女が立っていた。
月を背にして、顔は影に沈んでいる。ただ輪郭だけが、息を呑むほどくっきりしていた。
一人は黒。一人は白。
「ごーん」
白い方が、唇だけで鐘の音を真似た。
指が鳴る。
鐘楼へ渡った綾が引かれ、撞木が揺れた。本物の鐘が一つ、境内に響く。
それが開幕の合図だったように、雲が割れ、月が二人の顔を照らした。
姉は、闇を切り取ったようだった。
墨を流した黒髪を高く束ね、根元を赤い綾で十字に結んでいる。毛先は膝まで垂れ、風が吹くたび鞭のようにしなった。切れ長の目尻は鋭く、黒い瞳は底が見えない。背は高く、線が細い。真白より二つ三つ年上に見えた。
煤けた白の小袖に、緋袴。袴の裾は膝下で切り落とされ、焼け焦げた縁が黒く縮れている。巫女の装束だ。ただし、神に仕える者の姿ではなかった。両の手には、包帯の代わりに赤い綾がきつく巻かれている。
妹は、雪を砕いて撒いたようだった。
結わない白髪が背を流れ、腰を越える。眉も睫毛も白い。淡い灰色の瞳は猫のように丸く、笑うと八重歯がのぞいた。小柄で、背は姉の肩ほどしかない。
同じ巫女の装束を着崩し、袖は肩まで落として、むき出しの腕に赤い綾を襷のように掛けている。足元は裸足だった。細い笠木の上を、石畳でも踏むように跳ねている。
二人の小指は、一本の赤い綾で結ばれていた。
姉は右、妹は左。並んで立てば、手をつないでいるように見える。糸は姉が背筋を伸ばしても、妹が跳ねても、弛まず、張らず、同じ長さで揺れていた。
不意に、二人が同じ拍でまばたきをした。
真白の背が冷える。
二人の口元から、白い筋は伸びていない。
まだ、誰も死なない。それが、かえってあの姉妹の底の知れなさに思えた。
「結ぶは縁」
姉が言った。低く、落ち着いた声だった。
「解くは命」
妹が継ぐ。こちらは弾むような声だった。
「綾取りの姉妹、結」
「と、解。夜分にごめんね」
「用向きは二つ」
結が右の小指を軽く持ち上げる。つられて、解の左の小指も上がった。
「鈴と、姫」
「どっちも欲しいって、お願いされちゃって」
瑠璃が真白の袖を握った。紫の瞳が、鳥居の上の二人を射抜いている。
「鳴らさぬ鈴を、知っているのね」
「依頼主がよく教えてくれた」
結は淡々と答えた。
小夜は何も言わなかった。
鳥居の上の、一本の赤い綾を見ていた。衣の内側で、欠けた鈴の欠片を強く握りしめている。
解が、結の小指ごと手を振った。
「ねえ、姉様。順番、決めてなかったよね」
「ええ。好きに」
「じゃあ」
白髪の妹が楽しそうに首を傾けた。
「鈴と姫、どちらからほどく?」




