第5話 紅の兄
三百の兵が退く道に、赤い鎧の男が一人で立っていた。
朝霧の中、平家の旗はすでに遠い。
男だけが残り、長い刃を肩へ担いでいる。鎧は血で染まったのではない。初めから、燃える紅だった。
源氏の先頭が槍を向けた。
「どけ! 敗軍の犬め!」
赤い男は答えない。
一歩、踏み込む。
長刀が朝日を引いた。
槍が三本まとめて宙を舞う。次の一振りで馬が前脚を上げ、乗り手を振り落とす。刃は誰の首にも触れていない。それでも先頭の十人が、見えない壁に押されたように下がった。
「平維紅だ!」
誰かが叫んだ。
「紅の兄だ! 近づくな!」
名が走るだけで、三百の足が止まった。
一人だけ、止まれない若者がいた。
「兄の仇だ!」
折れた槍を握り、維紅へ走る。
若者の口から白い息が出た。
「行かないで!」
真白の声は届かない。
一息目。若者が槍を突く。
二息目。維紅が半歩ずれ、長刀を返す。
白い筋は、若者の喉へまっすぐ伸びている。
三息目。
維紅は刃を止めた。
代わりに柄で若者の胸を突き、道の端へ転がす。
「仇を討つなら、生きて腕を上げろ」
若者の白い息が消えた。
真白は目を見張った。
偶然ではない。
維紅は、殺せる相手を殺さなかった。
強いから立っているのではない。退く者を一人でも多く生かすため、ここで憎まれる役を選んでいる。
維紅は長刀の石突きを地へ置く。
「妹たちが峠を下りるまで、ここは通さん」
低い声だった。
大声ではないのに、刃を打ち合わせる音よりよく届いた。
真白は後方で、甚助の肩を支えていた。昨夜痛めた足が腫れ、歩くたび顔が歪んでいる。
「俺を置いていけ」
「昨日も聞きました」
「今日は本当に置いていけ。あれは人じゃない」
「人です」
「なら、なおさら怖いだろ!」
弁円が大盾を構え、二人の前へ出た。
「言い争いは歩きながらにせい。追う側だったはずが、完全に追われる側だ」
維紅の背後から、平家の弓兵が戻ってきていた。
一人が時を稼ぎ、味方が陣形を立て直したのだ。
義景の本隊は前へ出すぎている。ここにいるのは、追撃へ駆り出された足軽ばかり。狭い山道で挟まれれば、逃げ場はない。
「弁円さん。甚助さんを連れて、先に」
「お前も来い」
「誰かが、あの人を止めないと」
「三百人で止められん男を、お前がか?」
「止めるんじゃありません」
真白は甚助の腕を弁円へ渡した。
「僕を見てもらいます」
「待て、真白!」
止める手をすり抜け、前へ出る。
源氏の兵たちが道を空けた。
誰も、代わりに出ようとはしない。
真白は黒鞘の刀へ触れた。
兄にもらった刀。
一度も抜いていない刀。
維紅の赤い目が、真白を見た。
「子どもを寄越すほど、人がいないか」
「十六です」
「子どもだ」
「あなたを倒しに来たわけではありません」
「なら、退け」
「それもできません」
維紅が初めて眉を動かした。
「何をしに来た」
「話を」
「戦場ですることか」
「戦場だから、必要です」
背後から笑いが起きた。恐怖を隠したい兵たちの、乾いた笑いだった。
維紅は笑わない。
「名は」
「真白」
「家は」
「ありません」
「なら、何のために立つ」
真白は後ろを見なかった。
甚助の荒い息。弁円の怒鳴り声。負傷した兵たちの足音が、少しずつ遠ざかっている。
「あの人たちが退く時間のために」
「お前が死んでも、半刻も稼げん」
「半刻はいりません。百、数えられれば」
「百か」
維紅は長刀を下ろした。
「数えてみろ」
赤い影が消えた。
真白は横へ跳んだ。
直前まで立っていた地面が裂ける。長刀が下から返り、黒鞘を打った。腕が痺れ、刀ごと体が浮く。
一、と数える暇もない。
真白には、自分の死が見えない。
維紅の息も白くない。
頼れるのは、周りにいる兵の息だけだった。
右後ろの兵から白が出る。
真白はその前へ踏み込み、鞘で槍の穂先を押し下げた。次の瞬間、維紅の長刀が頭上を薙ぐ。真白が止めなければ、怯えて飛び出した兵の首が落ちていた。
「人をかばいながら、俺と戦うか」
「戦っていません」
「その腰のものは飾りか」
石突きが腹へ入った。
息が消え、膝をつく。
維紅の刃が首へ落ちる。
真白は刀を抜こうとした。
指が柄を握る。
鯉口が、わずかに切れる。
光る刃が指一本分だけ見えた。
母の白い息。鎌蔵が岩へぶつかる音。斧に倒れた賊。
手が止まった。
真白は鞘のまま頭上へ上げた。
衝撃で、地面へ叩き伏せられる。
「抜け」
維紅が言った。
「嫌です」
「抜かなければ死ぬぞ」
「抜いても、あなたには勝てません」
「なら、なぜ立った」
「まだ百まで数えていません」
維紅の目に、初めて怒りが浮かんだ。
「命を数にするな」
「していません」
真白は土をつかみ、立ち上がった。
「待っている人のところへ、帰すために数えています」
長刀が来る。
真白は周りの白い息を見た。
一息先に、維紅の刃が三人へ届く。
その筋へ黒鞘を差し入れる。
だが維紅は、届くはずの場所で刃を止めた。
次の一歩で、まったく別の間合いへ入っている。
白い筋が折れる。
「なぜ、さっきから刃を止めるんです」
「退かせるためだ。俺の名を怖れる口は、生きてここを下った方がよい」
「敵を生かして、後で困りませんか」
「斬れば、次は父や兄弟が仇を討ちに来る。そのたびにまた斬るのか」
維紅の長刀が空を反し、鍁の鉄鈑へ朝日を散らした。
「生きて怖れた者は、ときには戦を止める。死者は、残った者の背を押すことがある」
見えてから避けるのでは遅い。
三息の内側ではない。
この男は、三息より先へ踏み込み、相手が選ぶはずだった死まで変えている。
柄が真白の肩を打った。
骨が軋む。
二撃目は足。
三撃目は胸。
真白は道へ転がった。
口の中に血の味が広がる。
「四十七」
かすれた声で数えた。
「何?」
「まだ、四十七です」
立とうとして、腕が崩れる。
維紅が目の前に立った。
「立つな」
「嫌です」
「次は斬る」
「なら、立ちます」
真白は鞘を杖にし、膝を起こした。
維紅の刃が、真白の喉へ走る。
避けられない。
目を閉じなかった。
刃は薄皮一枚の前で止まった。
朝風が銀の髪を払う。
維紅の赤い目が見開かれた。
「その髪……」
真白は答えられない。
「左手を見せろ」
維紅が手首をつかんだ。真白の左手を無理に開き、掌を見る。傷も印もない。
それでも、維紅の顔から怒りが消えていた。
代わりに浮かんだのは、恐怖だった。
「お前が、夢の男か」
「夢……?」
「海で瑠璃へ刃を向ける、銀髪の男」
真白の心臓が跳ねた。
「瑠璃を知っているんですか」
維紅の手に力が入る。
「なぜ、お前が妹の名を知っている」
「山で会いました」
維紅の胸甲で、紫の紐が風に揺れた。ほつれ、半分ほどが黒く焦げている。
まだ幼い瑠璃が、兄の具足へ結んだ守り紐だった。結び目は不器用で、維紅は出陣のたびに、その上から結び直している。
三百を退ける男が、ひとりの妹が残した紐を捨てられずにいた。
「何をした」
「何も」
「あれに触れたか」
崖から引き上げたときの、黒い息を思い出した。
「手を、つかみました」
維紅は真白を突き放した。
「あれは陣を抜けたのか」
悔しさを押し殺す声だった。
「僕を探しに来たと言っていました」
「夢だけで、敵の山へ……」
維紅は奥歯を噛み、拳を震わせた。
真白は気づいた。
この男が三百を退けても、たった一人の妹が選ぶ道だけは止められない。
「僕は彼女を傷つけたくありません」
「お前の望みなど関係ない。あれの死は、本人の望みさえ食って進む」
「もう近づくな」
「彼女の息が黒い理由を知っているんですか」
「お前には関係ない」
「僕が殺すと、彼女は言いました」
「だから離れろと言っている!」
山が震えるほどの声だった。
遠くで法螺貝が鳴った。
平家方の合図だ。維紅が稼いだ時で、兵は十分に退いたのだろう。
源氏の負傷兵も、すでに坂の向こうへ消えている。
百には届かなかった。
それでも役目は終わった。
維紅は長刀を背へ回し、真白に背を向けた。
「待ってください」
真白は痛む胸を押さえた。
「瑠璃さんは、何を守っているんですか。鳴らない鈴は何です」
維紅の足が止まる。
「見たのか」
「はい」
「ほかに何を見た」
「黒い息と、海を。僕が彼女へ刀を向けるところを」
維紅は振り返った。
敵を見る目ではなかった。
罠に近づく弟を見る目だった。
「よく聞け、真白」
初めて、名をまっすぐ呼ばれた。
「黒息の姫から離れろ」
維紅は言葉を切り、一度だけ歯を食いしばった。
「あれは自分の死を見慣れすぎた。死にたくないと言うことさえ、家の禁忌に触れると思っている」
真白は、崖の上で掌へ食い込んだ指を思い出した。
「それでも、生きる方へ手を伸ばした」
「だから危うい」
赤い鎧が朝霧の中へ沈む。
「お前は、あれを救う餌だ」




