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第4話 火牛の夜

燃える牛の群れが、逆さに落ちる星のように闇の峠を駆け下りてきた。


 角に結ばれた松明が左右へ暴れ、数十の火が一本の濁流になる。


「退け! 道を空けろ!」


 誰かが叫んだ。


 遅かった。


 倶利伽羅の狭い道に詰まった平家の兵へ、牛の群れが突っ込む。人と馬が押し合い、崖際の柵が折れた。火の粉の向こうで、いくつもの影が谷へ消える。


 真白は立ち尽くした。


 白い息が多すぎる。


 一つを見れば、別の一つが視界を横切る。上から、後ろから、足元から。死の筋が夜空を埋め、巨大な白い網になっていた。


「見るな!」


 僧兵の弁円が、真白の頭へ大きな手を置いた。


 山門ほどもある男だった。剃った頭に火の粉を受け、戸板を張ったような盾で逃げる兵を守っている。


「全部を目で追えば、お前の方が谷へ落ちるぞ!」


「でも、見えています」


「見えるものを全部背負うな!」


「見えなかったことにはできません!」


 真白は弁円の手を外した。


 源氏の兵は道の両側へ退き、火牛のために道を開けている。義景の策だった。


 平家を谷へ追い落とし、退く道を奪う。


 だが崖際には、先に進みすぎた源氏の足軽も残っていた。


「味方がまだいます!」


 真白は高台の義景へ叫んだ。


 兄は烏羽の扇を上げたまま、動かなかった。


「今、道を閉じれば牛が散る」


「戻らせてください!」


「平家に立て直す時を与える。ここで押し切らなければ、明日は倍の死者が出る」


「でも、今なら助けられます」


 義景の合図で、後方の柵が閉じた。


 逃げ戻ろうとした味方が、道の中へ閉じ込められる。


「全員は救えない」


 炎に照らされた兄の顔は、悲しそうに見えた。


「真白。救えない命を選ぶことも、戦だ」


 村で玄斎に言われた言葉が蘇る。


 選べ。


 真白には足が二本しかない。


 腕も二本しかない。


 だから、一人を見る。


「甚助!」


 崖際で足軽が振り向いた。


 昨日、水を運んでくれた若者だった。左の頬に泥がつき、片方の草履を失っている。


 口から、白い息が出ていた。


 一息目。


 背後から押された馬が甚助へぶつかる。


 二息目。


 崖の土が崩れ、片足が宙へ出る。


「弁円さん、僕を投げてください!」


「はあ?」


「あそこまで届きません!」


「お前は自分を石ころだと思っとるのか!」


「早く!」


 弁円は一度だけ天を仰いだ。


「仏よ、これは俺のせいではありませんぞ!」


 真白の襟と帯をつかみ、丸太のような腕で持ち上げる。


 三息目。


 甚助の体が崖へ傾いた。


 真白は宙を飛んだ。


 甚助へぶつかり、二人で道の端へ転がる。崩れた土が谷へ降った。真白の右手は木の根をつかみ、左手は甚助の手首をつかんでいる。


 下には火が見えた。


 落ちた松明なのか、人なのかは見なかった。


「離せ!」


 甚助が叫ぶ。


「お前まで落ちる!」


「嫌です!」


「俺一人だ!」


「一人いるなら、十分です!」


 指が滑る。


 真白の腰で、黒鞘の刀が岩へ当たった。


 抜けば、根を切って姿勢を変えられる。だが柄へ触れた瞬間、腕が固まった。


 甚助の白い息が細くなる。


 真白は刀から手を離した。


「弁円さん!」


「呼ばれなくても来とるわ!」


 巨大な盾が地面へ突き立つ。弁円は盾の裏の縄を真白の胴へ投げ、二人まとめて引いた。


 甚助の肘が道へ乗る。


 真白は最後の力で腕を引いた。


 二人の体が、崖の上へ転がった。


 その瞬間。


 ちりん、と遠くで鈴が鳴った。


 戦場の音に紛れるほど小さいのに、真白の耳へはっきり届いた。


 同時に、甚助の白い息が消える。


 死んだのではない。


 咳き込み、泣き、土を殴っている。


 生きている。


「助かった……?」


 真白は自分の手を見た。


 これまで白い息は、避けても別の形で戻った。鎌蔵のように予告通り死ぬ者もいた。千吉を救えたときでさえ、屋根が落ちた後は夢中で確かめる余裕がなかった。


 今は分かる。


 死の筋そのものが、途中で断ち切れている。


「見ろ、真白!」


 弁円が叫んだ。


 火牛の群れが走り抜けた道に、空白ができている。甚助を助けるため真白たちが飛び込んだことで、後ろの牛がわずかに向きを変えたのだ。


 取り残されていた三人の源氏兵が、その隙間から退いてくる。


 真白は高台を見上げた。


 義景と目が合う。


 兄の扇は下りていた。


 怒っているのか、安堵しているのか。遠くて分からない。


 真白は、聞こえないと知りながら言った。


「だから、目の前からです」


 ◇


 夜明け前、戦は終わった。


 平家は峠を退き、源氏の陣には勝ったという声が満ちていた。


 真白は笑えなかった。


 谷底から上がる煙の中に、白い息がまだ漂っている気がした。


 甚助は右足を痛めたものの、自分で歩けた。何度も礼を言い、最後には真白の手を額へ押し当てようとした。


「やめてください。僕は神様ではありません」


「命の恩人だ」


「弁円さんがいなければ、二人で落ちていました」


「そうだぞ。俺も拝め」


「お坊様が自分で言うんですか」


 甚助が初めて笑った。


 懐から、汗でふやけた紙を出す。


「これ、読めるか」


 真白が受け取ると、丸い字で短い文が書かれていた。


 ――秋には子が生まれます。男でも女でも、あなたが名をつけてください。


「妻からだ。俺は字が苦手でな。仲間に三度読んでもらった」


「大事な文ですね」


「昨夜、谷へ落ちるとき、これだけは残したいと思った。誰かが拾って、里へ届けてくれんかと」


 甚助は紙を丁寧に畳み直した。


「でも、自分で持って帰れる」


 笑いながら泣いていた。


 真白が救ったのは一人だ。


 けれど、その一人を待つ人の時間も、まだ生きている。


 手を伸ばしたことが正しかったのだと、今だけは思いたかった。


 弁円が真白の肩を軽く叩く。


「一人は、一つではない。だから命は面倒なのだ」


「弁円さんにも、待っている人が?」


「寺の借金取りが三人ほどな」


「それは、帰らない方がよさそうです」


 三人で笑った。


 だが、真白の左手首には、細い冷たさが残っていた。


 甚助を引き上げた瞬間、何かが腕を通り抜け、峠の上へ吸われていった。命を助けたというより、行き先を変えたような感触だった。


「真白」


 義景が背後に立っていた。


 甚助の顔から笑みが消える。命令を破った者と、それを救った者。叱責を覚悟したのだろう。


 義景は甚助を一瞥し、真白へ向き直った。


「無事でよかった」


「兄上」


「二度とするな、と言ってもするのだろうな」


「はい」


「そこは嘘でも、うなずくところだ」


「すみません」


 義景は困ったように笑い、真白の髪についた土を払った。


「お前が救った一人のために、十人が死ぬこともある」


「分かっています」


「いや。まだ分かっていない」


 やさしい指が、ひどく冷たく感じられた。


「だが、それでこそお前だ」


 義景は去った。


 弁円が小さく息を吐く。


「褒められたのか、脅されたのか、どちらだ」


「兄上は、僕を心配しているだけです」


「そうだとよいがな」


 真白は答えず、遠くを見た。


 先ほど聞こえた鈴の音が気になっていた。


 峠の上。杉木立の奥に、小さな社が見える。


 一人で近づくと、縁側に虫籠が置かれていた。


 四つに仕切られた籠だ。


 中では鈴虫が鳴いている。


 いや、三匹だけだった。


 一つの仕切りにいる鈴虫は、脚を動かしながら音を出さない。


 籠の脇には、細い墨書きが貼られていた。


 東、西、南、北。


 鳴かなくなったのは、東の仕切りだった。


 真白が指を近づけると、左手首の冷たさが同じ場所で脈打った。


「戦のあとに虫見物か」


 縁側の奥から、老人が現れた。


 粗末な衣を着て、白い髪を肩まで垂らしている。手には握り飯が二つあった。


「あなたが鈴を鳴らしたんですか」


「わしは何もしておらん」


「では、誰が」


「おぬしじゃよ」


「僕は前にも、白い息の子を助けました。でも、鈴は」


「そのときは、ここへ通う道がなかった」


「道?」


 老人の目が、真白の左手へ落ちた。


 瑠璃を崖から引き上げた手首が、また冷たくなる。


「黒に触れた左手で、白い筋を自ら折る。そのときだけ、死の行き先が変わり、この鈴は鳴る」


「仲間が助けても?」


「おぬしが手を入れねば、ここへは来ぬ。今宵の若者は、おぬし自身が三息の死を曲げた」


 真白は冷えた手首を握った。甚助を救えた手だ。それなのに、掌へ小さな棘が残ったように痛んだ。


「あの人を知っているんですか」


「さてな」


 老人は握り飯を一つ差し出した。


 真白は受け取らず、相手の口元を見た。


 息がない。


 白くも黒くもないのではない。


 吐いていない。胸も動いていない。


 それなのに、老人は笑っている。


 背後の朝日に影が伸びた。


 老人の影ではなかった。


 猿の顔。虎の胴。蛇の尾。


 ありえない形が、社の壁を這っている。


 真白が刀へ手をかけると、老人はうれしそうに目を細めた。


「よいことをしたな」


 鳴かない鈴虫を指で示す。


「あと三つじゃ」


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