第3話 黒い息の姫
夜の山で待っていた少女の息だけが、墨を流したように黒かった。
真白は足を止めた。
少女は街道を外れた岩の上に座り、月を見ている。年は真白より一つ上ほど。旅装の上に薄い衣を重ね、長い黒髪を首の後ろで束ねていた。
腰には小さな鈴がある。
風が吹いても鳴らない鈴だった。
黒い息が、少女の唇から夜へほどける。
白ではない。
これまで真白が見てきた死は、すべて白かった。三息先で命が尽きる者だけが、冬の朝のような息を吐いた。
黒は初めてだった。
しかも、その筋は少女の胸元から海のように広がり、真白の左手へ絡みついている。
「来ないのかと思った」
少女が言った。
「僕を待っていたんですか」
「銀の髪をした、困った顔の男の子を」
「人違いです」
「髪も顔も合っているけれど」
「困ってはいません」
「では、どうして逃げる足をしているの」
真白は、半歩引いた足を止めた。
図星だった。
今夜、陣を抜けたのは頭を冷やすためだ。
小夜は義景に見つかった後、落とした干し柿を拾っただけだと言い張った。兄は地図を裏返し、笑って彼女を帰したという。
けれど小夜の袖には、赤い印を写した紙が残っていた。
囮。
村の名に添えられた一字が、真白の頭から離れない。
兄を疑いたくなかった。
だから夜の山へ来た。誰もいない場所でなら、信じたいという気持ちと、知りたいという気持ちを分けられると思った。
そこで、死より暗い息を見つけた。
「あなた、ここに一人でいてはいけません」
真白は言った。
「どうして」
「獣が出ます。兵も通る」
「あなたも兵でしょう」
「違います」
「刀を差しているのに?」
兄から贈られた黒鞘が、急に重くなった。
「これは、持っているだけです」
「変な人」
「よく言われます」
少女は岩から降りた。草履が土を踏むたび、黒い息が揺れ、真白の手へ伸びる。
近づかれるほど、逃げたくなった。
黒が何を意味するか分からない。分からないものを救えるとは思えない。それどころか、その死に自分が関わっている。
少女の瞳に月が映った。
「私の息は、何色?」
心臓をつかまれたようだった。
「なぜ、そんなことを」
「答えて」
真白は黒い筋を見た。
「きれいな色です」
「嘘が下手ね」
少女は少し笑った。
「でも、やさしい嘘」
「僕が何を見ているか、知っているんですか」
「三息先の死」
山の音が遠のいた。
「誰から聞いたんです」
「古い記録から。白い息を見る者は、死を告げるだけの者と、道を変える者に分かれる、と」
「道を変えられるかは、僕にも分かりません」
「それでも手を伸ばすの?」
「伸ばさなければ、見えた意味がないから」
「救ったせいで、別の誰かが死んでも?」
村の炎と、源兵衛の途切れた声が戻る。
「……それでもです」
瑠は真白の顔を長く見た。
「記録にあった通り」
「何がですか」
「白い息を見る者は、愚かなくらいやさしい。だから、いちばん残酷な鍵になる」
意味を尋ねる前に、瑠は視線をそらした。
「先に名を教えて」
「あなたからです」
「では、瑠」
「る?」
「瑠璃の瑠。それで十分でしょう」
本名ではない。だが嘘でもないらしい。
真白は迷った末に答えた。
「白」
「見たままね」
「お互いさまです」
瑠は声を立てずに笑った。
その瞬間だけは、黒い息を忘れそうになった。
◇
二人は山道を歩いた。
真白は陣の場所を言わず、瑠も帰る先を言わない。互いに逆の陣営かもしれないと気づきながら、聞かなかった。
細い沢へ出ると、瑠が水筒を取り出した。
「空だったわ」
「貸してください」
真白は沢で水を汲み、戻った。先に飲むよう勧めると、瑠は水筒を見つめたまま動かない。
「毒は入れていません」
「そうではなくて。先にあなたが飲んで」
「僕が飲んだら、毒がなくなるんですか」
「あなたが倒れた後で捨てられる」
「用心深いんですね」
「生き残った人は、たいていそうなるの」
真白が一口飲むと、瑠も同じ口から飲んだ。
なぜか目をそらしたくなり、真白は空を見上げる。
雲の切れ間に星が見えた。
「都では、こんなに見えませんでした」
「都にいたの?」
「昔だけ」
「私も。星より、火の方が多いところだった」
「火?」
「夜ごと宴をしていたから」
瑠は言い直したが、一度目の答えの方が本当だと分かった。
都を焼く火か、戦の火か。
尋ねる前に、茂みの奥で枝が折れた。
獣の唸り声がする。
真白は瑠の前へ出た。
「下がって」
「刀は抜けないのに?」
「抜けなくても、立てます」
暗がりに二つの目が光った。痩せた山犬だ。真白は鞘ごと刀を抜き、地面を強く打つ。音に驚いた山犬が一度退き、なおも唸る。
瑠が足元の石を拾った。
「右へ追って」
「え?」
「左は崖よ」
瑠が石を投げる。真白も同時に踏み込み、鞘で地を払った。山犬は右の藪へ逃げた。
二人は顔を見合わせた。
「息が合いますね」
「あなたが遅いから、合わせたの」
強い言葉のわりに、瑠は楽しそうだった。
だが腰の鈴だけは、走っても一度も鳴らない。
「その鈴、壊れているんですか」
瑠の笑みが消えた。
「鳴らないようにしてあるの」
「どうして」
「鳴ったら、終わるから」
真白が問い返す前に、瑠の黒い息が濃くなった。
一瞬、山が消えた。
潮の匂い。
燃える舟。
海へ沈む赤い旗。
濡れた瑠が真白を見上げている。胸元には刃があり、その柄を握っているのは真白だった。
左手だけは刃から離れ、何かをつかもうと開かれている。
――殺して。
声がした。
真白は我に返り、瑠から飛び退いた。
「どうしたの」
「来ないでください」
喉が乾く。
「僕に近づかないで」
「何を見たの」
「何も」
「今度の嘘は、やさしくないわ」
真白は背を向けた。
あの黒は、遠い死だ。
白い息のように三つで訪れるものではない。逃げても、道を変えても、歴史そのものが追ってくる。そう直感した。
そして終点には、自分がいる。
「一人で戻ってください」
「さっきは、一人でいてはいけないと言ったのに」
「気が変わりました」
「臆病者」
「そうです」
十歩、歩いた。
背後で小石が崩れる音がした。
振り返ると、瑠の姿がない。
真白は駆け戻った。道の端から身を乗り出す。瑠は斜面の木の根につかまり、片足を宙へ投げ出していた。
「手を!」
「来ないでと言ったのは、あなたでしょう」
「今は、僕が近づくんです!」
腹ばいになり、腕を伸ばす。瑠の指をつかんだ瞬間、黒い息が左手を包んだ。
海の幻がまた閃く。
それでも離さなかった。
瑠を道へ引き上げ、二人で土の上に転がる。
瑠の指は、それでも真白の左手から離れなかった。
玉砂利がまだ崖へ落ちていく。その小さな音を聞くたび、瑠の爪が掌に食い込んだ。夢の海では刃を受け入れるほど静かだった少女が、今は呼吸を整えられずにいる。
「痛いですか」
「違う」
瑠は笑おうとした。いつもの形まで唇が上がらない。
「夢で死ぬ方が、もっと簡単だと思っていたの」
「簡単なはずはありません」
「そうね」
細い声だった。
「本当に落ちかけて、分かったわ。私は、あんなふうには死にたくない」
「なら、死にたくないと言ってください」
「誰に?」
「まず、自分に」
瑠は黙った。
山道の下で、平家の篝火が一つ揺れた。そこへ戻れば、姫の顔に戻り、家を守る死だと言えばいい。ここで口にした怖さは、なかったことにできる。
「今の言葉、忘れて」
「嫌です」
「命令よ」
「敵の命令は聞けません」
初めて、瑠が本当に笑った。短く、困ったような笑いだった。
言い終わると、自分の弱さを見せたことが罪でもあるように、瑠は急いで指をほどいた。
「逃げないの」
瑠が尋ねた。
「逃げたいです」
「では、なぜ」
「一人にしたら危ないから」
「それだけ?」
「それだけで、十分です」
瑠は目を閉じた。泣いているのかと思ったが、開いた瞳は乾いていた。
「夢と同じ」
「夢?」
「銀の髪の子が、海で私へ刀を向ける夢。何度も見た」
瑠は真白の左手を見た。
「でも、いつも左手だけは開いている。殺すなら、両手で持てばいいのに」
「僕も見ました」
隠しても無駄だと思った。
「燃える舟と、海を。僕が、あなたに刃を向けていた」
「そう」
瑠は驚かなかった。
「だから確かめに来たの。この鈴を守る者の記録を盗んで、夢に出る銀髪の少年を探した」
「鈴を守る者?」
「今は言えない」
瑠は立ち上がり、衣についた土を払った。
「ここからは一人で戻れるわ」
「でも」
「これ以上来たら、本当に敵になる」
木々の向こうに、赤い篝火が見えた。
平家の陣だ。
真白が息を呑む。
瑠は数歩進み、振り返った。
「名を聞かせて、白」
「あなたが先です」
「平家の娘、瑠璃」
偽りの一字が、名になった。
次に彼女は、教えていないはずの名を呼んだ。
「また会いましょう、真白」
黒い息が月を横切る。
「あなたは、壇ノ浦で私を殺す人だから」




