第2話 兄がくれた刀
九年ぶりに会った兄は、真白の足の大きさを知っていた。
「履いてみろ」
義景が差し出した草履は、鼻緒の位置までぴたりと合った。
底にはまだ土が一粒もついていない。焼けた村を見てから調えたものではなかった。
焼けた村を発って半日。真白たちは、山裾に置かれた源氏の陣へ身を寄せていた。白い陣幕の内側には、兵の怒鳴り声と馬のいななき、粥を炊く湯気が渦巻いている。
「きつくないか」
「……ちょうどです」
「そうか。大きめに作らせたつもりだったが」
「いつ、作らせたんですか」
義景は一拍だけ黙った。
「弟を迎えるのに、裸足で歩かせるわけにはいかないだろう」
答えになっていない。
真白がもう一度問おうとしたとき、喉の奥から咳が込み上げた。火事の煙を吸いすぎたせいだ。視界が揺れ、額へ置かれた兄の手だけが冷たく感じられる。
「熱があるな。話は後だ」
「村の人たちの寝る場所が」
「用意させた。焼け残った米も運ばせている。玄斎殿が見てくれている」
「小夜は」
「ここにおるわ、病人」
寝床の陰から、小夜が顔を出した。煤は落としたものの、短い髪はまだあちこち跳ねている。胸の欠けた鈴だけは、洗ったらしく鈍い光を取り戻していた。
「にいやんは、自分以外の心配しかできんの?」
「自分はここにいるから」
「そういうところや」
小夜が呆れた顔をし、義景が笑った。
「よい妹ができたな」
「勝手に決められました」
「家族とは、案外そういうものだ」
義景は小夜の胸元で、欠けた鈴が揺れるのを見た。
「千代という姉がいるそうだな」
小夜の顔から、いたずらっぽさが消えた。
「なんで知ってる」
「井戸から救われた子が、眠るまで何度も呼んでいたと聞いた。探させよう。生きているなら、必ず連れ戻る」
小夜の指が鈴を包んだ。礼は言わなかった。それでも義景を見る目に、初めてすがるような光が宿った。
真白は、その光の行き先を覚えていた。
その声がやさしすぎて、真白は目を伏せた。
母が死んだ後、真白は都の屋敷を離れた。父の違う兄とは、それきりだった。
恨んだことはない。忘れたこともない。
ただ、会いたかったと口にするには、九年は長すぎた。
「兄上は、僕を探していたんですか」
「ずっと」
義景は迷わなかった。
「ようやく見つけた」
真白の胸の奥で、固まっていたものが少しだけほどけた。
それを見透かしたように、義景は真白の肩まで夜着を引き上げる。
「眠れ。目が覚めても、私はいる」
その夜、真白は熱に浮かされた。
夢の中で、母が廊下の向こうにいる。
唇から白い息がこぼれた。
一息。
二息。
走っているのに近づけない。
三息目を数えかけたところで、誰かが左手を強く握った。
「真白。ここにいる」
目を開けると、義景が寝床の脇に座っていた。
灯明は半分まで減っている。濡れた布と水桶があり、兄の袖は真白の汗で濡れていた。
「また、母上の夢を見たのか」
真白は息を止めた。
「どうして」
「昔もそうだった。夢の中で三つ数え、左手で母上を探した」
「覚えていたんですか」
「お前のことなら」
義景は、握っていた手を離さなかった。
「何でも覚えている」
うれしいはずの言葉だった。
けれど真白の胸に浮かんだのは、ぴたりと合った草履だった。
九年前の足では、今の大きさは分からない。
義景は、真白を見つけてから草履を用意したのではない。
どこにいるか。どれほど育ったか。火の手が上がる前から、誰かが兄へ知らせていた。
そう考えると、ぴたりと合う鼻緒が、足首へ絡む細い縄に思えた。
◇
翌朝、熱は下がった。
真白が陣幕を出ると、玄斎が腕を組んで待っていた。
「病み上がりを連れ出す気か」
義景は、真白の前で笑うときとは違う顔をした。
「顔色は戻りました。いつまでも焼け跡に置く方が酷でしょう」
「来るのが早すぎると言うとる」
玄斎の声は低い。
「あの村が襲われたと、どうしてその日のうちに分かった」
「近くに斥候を置いていました」
「なぜ近くに」
「平家方の間道を探るためです」
整いすぎた答えだった。
義景は烏羽を挿した扇を開き、朝日を避けるように目元へかざした。鎌頭組の銭にあった印と、よく似た羽だった。
真白はそれを尋ねようとした。
だが義景は先に、細長い包みを差し出した。
「快気祝いだ」
包みを解くと、黒い鞘の刀が現れた。飾りはない。柄糸だけが新しく、真白の手になじむよう細く巻かれている。
「僕には」
「必要になる」
「人は斬れません」
「斬れとは言っていない。守るために持て」
真白は柄へ手を置いた。
榎の家で、鞘から刀を抜けなかった感触が戻る。指が冷えた。
「戦は嫌いか」
義景が尋ねた。
「はい」
「なら、私が終わらせる」
風が陣幕を鳴らした。
「お前は、お前にしか救えない者を救えばいい」
その言葉は、真白がいちばん欲しかった許しに似ていた。
玄斎だけが、苦いものを噛んだような顔をしている。
「真白。刀は受け取っても、言葉まで預けるな」
「玄斎殿は私がお嫌いらしい」
「好かれるような生き方をしてから言え」
二人の間にあるものを、真白は知らない。
義景は笑って受け流し、真白の腰へ自ら刀を差した。
「似合う」
兄に褒められた子どものように、真白の頬が熱くなった。
結局、その日一度も刀を抜けなかった。
昼すぎ、真白は村人のために用意された天幕を回った。
千吉は火傷の薬を塗られ、眠っている。母親は何度も頭を下げた。真白は、その隣に源兵衛の家族がいるのを見つけ、逃げるように外へ出た。
救えた者の顔を見ると、救えなかった者の顔も浮かぶ。
帳面を開く。七つの名の下へ、何か書こうとしてやめた。
生きている人は書かない。
小夜との約束だった。
「数にしないための帳面か」
義景が隣へ立った。
「勝手に見ないでください」
「すまない。だが、よい習慣だ」
「よくありません。増えない方がいい」
「戦が続くかぎり、増える」
義景の声には慰めがなかった。だからこそ、真白には本当の言葉に聞こえた。
「兄上は、何人覚えていますか」
「私の命令で死んだ者を?」
真白はうなずいた。
「名前までは覚えていない」
「それで平気なんですか」
「平気になったことはない。だが、名を一つずつ抱けば、次の命令が遅れる。その遅れで死ぬ者もいる」
義景は帳面を閉じた。
「お前は覚えろ。私は決める。兄弟で役目を分ければいい」
やさしい提案だった。
同時に、越えてはいけない線を引かれたようにも感じた。
真白は懐から、玄斎が返してくれた銭を出した。
烏の羽に似た刻印がある。
「これを知っていますか」
義景の扇に挿された羽が、風で揺れた。
「都の御使が使う通行銭だ」
「鎌頭組が持っていました」
「役人を襲って奪ったのだろう」
「鎌蔵は、八咫烏が鈴を、と言いました」
義景は銭を指先で弾いた。
「死に際の男は、聞きかじった大きな名を口にする。自分の死を大きく見せたいからだ」
「八咫烏は、大きな名なんですか」
「古い昔話だよ」
兄は笑い、銭を真白の掌へ返した。
「化け物を封じ、帝を守る三本足の烏。子どもを怖がらせるには役に立つ」
話は終わりだという笑みだった。
けれど真白は見た。
銭をつまんだ兄の人差し指に、黒い粉がついている。
扇の烏羽と同じ匂いのする、細かな煤だった。
◇
夕刻、小夜は兵糧所から干し柿を二つくすねた。
一つは自分の分。もう一つは、薬湯で口が苦いと言った真白の分だ。
戻る途中、義景の陣幕だけが開いていた。
中には誰もいない。
文机の上で、石に押さえられた紙が風に鳴っていた。
小夜は通り過ぎかけ、足を止めた。
地図だった。
山、川、細い道。読める字は多くない。それでも、自分の村の名くらいは分かる。
墨で書かれた村名の上に、赤い丸がある。
その脇に、たった一字。
囮。
襲われる前の日付が、端に記されていた。
「おとり……」
意味を確かめるように呟く。
村の周りから三本の線が伸び、山中の道へ続いている。線の先には、平家方、移動、確認済み、と流れるような字が並ぶ。
小夜は机の隅に目をやった。
兵へ出す書状が置かれている。
同じ字だった。
七人が死んだ。家が燃えた。井戸へ入れた覆面の男は、襲撃より先に来ていた。
そして義景は、その日のうちに現れた。
小夜は地図を持ち上げた。全部を持ち去れば、すぐに分かる。端に重ねられた薄紙へ赤い印と文字を素早く写し、袖の中へ滑らせる。
千代なら、こんなときどうするだろう。
姉は字が読めた。村を出て、都の商家で奉公しているはずだった。春に届いた文には、夏までに迎えへ行くと書いてあった。
その文も、家と一緒に焼けた。
千代を探すには、真白のそばにいるしかない。けれど真白は、兄の言葉を信じたがっている。
なら、自分が疑う。
小夜は写し紙を袖の奥へ押し込んだ。
干し柿が一つ、床へ落ちた。
拾おうと屈んだとき、紙の上を長い影が横切った。
烏羽を挿した扇の影だった。
「小夜」
背後の声は、真白に向けるときと同じくらいやさしい。
「何を見た」




