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第1話 三息後の死

「あなたは、三息後に死にます」


 真白は、燃える茅葺き屋根の音に負けないよう声を張った。


 馬上の男が振り向く。鎌を思わせる刃の斧を担ぎ、頬から顎へ古い傷を走らせた、鎌頭組の頭領――鎌蔵だった。


 夏を待つ山里は、火と血の匂いに満ちている。それなのに鎌蔵の口からは、冬の朝のように白い息がこぼれていた。


 白は風に流れない。細く尖り、鎌蔵の左後ろへ、そこから崖下へ折れている。


「三つ数えりゃ俺が死ぬだと?」


 鎌蔵は黄色い歯を見せた。


「数えてみろ、白髪」


 一息目。


 火を食った梁が裂け、乾いた音を立てて馬の鼻先へ落ちた。馬が前脚を高く跳ね上げる。


 二息目。


 鎌蔵の左足が鐙を踏み外し、革輪に深く絡んだ。落ちまいと振り回した斧が馬の尻を叩く。


 三息目。


 狂った馬は、真白ではなく、崩れた柵の向こうへ駆けた。鎌蔵の体が鞍から抜ける。足だけを奪われたまま引きずられ、土煙の筋を残し、馬もろとも崖下へ消えた。


 遅れて、岩へ何かがぶつかる音がした。


 真白は息を吐いた。数える間、止めていたらしい。喉に煙が刺さり、腹の奥が縮んだ。


 当たった。


 また、当たってしまった。


「頭が落ちたぞ!」


 賊の一人が叫んだ。恐慌が鎌頭組の間を走る。だが逃げたのは二人だけだった。残りは、銀がかった髪の少年へ一斉に顔を向けた。


「化け物だ。あいつを先に殺せ!」


 白い息が、五つ。


 斜面の上。燃える納屋の前。道を塞ぐ荷車の陰。どれも薄く伸び、互いに交わり、村人の逃げ道まで覆っていた。


 見えるのは死因ではない。死が来る向きと速さだけだ。誰が誰を斬るのか、どの火がどの家を呑むのか、その答えは白い筋が三度縮むあいだに探すしかない。


 三息目は、心の臓が止まる時ではない。


 本人が肺で呼吸する回数とも限らない。白い道が三段に折れ、死の方へ縮む。真白はそれを、三息と呼んでいた。


 そのまま進めば、死へ至る道が決まる時だ。


 鎌蔵は三息目に崖へ落ちた。まだ命が残っていても、そこから自力で戻る道はない。逆に、誰かが手を入れて道を変えれば、白い筋も別の場所へ移る。


 だから真白は、三息の間だけは目を逸らさない。


「真白!」


 玄斎の声が飛んだ。


 白髪交じりの老人が木刀で賊の手首を打ち、泣き叫ぶ子どもを背にかばっている。腰には刀があるのに、抜いていない。真白が人の血を見ると動けなくなることを、誰より知っているからだ。


「水路へ走らせろ。西の火が回る前に!」


「先生、榎の家にまだ――」


「聞こえとる。じゃが、お前の足は二本しかない」


「白い息は五つです。村の人は二人」


「なら、五人を追うな。二人を見ろ」


「両方は」


「できん」


 玄斎は言い切った。その一言に迷いがないことが、真白には腹立たしかった。


「わしを恨むのは後じゃ。足を動かせ」


 燃える家の奥から、幼い声がした。道の反対では、源兵衛が倒れた戸板の下で助けを呼んでいる。二人の息が同時に白くなる。


 真白の視界に、別の白が重なった。


 七歳の夏。母の唇からほどけた白い息。手を伸ばしたのに、廊下はどこまでも長く、三度目の呼吸だけが先に終わった。


 もう見送らないと決めた。


 決めたはずなのに、左右から名を呼ばれる。


「真白、選べ!」


 玄斎の怒声が、過去を断った。


 真白は榎の家へ走った。


 背後で源兵衛の声が途切れた。


 考えるな。今は、まだ息をしている方へ。


 戸口は火の壁になっていた。真白は水甕を蹴り倒し、濡れた莚を頭からかぶる。熱が頬を叩いた。梁の白い筋は右下へ落ちようとしている。左へ身を沈め、火の粉の下を抜けた。


「千吉!」


 返事は床下からした。少年は床板の隙間に片脚を挟まれ、泣く力も失いかけていた。


「息を吸って。僕が三つ数える」


「こわい……」


「僕もだよ」


 真白は本当のことを言った。床板の白い筋は真上から来る。刀なら一度で割れる。だが、鞘に手をかけると指が固まった。


 人を斬る感触まで想像してしまう。


 真白は刀を捨て、焼けた棒を梃子にした。


「一つ」


 床板が軋む。


「二つ」


 千吉の脚が抜けた。


「三つ!」


 二人が戸口へ転がり出た直後、屋根が落ちた。火の塊が背中を舐める。玄斎が莚ごと二人を引きずり、水桶を浴びせた。


「立てるか」


 千吉が何度もうなずく。


「なら水路へ行け。振り返るな」


 少年が走り出してから、真白は道の反対を見た。


 源兵衛の息は、もうどこにもなかった。


「お前が殺したんじゃない」


 玄斎は言った。


「僕が選びました」


「そうじゃ。だから忘れるな。だが、ここで止まるな」


「忘れなければ、許されますか」


「許されるために覚えるんじゃない」


 玄斎は真白の肩を一度だけ押した。


「次に手を伸ばすためじゃ」


 賊の怒号が近づく。頭領を失っても、村から奪ったものを捨てる気はないらしい。三人が真白を囲み、一人が火矢を番えた。


 矢羽が妙に新しかった。長さも色も揃っている。山賊が拾い集めた矢ではない。


 真白は道の中央へ出た。


「こっちです」


「何をしとる!」


「水路から離します」


 声が震えた。膝も震えている。賊には笑いと同じに見えたらしい。


「見えるだけの餓鬼が!」


 火矢が放たれる。


 矢の先ではなく、射手の息を見る。白い筋は頭上から真下へ落ちていた。真白はその場に伏せた。火矢が背後の縄を焼き切る。斜面に積まれていた薪が崩れ、射手を押し流した。


 残る二人が左右から来る。


 右の男には白がない。左の男にはある。


 斬れば早い。けれど真白は鞘から手を離し、左へ一歩だけ寄った。二人の刃が同時に届く寸前、足元の灰を蹴り上げる。


「目くらましか!」


 右の男が振った刀を、左の男が避ける。白い筋が折れた。避けた先に、鎌蔵が落とした斧が立っている。


 鈍い音がした。


 真白は見なかった。


 右の男の腕を玄斎の木刀が打つ。刀が落ちる。村人たちが鍬や棒を手に集まり、残った賊を追い立てた。


 勝ちどきは上がらなかった。


 燃える家が多すぎた。


 日が傾くころ、火はようやく土と水の下へ伏した。村の半分は黒い骨組みになっていた。真白は一軒ずつ回り、呼びかけ、瓦礫に耳を当てた。


 返事のない場所が七つあった。


 崖下では、鎌蔵がまだ息をしていた。脚はありえない向きに曲がり、喉からは細い泡が鳴っている。白い息はもう糸ほどだった。


「どうして、この村を襲った」


 鎌蔵は焦点の合わない目で真白を探した。


「八咫烏が……鈴を……」


「鈴?」


「化け物、め……」


「違う。見えただけです」


 鎌蔵は口を歪めた。それが笑いだったのか、痛みだったのかは分からない。四度目の呼吸は来なかった。


 真白は坂を上り、賊の荷を調べた。干し肉、油、火口、よく研がれた鏃。革袋からこぼれた銭の一枚に、鳥の羽に似た刻印があった。


 玄斎が横から拾い上げる。


「先生、この印を知っていますか」


「知らん」


「先生」


「知らんと言うた」


「嘘をつくとき、鼻の横を触ります」


 玄斎の指が、鼻の脇で止まった。


「お前は余計なところばかり見よる」


 答えが早すぎた。


 真白が顔を上げると、玄斎は銭を握り込んでいた。古傷の多い指が、わずかに震えている。


 そのとき、焼け残った井戸の方から、石を叩く音がした。


 こん、こん、こん。


 真白は駆けた。井戸には重い板蓋が載せられ、その上へ縄が二重に巻かれている。襲撃のさなか、誰かがわざわざ閉じた形だった。


「中にいるの?」


「いる! いるよ!」


 かすれた少女の声が返る。


 玄斎と二人で縄を切り、板を外す。浅い横穴に、煤で顔を汚した少女がうずくまっていた。十三ほどだろう。短く切られた髪に蜘蛛の巣をつけ、胸元には欠けた鈴のような金具が光っている。


 真白が縄を下ろすと、少女は自分で結び、震える脚で上ってきた。地面へ降りた途端、真白の袖をつかむ。


「みんなは」


 真白は答えられなかった。


 少女の目が、焼けた村を一周する。泣き声は出なかった。代わりに、つかんだ袖が強くねじれた。


「名前は」


「小夜」


「どうして井戸に?」


「知らない人に入れられた。まだ、誰も来てないうちに。ここを出るなって」


「どんな人だった」


 小夜は首を振った。


「顔、布で隠してた。声も変えてた。うちが噛みついたら、怒らずに笑った」


「笑った?」


「『生きたければ三つ数えて待て』って。三つどころか、百回数えたわ」


「怖かったね」


「べつに。井戸の底は涼しかったし」


 強がった直後、小夜の歯が小さく鳴った。


 玄斎の手の中で、烏羽印の銭が鳴った。


 日が落ちた。


 真白は焼け残った社の石段に座り、懐から小さな帳面を出した。紙の端は何度も開かれて柔らかくなっている。


 源兵衛。おつね。佐吉。弥乃。清太。まつ。伊平。


 一人ずつ、名を書く。


 助けられなかった者を、数にしないための帳面だった。


「にいやん」


 隣に座った小夜が、そう呼んだ。


「僕?」


「ほかにおらん」


「会ったばかりなのに」


「井戸から引っぱり上げたやろ。そういうのは、にいやんでええ」


「ずいぶん簡単に決めるんだね」


「死ぬよりは簡単や」


 泣かなかった少女の声が、そこで初めて震えた。


「その帳面、死んだ人を書くん」


「うん」


「生きてる人は」


「書かない」


「なら、うちはそこに書くなよ。千代を探さなあかんから」


 知らない名だった。真白が尋ねる前に、小夜は唇を強く結んだ。


 真白は帳面を閉じた。小夜の頭へ手を置こうとして、煤だらけの自分の手に気づき、膝の上へ戻す。


 小夜の方から、その手を取った。


 蹄の音がした。


 一騎だけではない。坂の下に松明が並び、揃いの具足を着た兵たちが村へ入ってくる。先頭の男だけが馬を降りた。


 黒髪を高く結い、旅埃ひとつない衣を着ている。手にした扇には、一枚の烏羽が挿してあった。


 真白の記憶より背が高い。けれど、笑うと左の口角だけが先に上がる癖は変わっていなかった。


 男は焼け跡にも、並べられた亡骸にも目を向けず、まっすぐ真白の前へ来た。


「ひどい目に遭ったな」


 差し出された包みから、甘い匂いがした。


 栗餅だった。


 幼いころ、真白が熱を出すたび欲しがったもの。母が死んでから、一度も口にしていないもの。


 男は、九年会っていない弟へ昨日も会ったように笑った。


「迎えに来たぞ、弟よ」


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